この村は嘘が九割
霧が、村を半分溶かしていた。
倉野茅乃はバスを降りて、湿った杉の匂いを吸い込んだ。靴の底から伝わる土は東京の舗道とちがって柔らかく、踏むたびに小さな水音を返してくる。圏外マークを確認してから、リュックの肩紐を結び直した。「霞戸」と書かれた看板の文字は、雨と苔に半分食べられていた。
民宿の玄関に立ったとき、屋根の樋から雫が落ち、彼女の耳の後ろを冷たく濡らした。
「あんた、東京から来たお人かね」
戸を開けたのは、痩せた老婆だった。声は薄く、笑い皺の奥で目が動いていない。
「倉野です。一週間ほどお世話になります」
「うちの村はね」と老婆は手を拭きながら言った。「嘘が九割でね」
茅乃は目を見開いた。
「九割は嘘やと思うとったほうがええ。残りの一割を見抜くのが、よそ者の仕事や。覚えとき」
そして彼女は、また皺を深くして笑った。
部屋にあげられた茅乃は、リュックから祖父の遺品を取り出した。革張りのノート。最後の頁にはこう書かれている。
『この村は嘘が九割。残りの一割を見抜かねば、ここから出られぬ。──倉野耕助』
大叔父・耕助は、二十年前にこの村で消息を絶った。家族は誰も詳細を知らず、行方不明者届だけが残った。形ばかりの仏壇の位牌は、小さく、黒く、軽かった。
茅乃は東京の出版社で、ノンフィクションの編集を七年やってきた。同僚からは「正論ばかり」と陰口を叩かれ、最後の恋人には「お前といると、自分が常に間違っているような気がする」と言って去られた。彼女は正しさだけは持っていて、それ以外を持っていなかった。
ノートの裏表紙に、走り書きで地名と人名がいくつかあった。茅乃はそれを手がかりに、夕方から村人たちを訪ねて歩いた。
──
「耕助さんかね。ああ、覚えとるよ。山ぁ落ちて死んだ。可哀想にな」
雑貨屋の主人は、煙草を消しながらそう言った。茅乃が頷いて立ち去ろうとすると、「ちなみに、今のは嘘やけどな」と背中に投げてきた。
次に訪ねた畑の老人は、鍬を握ったまま首を傾げた。
「耕助さん? ああ、川下に逃げよったわ。女と一緒にな」
「女と?」
「うん、嘘や」
煙草屋の女主人は、釣り銭を渡しながら早口に言った。「あの人なら、今も山小屋にひっそり住んどるよ」とつぶやき、つぎの瞬間「冗談、冗談」と笑って手を振った。
寺の住職に至っては、湯飲みを差し出しながらこう言ったのだ。
「倉野耕助という方は、この村に来たことがありません」
茅乃が眉を寄せると、住職は穏やかに微笑んだ。
「もちろん、これも嘘ですよ」
民宿に戻ったとき、茅乃の手帳には四つの異なる「真実」が記されていた。すべて嘘だと自己申告された嘘だった。彼女は手帳を閉じ、薄い布団の上で長く息を吐いた。
天井の節穴が、ひとつだけ目のように彼女を見つめていた。
──
翌朝、村の外れの祠で、茅乃は一本の万年筆を見つけた。
緑色の蒔絵の軸。キャップに小さな「K」の刻印。祖父の遺品の中に同型のものがあった。耕助が学生時代に贈り合ったきり、家族に語り継がれた万年筆の片割れだ。
それが、村の祠に、供物のように置かれていた。
茅乃の指先が冷えた。彼女は誰かに見られている気がして振り返ったが、湿った杉林が鈍く揺れているだけだった。
「それ、触らんほうがいい」
声に振り向くと、若い男が立っていた。まだ二十三、四か、背は高くなく、首にタオルを巻いている。陽に灼けた指の関節が大きい。
「あんた、東京から来た人やろ。耕助さんの親戚やと、もう村中に知れわたっとる」
「ええ。あなたは?」
「青木透です。──俺はね、倉野さん」彼は少し言いよどんでから、続けた。「俺は、本当のことしか言わない。だから、誰にも信じてもらえん」
茅乃は、その言葉を信じたいと思った自分に、少し驚いた。
──
青木と一緒に村を回るようになって、三日目の夕方だった。
四十八人の村人すべてに茅乃は会い、彼らの「嘘」を一つずつ手帳に記していった。山で死んだ。川下に逃げた。山小屋にいる。来たことがない。鉱山で爆死した。発電所建設で揉めて消えた。猟銃が暴発した。冬山で凍えた。鶏を盗んで折檻されて死んだ。──ありとあらゆる「死に方」と「消え方」が、村人の数だけ存在していた。
