ミシェルの過去
夜の帝王、漆黒の支配者、ブラッディーマスター。持っている二つ名は数え切れない。誰よりも強く、そして誰よりも気高い。絶対的な存在として常闇の世界に君臨する。それが当たり前だった。
「ミシェル様、どうしていつも悲しい瞳をしてるの?」
赤い瞳に黒い艶やかな髪。
漆黒に舞い降りた天使という言葉がよく似合う。
女性はバルコニーにいるミシェルに優しく語りかけた。
「なぁ、アーデルハイド。愛とはなんだろうな」
「愛……ですか。私はその人の幸せを願うことだと思ってるけど。もしかしてミシェル様──」
「大丈夫、婚約は解消しないから。俺は知りたいだけなんだ。真実の愛というのをな」
口では否定したものの、心が不協和音を奏でる。決して小さくないノイズ。放って置けば大事になるのは間違いなし。
このまま整備された道を進んで良いのか。
アーデルハイドを愛していると言い切れるのか。
答えは分からない。違和感が心の奥に沈殿し、迷いの森へ足を踏み入れてしまった。
「あまり心配させないでね。この婚約はふたりだけの問題ではないの。この国の未来にも関係するのだからね?」
「すまんな、アーデルハイド。俺が不甲斐ないばかりに」
「そんな、不甲斐ないなんて……。ミシェル様は立派なヴァンパイアの王ですよ」
後ろから優しく抱き締めるアーデルハイド。冷たい世界を暖めミシェルの心は安らぎに満たされる。それはまるで常世の国を照らす皓月のよう。素娥の放つ清光が幻想的な景色を作り出した。
「立派な王……か。愛の意味すら理解せず、国民から愛されようとは滑稽だな」
「卑屈になってはダメよ。ヴァンパイアには悠久の時間があるのだからね」
「そうだな……」
納得しているようで納得していない。ノイズはミシェルの中で無尽蔵に増大。統べる者として相応しいのか、疑問が深淵から湧き上がってきた。
胸に突っかかる得体の知れない存在。
アーデルハイドの言う愛が正解なのだろうか。
否、王として自ら答えを出さなければ。
その日、ミシェルは常闇の国から静かに姿を消した。
「夢……でしたか。それにしても、また随分と古い記憶でしたね」
窓から差し込む暖かな天照の光で目覚める。ミシェルは霞がかった頭の中を鮮明にしていく。現実世界への扉が開き、目の前の光景に驚きを隠せなかった。 自分のベッドで寝ているアリスの姿。
現実ではなく、まだ夢の世界にいるのかと錯覚してしまう。
ミシェルの時間が停止し、今その身に起きている事実を受け入れられなかった。
「あ、アリス皇女!? どうして僕のベッドに潜り込んでいるんですかっ!」
動き出した時計の針。それと同時にミシェルは声を荒らげる。どうして、なぜ、頭の中を駆け巡る様々な言葉。鼓動の激しさは唐突な出来事のせい。自らにそう言い聞かせ、冷静さを取り戻そうと必死だった。
「う、うーん。あら、おはよう、ミシェル。でもどうしてミシェルがわたくしのベッドに?」
「違いますって。アリス皇女が僕のベッドにいるんですよ!」
「なるほど、それは妙な話ですわ。もしかしまして、ミシェルがわたくしを自分のベッドに連れ込んだ。というわけですね」
アリスが何を言っているのか理解不能だった。なぜウソをつくのか。聡明なアリスだからこそ何か意味があるはず。ミシェルの中では疑念と困惑が混ざりあっていた。
「えっと……。僕はそんなことしませんから」
「わたくしに魅力がないと言うんですね? そうですか、わたくしは愛される努力が足りないのね。頑張りますから、ミシェルに相応しい女性になりますわ」
強引すぎるアリスにミシェルは焦る。ここを強行突破すればヤンデレ化するのは確実。悩む、本気でミシェルは悩み抜いた。どうすればこの危機を乗り切れるか。
別にヤンデレ化がイヤという事ではない。
ただ心が疼くだけ。
平静さが失われ、自分が自分でなくなる気がする。
空回りする気持ちに振り回される中、ミシェルはアリスが満足する一手を放った。




