雨籠
一
大粒の雨が勢いよく降っている。雨に包まれた校庭には、普段なら校庭で部活に励んでいる陸上部やサッカー部の姿はなく、薄い青と校庭だけが静かに佇んでいた。外で練習できない代わりに室内でランニングをする運動部のどたどたという不快な足音が天井から僕を脅かし、音楽室で演奏の練習をする吹奏楽部の金管楽器の音が、放課後の校舎に響いていた。
なんとなく、息が詰まる心地がして落ち着かなかった。それは今だけの話ではなく、ここ最近ずっと。気道のどこかに大きな異物があって、息をするたび空気がそれにつかえるような違和感を、ずっと抱えていた。僕はそれらの全てを見ないようにしている。
「小森くん?……小森くん? ああ、それでね、小森くんは学校生活で、どんなことに悩んでいるのかな? 些細なことでも良いから私に少しお話してもらえませんか?」
体育館で使うパイプ椅子よりも少しクッションの効いた肘掛けのある群青色の椅子と白い長方形の机が置かれただけの簡素なカウンセリングルームとやらに通された僕は、促されるまま荷物を壁際の棚に置き、椅子に腰掛けた。うちの中学のスクールカウンセラーだという神田さんの自己紹介を聞き流しながら、窓の外で降る雨を眺めていた。神田さんは、放心していた僕に敬語とタメ口混じりのいかにも相手を慮ったような、優しそうに聞こえる声色で問いかけて来た。
「悩み、いや、そう言われても、そもそも自分から来た訳ではないですし」
少し間を置いてから、尻すぼみになる声で僕は小さく絞り出した。悩み、全くない訳ではないが、いざ「どんなことに悩んでいるのか」と聞かれると、何一つ言葉が見つからない。そもそもこんなところに来ることになってしまったのだって、僕が言い出したことではない。担任の住岡先生が帰りの会の後に僕を呼び出したかと思えば、半ば強制的にカウンセリングを受けることを指示してきたのだ。聞けば、僕が二年になってからほとんどソフトテニス部の練習に出ていないことを顧問の岩井先生が住岡先生に相談してきたらしい。住岡先生は「俺もちょっと最近小森が元気ないように見えたからさ、岩井先生と相談して、一回スクールカウンセラーの神田さんと話してみると良いんじゃないかってことになったんだ。俺や岩井先生だと話しにくいこともカウンセラー相手だったら話しやすいだろうと思ってな。学校のルールでカウンセリング中に話したことは基本守秘義務ってやつがあって俺の耳に入る心配もないから一回行ってみるといいよ。十六時から三十分予約してあるから、この後用事でもなけりゃ行ってきな」と僕の許可も取らずに一方的にこのカウンセリングの時間を設けたのだ。「僕には悩みなんかない」と多少は抵抗したが、住岡先生の頭の中では既に決定事項らしく、家に帰っても大してすることがないのは事実だったので、抵抗は諦めた。部活に出ていないのは、ただ元々運動が苦手で行きたくなかったからに過ぎない。部活に入ったのも、うちの中学では部活動への参加が必須で、母に運動はしておいた方が良いと運動部をすすめられて適当にそこまで厳しくなさそうなソフトテニス部を選んだだけという消極的な理由だ。僕は悩みがあるように見えるのだろうか。僕は元気がないように見えるのだろうか。それはまるで僕が可哀想みたいじゃないか。僕に悩みはないし、可哀想ではない。しかしそれとは裏腹に、この窮屈なカウンセリングルームに足を踏み入れた時、いや住岡先生に呼び出されて話を聞かされていた時辺りから、漠然とした違和感が質量を持ったなにかへと徐々に姿を変え始め、僕の首を黒い靄が取り巻いて少しずつ首を絞めていくような心地がした。
「そうですよね。いきなりカウンセリングに連れて来られてもって感じですよね。私も中学生だった頃は自分がカウンセリングを受けることになるなんて思ってなかったな。カウンセリングって言うとかしこまった感じがするけど、実際そんなことはないので気負わずにいてくださいね。それで、本題、ではないんだけど、小森くんの担任の住岡先生から、小森くんが二年生になってから部活に来てないって聞いていて、それには行っていない理由などはありますか? どんな理由でも私が住岡先生に言うことはないから教えてくれませんか?」