茅乃は手帳を青木に見せた。
「ねえ。気づかない?」
「何にですか」
「全員、耕助さんが『この村でどう消えたか』を語ってる。誰一人、『どこか別の場所で生きてる』とは言わない」
青木が黙った。沢のせせらぎの音が、二人の間に薄く流れた。
「九割は嘘。だけど──」茅乃は声を低くした。「全員が共有している前提が、ひとつだけある。耕助さんは、この村の中で死んだ。その一点だけは、嘘の中に紛れずに残ってる」
青木の喉が、こくり、と動いた。
「あんた、頭がええな」
「褒めてる?」
「責めとる」
風が抜けて、青木の前髪が額にかかった。彼の目は茅乃ではなく、自分の足元の苔を見ていた。
──
その夜、民宿の老婆の出した夕食は、いつもより少し豪華だった。塩の効いた山女魚と、苦い山菜の和え物。茅乃が箸をつけると、老婆は黙って湯飲みを置いた。
「あんた、明日、もう帰りなさい」
「え?」
「真実なんちゅうのはな、知って何になるもんでもない。荷物が増えるだけや」
茅乃は箸を止めた。
「私、まだ仕事が残ってます」
「仕事って、なんや?」
「本にすることです。耕助のことを」
老婆は皺の中の目を、はじめて茅乃にまっすぐ向けた。
「あんた、それで誰が幸せになるんや」
茅乃は答えなかった。答えを持っていなかった。雨が屋根を打ちはじめ、窓硝子に細かい筋を作っていく。湯飲みの茶の表面が、わずかに揺れていた。
──
翌朝、青木は寺の裏山で茅乃を待っていた。雨上がりの土が、靴をぐずぐずと飲み込んでいく。
「倉野さん」
彼は座り込んでいた。地面に膝をついて、両手を膝の上に置いていた。
「俺、本当のことしか言わない、と言うたな」
「ええ」
「あれは、俺が知っている範囲では本当や。でも、俺の知らんことが、ある」
茅乃は黙って彼の隣に屈んだ。雨に濡れた苔の青臭い匂いが、二人を包んだ。
「俺の親父はな、二十年前、耕助さんを撃ったらしい。猟銃で」青木の声は震えてはいなかった。震わない、ということ自体が、震えていた。「親父は耕助さんが、村の女に手ぇ出した、と思い込んだらしい。誤解やった。でも、撃ってしもうた。山の中で。雪の朝に」
雨粒が一つ、青木の首筋を伝った。
「親父は俺が三歳のときに死んだ。俺はそのことを、ずっと知らんと育った。村のもんが教えてくれんかったから。──昨日、長老に呼ばれて、聞いたんや。あんたが調べとるさかい、俺の口から言うたほうがええやろう、と」
茅乃の指先が、泥を握りしめていた。
「耕助さんの遺体は、村の共同墓地の隅に埋まっとる。名前のない石の下に。万年筆だけが、祠に供えてある。誰かが、毎年新しい花を換えとる」
「誰が?」
「俺や」青木は笑った。「親父の罪滅ぼしや、と言われて、子どものころからずっと」
茅乃は何も言えなかった。彼女の中で、何かがゆっくり倒れていく音がした。長く積み上げてきた、彼女自身の正しさという積木のようなものが。
──
民宿に戻る道で、茅乃は蓋を閉じた万年筆をポケットの中で握りしめていた。
書く。書ける。書ける材料は、揃った。
二十年前、ある男が殺された。村ぐるみで隠蔽された。証言が、四十八通り。万年筆が、祠に。書けば本になる。書けば賞も取れるかもしれない。書けば、東京の同僚たちは初めて彼女を「正論ばかりの女」とは呼ばなくなる。
書けば、青木の人生は終わる。
書けば、村は終わる。
茅乃は雑貨屋の前を通り過ぎた。煙草屋の女主人と目が合った。彼女は微笑んだ。何も知らない人の微笑みではなかった。すべて知っている人の、それでもまだ嘘をつき続けると決めた人の、薄い微笑みだった。
──
長老の家は、村の一番奥、神社の隣にあった。茅乃は呼ばれずに訪ねた。
霞戸宗助は、八十を越えていた。白髪、薄い唇。茶を勧める手の甲に、染みが地図のように散っていた。
「来なさると、思うとった」