「それは、単純に、僕が運動が元々苦手、というか好きじゃなくて、それで普通に行きたくなかっただけ、です、ね」
伏し目がちになりながら話す僕に、神田さんは手元のバインダーになにやらメモを取り、「そうなんですね」と言いながら頷いた。
神田さんはそれから、普段の学校や家での生活について、学校での友人関係や家族との関係についてなど、様々な質問をしてきた。どの質問に答えてもどこか後ろ向きな答えしか出すことができなかった。墨汁を垂らした水が黒く染まる如く、どこからか発生した歪が僕の平坦な世界を歪ませていく。
神田さんの質問に答えている内に、僕はだんだんと、自分が惨めな気がしてきていた。優しく親身になっているように見えて、僕には悩みごとがあり、良くない状況にいることが前提かのように質問をしてくる神田さんの態度が僕を可哀想にさせた。小さなささくれが、ぺりぺりと途切れることなくどこまでも剥がれていくような痛みと不安と気持ち悪さを感じる。僕は決して可哀想なんかではない、という対抗心に近いものの裏に、惨めに独り蹲る僕がいるように思えてきた。神田さんの僕を憐れむような同情の声が痛い。他の生徒が部活動に勤しむ中、僕はこの部屋でカウンセリングを受けているという事実そのものが僕の劣等感を強く煽った。「元気がないように見える」という住岡先生の言葉が頭の中で反芻され、机の上で組んだ手を見ながら考え込む内に、心の奥の奥の方から得体の知れない何かが顔を出したような気がした。六月の初め、湿度が高く蒸し暑くて不快な空気が漂う部屋の中に閉じ込められた僕の背を、嫌な脂汗が伝い始めていた。汗が止まることはなかった。運動が嫌いだから部活に出ていないというのに嘘はない。ただ、確かに、僕の心の奥に、部活に行きたくない別の理由があることに、気が付き始めていた。いや、思い出してしまった。部活に出ても楽しくなかった。同級生や先輩と馴染めずに、黙々と好きでもないソフトテニスの練習をするのが苦痛だった。ペアを組めと言われるといつも余って顧問の岩井先生と組むか、一人で壁に向かってボールを打っていた。それが堪らなく惨めで辛かった。恐らくこれが僕が部活に出られなくなった本当の理由だ。けれど、それを神田さんに話す気にはなれない。小学校高学年辺りから感じ始めた心の違和感を、中学に上がり一年かけてようやく飲み込んでいた、つもりだった。友達ができないこと、人の輪に混ざれないこと、学校に居場所がないこと、学校にいても家にいてもいつもどこかで疎外感を感じていたこと、そんな僕を時折憐れむような目で見つめる先生や母の顔、全てが苦しかった。それでも、僕はそういう性格なのだ、そういう星の元に生まれたのだ、と自分に言い聞かせて受け入れようとしていたこと。ずっと勘違いしていた。僕は比較的無欲な人間だと思い込んでいた。けれど違った。僕は僕が傷付かないよう無意識下で全てを諦めていだけだったのだ。だとしたら、だとしたらそれは凄く惨めで愚かじゃないか。他人から向けられた憐れみが、僕が無意識の内に堰き止めていた感情のダムを決壊させて、どろどろとした暗い感情が僕を容赦なく襲い始めた。
神田さんはそれからもいくつか質問を投げかけてきたが、僕にはもう話す気力もなく、投げられたボールを放りだして、黙りこくってしまった。ただ呆然と神田さんの肩の向こうに見える、雨に包まれた校庭の景色を眺めていた。雨の線状は鉄格子のように見えた。もう、どこにも行けない気がした。
雨がビニール傘をぱたぱたと打つ。カウンセリングが終わるとすぐに逃げるように帰路に着いた。誰にも言わず、自分でも見て見ぬ振りをしていた感情が僕の胸を締め付けた。悔しかった。寂しかった。運動ができず、唯一僕を支えていた勉強の成績も徐々に落ち始めていて上に、友達もできず、楽しいことが一つもない学校生活が恥ずかしくなった。二人並んで楽しそうにお喋りしながら帰る女子を足早に抜き去って、住宅街の中でも人通りの少ない路地に入った。何かから逃れるようにただひたすらに歩いたが、歩けば歩くほど、蜘蛛の巣に絡まるように、無力感や劣等感が僕に絡みついて解けなくなっていく。気が付いた時には目を涙が覆い尽くし、ぼたぼたと雨と一緒に地面に落ち始めた。僕は雨の中、ただ独り立ち尽くすことしかできなかった。何が足りなかった。どこで間違えた。学校では本を読み、家に帰ったら録り溜めたアニメを見て、宿題をこなして眠る。それで良かったじゃないか。それで良かったんじゃないのか。ビニール傘を深めに持って、顔を隠した。傘の中に閉じ込められた僕は、鳥籠に閉じ込められた鳥のように無力だった。止まらなくなっていた涙は、何よりも雄弁だった。
涙が止まるまでひとしきり泣いた後、僕は泣いていたことを母や弟に悟られないために、傘を閉じて雨を少し浴びてから帰った。僕は家に帰ると洗面所で濡れた髪の毛や顔やリュックサックをタオルで拭いてから、すぐに二階へ行き自分の部屋に閉じ籠もった。日課のアニメ観賞も溜まっていた宿題も、その日は全くやる気が起きなかった。
遠くの方から「ピピピピ」という一定のリズムを刻む音の束が迫ってくる。日の当たらない深い海の底を漂っていた身体が突然海面まで引き上げられる。朝の七時。不快な電子音による、不快な目覚め。布団にしがみつこうとする身体を起こして洗面所に向かうべく、神経を通して全身に指令を出す。しかし、身体からのレスポンスは一切ない。寝て起きれば消えるだろうとどこかで楽観していた感情達は依然心の中心に居座っている。淀んで重たくなった空気が、掛け布団の上から僕を重たく押さえつけて起き上がることを許さなかった。それは「学校に行きたくない」なんて生易しいものではなく、僕は起き上がることがもはや不可能であることを悟った。そんな僕の不調を、また住岡先生に放課後に呼び出されて何か話を聞かれたらどうしようという面倒臭さや不安が後押しした。今日は学校に行くのを止めよう。はっきりとそう思った。生まれつき身体がそこまで強くなく、風邪を引いて学校を休むことは少なくなかったが、自分の意思で仮病を使い学校を休むのは初めてだった。僕は後ろめたさを感じつつも母に頭が痛いと嘘の申告をして、学校を休んだ。それから僕は再びベッドに入り目を閉じた。
再び目が覚めると、時刻は既に十六時を回っていた。過眠で身体が重く、さらに眠ってしまおうかとも思ったが、烏の鳴き声が耳障りな上に、極度の空腹で眠るより先に何かを口にしなければと感じ、重たい身体を引きずりながら階段を降り、リビングに出た。弟のランドセルや赤白帽がソファの上に置かれていたが、弟の気配はなかった。遊びにでも出たのだろうか。母はまだ仕事から帰っておらず、家には僕一人だった。冷蔵庫には目ぼしい物がなく、僕はとりあえず食パンにバターを塗って焼いた。トーストを皿に乗せ、コップに牛乳を注いで木目調のテーブルに置き席についた。できあがったトーストは少し焦げが目立って、あまり美味しくなかった。硬く苦くなった食パンは僕の口内を傷付ける。冷えた牛乳と一緒にトーストを食べていると、仮病で中学を休んだことへの罪悪感と勉強に置いていかれたらどうしようという不安が僕の中に煙のように蔓延した。学校に行かないのは楽なものだと一度は思ったが、結局良い気持ちはせずむしろ学校に行っていた方がまだ気が楽だと感じた。明日はしっかりと学校へ行こうと決意した。
「はい、じゃあ今日の授業はここまでな。来週も漢字の小テストやるから忘れずに予習をしておくように。はい、日直」
日直による、「起立、礼」の号令で二時間目の授業が終わりを告げた。今日も天気は曇りで、雨は降っていなくとも分厚い灰色の雲が空を覆っていたが、一昨日のような窮屈さは感じなかった。僕は、机の上に広がった筆記用具や教科書を片付けながら、本日二度目の安堵の溜息を零していた。朝の会で昨日の休みについて住岡先生から何か指摘されるのではないかと気が気でなかったが、どうやらその心配はなさそうだ。ふと教卓の方へ目を見やると国語の授業を終えた住岡先生が、回収した小テストの答案用紙をとんとんと整えながら、クラスメイトと話をしているところだった。すると、先生は僕の視線に気が付いたのか、僕の方を見た。「しまった」と思い目を逸らそうとした時にはもう遅く、住岡先生は何かを思い出したように「あっ」と大きい声を出し、手招きのジェスチャーをしながら「小森、ちょっといいかあ」と僕の名を呼んだ。仮病はバレていたのだと思った。僕が学校を休んだのは、住岡先生が僕にカウンセリングを受けさせた次の日だ。それに体調不良で学校を休んでおきながら、今日は何事もなかったかのように登校しているのだから、怪しまれても仕方がない。僕は観念するしかなく、言われるがまま教卓へ歩いていった。