「ひとつだけ、聞かせてください」
「なんや」
「あなたたちは、なぜ二十年も嘘をつき続けたんですか」
長老は茶を一口含んでから、湯気の立つ茶碗を両手で包んだ。
「あんたは、真実が好きかね」
「仕事ですから」
「好きかどうかを、聞いとる」
茅乃は答えに詰まった。長老は答えを待たずに、続けた。
「青木の親父が罪を犯した。それは事実や。けどな、罪を犯した男には、嫁と、生まれたばかりの息子がおった。男は自死した。その後に残されたのは、何も知らん赤ん坊一人や」
茶碗の表面に、老人の顔が小さく映っていた。
「あの子に、お前の父は人殺しやと教えて、この村で生きていけると思うかね。山の村は狭い。子どもの頃から、お前の父の罪を全員が知っとる村で、お前だけが知らんと育つ。──そう、しつらえたんや」
「しつらえた?」
「全員で、嘘をついたんや。耕助さんはな、山で迷うて死んだ。川下に逃げた。鉱山で爆死した。来たこともない。──四十八通りの嘘をな、毎年寄り合いで決めて、よそ者が来るたびにそれを語る。そうやってあの子を、二十年、守ってきた」
茅乃の喉が、灼けるように渇いた。
「『嘘が九割』というのは──」
「そうや。あの子に、村人の言うことの大半は嘘やと、最初から教え込むためや。あの子が、いつかどこかで本当を聞いてしまうことがあっても、『また村のもんの嘘か』と笑い飛ばせるように。長い、長い、嘘の城を、この村は二十年がかりで築いた」
茅乃は震える指を膝の上で握った。
「青木さんは、信じている。自分は本当のことしか言わない、と」
「あの子がそう信じとるんはな」と長老は言った。「赤ん坊のころから、村のもんが言い聞かせたからや。お前は本当のことしか言わん子や、嘘なんかつかん子や、と。──それも、この村が二十年、あの子のためについた嘘や」
茶碗の中で、湯気が静かに上っては消えた。
「真実は時に毒になる。私らは、嘘で、孫を守ってきた」
茅乃は俯いた。膝の上の手の甲に、湿ったものが落ちた。それが雨の雫なのか自分の涙なのか、彼女にはわからなかった。
──
民宿で荷物をまとめた朝、霧はまだ残っていた。
老婆は黙って握り飯を渡してきた。茅乃はそれを受け取り、頭を下げた。
「あんた、ええ顔になった」と老婆は笑った。
「そうですか」
「ええ顔や。来たときは正論の顔やった。今は、ようわからん顔や」
「嘘?」
「ほんま」
二人は短く笑った。
バス停で青木が待っていた。彼は何かを察したような、それでいて何も知らないままでいるような、不思議な穏やかさで立っていた。
「倉野さん」
「はい」
「あんたが何書こうが、村のもんは何も言わんよ。書いて、東京で売れたらええ。それが仕事や」
茅乃は深く息を吸った。湿った杉の匂いが、肺の底まで届いた。
「青木さん。ひとつ、嘘ついていい?」
「どうぞ」
「あなたのお父さんは、立派な人だったって、村の人が言ってた」
青木は少し笑って、目を細めた。
「ありがとう。──それ、たぶん本当や」
バスが来た。茅乃は乗り込んで窓際に座った。青木が小さく手を振った。茅乃も振り返した。万年筆は、祠に戻してきた。新しい花も、添えてきた。
バスが動き出すと、霧の中に村が溶けていった。残りの一割の真実は、最後まで、見つからなかった。
あるいは──最後まで、見つからないという、それ自体が、彼女が見抜いた一割の真実だったのかもしれなかった。
──
東京の灯りに戻ったその夜、茅乃は祖父の遺品のノートを開いた。
『この村は嘘が九割。残りの一割を見抜かねば、ここから出られぬ』
万年筆の代わりに、ボールペンで、彼女は最後の頁にこう書き加えた。
『──残りの一割は、もっと優しい嘘でできていた』
書斎の窓の外で、深夜の雨が、東京の屋根を細かく打っていた。彼女は明日、出社して、上司に企画の中止を告げるだろう。理由を聞かれたら、こう答えるつもりだった。
「現地で、書くべきものは何もないとわかりました」
それは、彼女が生まれて初めてついた、優しい嘘になるはずだった。
(了)