「小森、今日の放課後は空いてるか?」
僕が教卓の側までくると、住岡先生は少し小さな声で言った。
「また受けなきゃいけないんですか?」
僕はクラスメイトにカウンセリングを受けたことがバレるのが嫌で「カウンセリング」というワードを抜いて問い返した。
「いや、今日は違う。今日は俺とだ」
「住岡先生と?」
「ああ、少し話したいことがあるんだ」
一瞬意図をはかりかねたが、すぐに住岡先生との面談であると思い至った。先程までの安堵感はどこかへいってしまい、どんな小言を言われるのだろうかと、きりきりと胃が痛みだした。
帰りの会が終わった後、言われた通り住岡先生の元へ行くと、少子化の影響で組数が減り使われなくなっていた空き教室へと案内された。黒いジャージを着て、出席簿やボールペンを小脇に抱えて歩く住岡先生の背後を、少し距離を置いて歩いた。
教室は少し埃っぽくて、壁際には使われなくなった机や椅子が寄せられていた。中央の空いたスペースには、三者面談の時のように、机と椅子が四つ向かい合わせで置いてあった。住岡先生は僕をその片側へ座るように促すと、自分も僕の向かい側の椅子に腰掛けた。席につくやいなや、先生は背もたれに寄りかかって腕を組み、難しそうな顔をした。
「小森、どうして呼ばれたか分かるか?」
住岡先生はおもむろにそう口にした。
「カウンセリングと昨日休んだことですか?」
「まあそんなとこだな。じゃあ俺がどうしてお前にカウンセリングに行くように言ったかは分かるか?」
「それは、僕が部活に出てないから、じゃないんですか?」
「半分は合ってるが、まだ百点じゃないな。確かに小森が部活に出ていないのは問題だが、それだけではカウンセリングに行けとは言わないさ。『ならどうして?』と思うだろう。そうだな、まあ簡単に言えば、岩井先生も俺も小森のことが心配なんだよ」
「心配?」
予想していなかった展開に、少し戸惑っていた。てっきり「部活に出なさい」とか「昨日の休みは仮病を使ったんじゃないか」とか、追及されるものだと思っていたが、どうやらそうではないようだ。しかし、ではなぜ呼ばれたのかという当然の疑問に対する答えが「心配だから」というのは、あまり釈然としなかった。
「まあ心配だからって言われてもだよな」
住岡先生は、僕の腹の中を察したのか、そう言って笑うと、また少し難しい顔をした。
「うーん。今どきこういうこと言うとさ、色々問題になることもあって面倒だったりするんだけどさあ」
先生は尚も煮えきらない態度を取っていた。そんなに言いにくいことなのだろうか。何か大きな問題になるような真似をした覚えはなく、僕には一向に分からないままだった。
「あのな、小森。社会性ってな、結構大事なんだよ。特に社会出ると尚更な」
予想だにしなかった先生の言葉に、寝首を掻かれたような思いがした。それと同時に、住岡先生が言いにくそうにしていた理由もすぐに理解した。モンスターペアレントなどという言葉まで生まれ、教師が生徒や親の妄言に逆らうことができない弱い立場であることが浮き彫りになっているこの時代に、こういう類の発言は自身のリスクになりうるのだ。それをあえて、住岡先生はわざわざ自分の時間を取って僕を呼び出してまで、僕にそう言った。社会性、確かに僕に足りないものだろう。一瞬反抗心のようなものに火がつきかけたが、実際の僕の社会性の欠片のない生活と、先生の僕に向き合う姿勢を思うと、怒る気になどなれなかった。むしろ、住岡先生の立場が危うくなるリスクを取ってまで、そう言ってくれたことが、少し嬉しかった。僕の了承を得ずにカウンセリングを受けさせるのは些か強引ではないかとも思ったが、それでもそれが僕に真剣に向き合おうとした結果だと思えば気にならなかった。
「小森さ、人と話すのあまり得意じゃないだろ。休み時間も給食の時間も誰かと話してるところ見たことなかったからさ。もちろん小森のことを馬鹿にしようって訳じゃないんだ。小森がそれで良いなら別に俺がそれを否定する道理はないんだけどさ、ここんとこ部活にも出てないみたいだから、もしそういう人間関係とかで悩みがあったら少しでも力になってやりたいと思ってな。それに、さっきも言ったように、社会に出るとどうしても他人とコミュニケーションを取らなきゃいけない場面が増えるからな。例えそれが嫌いな相手でも、だ。あと一応言っておくけど、こういう話をするのは別に小森に限った話じゃないからな。他のクラスでも悩みを抱えてそうな生徒がいたら、時折一昨日みたいにカウンセリングに繋いでみたり、こうやって俺と話してみたりしてもらってるんだ。実際のところ、生徒にとっては余計なお世話くらいに思われているかもしれないんだけどさ。それでも俺が少しでも力になれるならなってやりたんだよ。まあ俺の自己満足かもしれないな」
「いや、正直、先生の言う通りだと思います」
「そうか。じゃあやっぱり人と話すのは苦手か?」
「はい。苦手ではあります、ね」
「そうか。小森にはそうは見えないかもしれないけどな、俺もあまり人と話すのは得意じゃないんだ。特に小森と同じくらいの年の時は本当に苦手だったな。俺はもう三十半ばで人生色々やってきたから、今でこそそこまで苦手じゃないけどな。俺は他の先生とは違って大学卒業してすぐ教師にならずに、一度普通の企業に就職したんだ。その時に思ったんだよ、中学、高校、大学の間でもっと人と話す練習しとけば良かったなって。ほら、よく俺や他の先生が勉強はちゃんとしておけって口酸っぱく言うだろ? どうしてか分かるか? もっとちゃんと勉強しておけばよかったって後悔してるからだよ。まあ俺達がどんなに言ったって生徒達には届いてないみたいなんだけどさ。同じくらいの年で話題も合わせやすいようなやつらが近くにたくさんいるんだ。全員と仲良くしろとか、クラスで一致団結とか気持ち悪いことは言わないよ。でも一人や二人でも友達と呼べるようなやつを作って、他のクラスメイトと他愛のない雑談くらいはできるようになっておくのは、今後小森が社会を生き抜いていく上で凄い役に立つと思うんだ。もちろん将来的に、小森がどんな仕事につくかなんて俺にはさっぱり分からないけどさ。いわゆるコミュ力ってのはあって損することはないと思うんだよね」
「確かに、そう思います。僕も」
住岡先生の話には完全に筋が通っており、僕が口を出すことは一つもなかった。けれど僕は、住岡先生の社会性やコミュニケーション力の話云々よりも、こうやって僕のことを見てくれて考えてくれる大人がいるということ自体に救われたような気がした。弟にかかりっきりの母と子の教育には一切関心を示さない父の間で、僕は家にいても疎外感を覚えていた。まして誰一人として友達がいないクラスになど僕の居場所はないと思っていた。しかし、担任である住岡先生がそう言ってくれるなら、二年二組の教室にいても良いと思えた。
住岡先生は一通り話したいことを話し終えると、僕に聞きたいことや言いたいことがないか確認を取った後、その日はすぐに解散し、家に帰れることになった。帰宅途中、分厚い雲の隙間から茜色の太陽が顔を出し、僕の足元に長い影を作った。僕は家に帰るとすぐに明日の漢字の小テストの予習をした。
二
神田さんとのカウンセリングで、結果的に己の弱さを直視させられることになり、その後の住岡先生との面談で僕に足りていない能力が浮き彫りになった。自分を誤魔化して見ないようにしていた自分自身の感情に気付いてから、それ以上目を逸らすことは僕にはできなかった。それらは僕にとっては大事件のように思われたが、だからといって次の日から生活が大きく変わることもなかった。結局もう一度真剣に考えてみてもソフトテニス部の練習に参加しようとは思えず、部活には出ていない。それでも、授業中のグループやペアワークの時間には、今までよりも少しは発言しようと努力をしている。本当に、ほんの少しずつでも、物事が良い方向へ向かっていけばそれで良いと思った。
そうしている内に気が付けば梅雨は明け、六月は終わって七月になり、強くなった陽射しが夏の到来を告げていた。給食の時間辺りから雲ができ始め、日の照りも落ち着いて、開け放った廊下の窓から涼しい風が流れ込み、暑さは感じつつも心地良かった。
そんな折のことだった。僕が昼休みに校舎内を散歩していると、階段を降った先の廊下から住岡先生の話し声が聞こえてきた。僕が住岡先生に話しかけようと階段を足早に降って廊下に出ようとすると、住岡先生とは別の若い女性の声も一緒に聞こえてきた。廊下と階段の曲がり角から、顔を出して様子を伺ってみると、住岡先生と今年から新任でうちの中学に入ってきた体育教師の西山先生が廊下を歩きながら話をしていた。幸い二人は僕に背を向けて遠ざかっていく形で歩いており気が付かれることはなかったが、僕は西山先生に若干苦手意識を持っていたため、話かけるのはやめてその場を後にしようと思った。しかし、壁から離れ階段に向かって歩みを進めようとした時だった。
「住岡先生のクラスって大変そうですよねえ。特にあの子、全然話さない子いるじゃないですかあ」
西山先生の無駄に高い声が僕の耳に飛び込んできた。それと同時に、僕の右耳辺りを汗が一筋伝った。嫌な予感がした。「住岡先生のクラスの全然話さない子」これは恐らく僕のことだ。僕は住岡先生がこの問いかけに対してどう返すのかが無性に気になって、その場から動けなくなっていた。
「ああ、小森くんのこと? まあ別に嫌いでもないんだけどねえ。ああいうタイプの子がいるとクラスが上手いこと纏まらないっていうか、正直ちょっと面倒だよねえ。でもねえ……」
は? 待って待って待って。嘘だ。結局住岡先生まで、僕を煙たがっていただけだったのか。僕は居ても立っても居られず、階段を駆け降りた。住岡先生がその後何と言ったのかは分からなかったが、僕はもうあんな男の話など耳に入れたくもなかった。もう駄目だ。僕をどこか遠くへ行かせてくれ。階段を駆け下り、人が少ない職員玄関から外に飛び出した。僕はそのまま裏門を通って路地へ出た。上履きを履いたまま何も持たずに飛び出してきたから、家の鍵も持っておらず、僕に行く当てなんてなかった。しかしそんなことはもうどうでも良くて、僕はひたすらに昼下がりの住宅街を駆けた。まただ。またあの雨の日の帰り道と同じ無力感や閉塞感が胸に充満して息が苦しくなってきた。本当は気付いていた。結局僕には友達作りなんてできないことも。授業でランダムに組まされたペアワークで僕と組むことになった相手が薄っすらと残念そうな顔をしていたことも。僕と話す時より弟と話す時の方が楽しそうな母の顔も。僕をささやかな絶望へ陥れる数々の出来事を全て無視しながら、住岡先生から言われたことを信じることで、一歩ずつ前に進んでいたつもりだった。けれど、それすら嘘なら僕はもうどうすれば。これは全部僕のせいだ。僕が何も上手くできないからだ。僕の存在が、周りの人の顔を曇らせる原因なのだ。時折人とすれ違い、その度に奇異な目を向けられるが、もうどうだっていい。ただ走った、遠くへ行きたい。もうあの場所にはいたくない。家にだって帰りたくない。少しでも遠くへ行けたら何でも良かった。徐々に、風が肌にまとわりつくような生温さを帯び始めた。走りながら空を見上げると、いつの間にか青空はすっかり暗い灰色の雲に覆われていた。降る。雨が降る。僕の直感がそう告げた。雨が、世界が、また僕を閉じ込めようとしてくる。体力がない僕の息はとっくに上がり始めていた。しかし、少しでも立ち止まれば、肺から取り込んだ酸素がまた頭に回って脳が世界を捉えてしまう。今は何も考えたくない。上がった息も痛み出した足の裏も全部無視して僕は逃げるように走った。不意に頬に何かが当たる感触がした。雨だ。それも大粒の。ぽた、ぽた、とまばらに振り始めた雨は、間もなく急速に雨脚を強め、ものの数十秒で土砂降りになった。髪が濡れ、顔が濡れ、服が濡れ、目や口に雨粒が入ってくる。もはや瞳に浮かぶ水が雨なのか涙なのかの区別もつかない。水を吸収した服が身体にベタベタとまとわりつく。ざーざーという激しい雨音と、僕の上ずった呼吸しか耳に届かなくなった。ただでさえ上ずった呼吸を雨に邪魔されて溺れているみたいだ。走り続けている内に、僕の心の中は滅茶苦茶になった感情達で混沌とした様相を呈していた。もう、悲しいのかも、辛いのかも、楽しいのかも、恨めしいのかも、何も分からなかった。全てが正しいような全能感と全てが間違っているような虚無感を同時に拳の内に握りしめて、当てのない旅路を彷徨うが如く走り続けた。ふざけるな。爆発した感情は、次第に赤黒く燃え上がり一つの怒りへと収束していった。ふざけるな。母さんも弟も神田も住岡もどいつもこいつも殺してやる。僕が何をしたって言うんだ。なあ、なあ、なあ!僕をこんな目に合わせたのは一体誰なんだ。この世界も人も全部大嫌いだ。誰も許さない。僕は言葉にもならない声で叫んだ。既に限界を迎えた身体を激しい怒りだけが突き動かした。突然、視界がぐらっと傾いた。次の瞬間には僕は体勢を崩し、地面に這い蹲っていた。咄嗟に出した右手はコンクリートに擦れてずるずるに擦り剥けていた。右手首と両膝から鈍く熱を持ったような痛みが発せられた。擦り剥けた右掌を見ると、鮮やかな赤が手に滲んでいた。鮮血は土砂降りに打たれ、手首を伝って地面へと流れ出た。血液と一緒に僕を繋ぎ止めていた情動と魂までもが抜けていく気がした。僕は赤く染まった右手をただ眺めることしかできなかった。がんがんと打つような痛みが脳みそを締め付け、ままならない呼吸で胸が苦しくなった。次第に僕の意識は深い闇の底へ落ちた。
三
けたたましい蝉時雨で目が覚めた。首元に汗が滲んで不快だ。枕元の目覚まし時計を見やると、八月三日、土曜日だった。既に十三時を過ぎているようだ。まだ眠たかったが、頭は妙に冴えていて、それもまた不快だった。部屋を出て、階段を降る途中、ぐうと腹が間抜けな音を出した。リビングには誰もいない。そういえば昨日の夜、弟のサッカーの大事な試合があるとかないとか誰かが言っていたような気がする。家族と顔を合わせたくない僕には好都合だ。キッチンへ行き、袋から食パンを一枚取り出し、そのまま齧り付いた。口の水分を丸ごと持っていかれて気持ち悪い。僕は食器棚からコップを取り出して水を汲み、パンを流し込んだ。食パンを食べ終えると、僕は余った水を持ってソファへ深く腰掛けた。ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん、と蛇口から水が滴る音がキッチンから聞こえてきた。僕は立つのが億劫で、それを無視する。やることも、やらなければいけないことも、やりたいこともない。僕はしばらく水を持ってソファに腰掛けていた。コップの表面に結露した水滴が、僕の右手の甲を伝った。あの日、あの後、保健室で目を覚ました僕は、あらゆる教師からの尋問に黙秘で答えた。緊急事態と学校から連絡を受け、仕事を抜けて出てきた母の問いかけにも僕は黙秘で答えた。それ以来、僕は学校に行っていない。母も父も初めの内は僕を学校へ行くよう説得したが、頑なな僕の態度に早々に諦めてくれた。ありがとう。時折授業のプリントを持って家を訪れる住岡も当然のように無視した。去年の今頃は何をしていただろうか。あの時は部活にも出ていたような気がする。あとはここぞとばかりに録り溜めたアニメを見た記憶がある。アニメを見なくなった。本も読まなくなった。寝て起きて飯を食い、放心していると気が付けば一日が終わっている。ここにいてここにいない、それが今の僕だ。柔らかいソファと溶けた身体が一体化していくような感覚を覚える。溶けて、溶けて、存在ごと消えてなくなれば良い。しばらくしていると、本当に僕が溶けていくような気さえしてきた。僕は溶けた輪郭を眺めるべく立ち上がり、洗面所へ向かった。鏡の前に立つと、そこにははっきりと男が立っていた。なんだ、と残念に思う。ぼさぼさの髪とよれたティーシャツを着た見窄らしい男を眺めていると、次第に笑いが込み上げてきた。眼の前の男も醜く笑う。それが可笑しくて堪らなかった。
僕はもう、どこにも行けないのだ。
もし読んでいただけたのなら、どんな内容でも構いませんので、何か感想を書いていただけると幸甚に存じます。




