アリス救出作戦
虫の鳴き声だけが聞こえる。城門は固く閉ざされ、真正面からの侵入は難しそう。城壁をよじ登るのが一番の近道なのだろう。ミシェルは深淵への道を登り始めた。
石の隙間を指で掴み、必死に頂上を目指す。
爪から真っ赤な血が滲み出し、全身を激痛が駆け巡った。
思わず飛び出しそうになるうめき声。気力で抑え込み、無我夢中に進み続ける。
弱体化した肉体は悲鳴を上げ、何度も奈落の底へと落ちかけた。
「この体が脆くて憎い。だけど、アリス様を傷つけた自分の方がもっと憎い。僕は甘えてたんだよ、アリス様からの愛に……」
真実の愛を探す旅──何かと理由をつけ、愛する恐怖から逃げていただけ。言葉では愛していると言われても、心に刻まれるのは畏怖の二文字。
愛した者の気持ちが変化したのなら。
その先にある絶望が心を常闇へと引きずり込む。
最強のヴァンパイアだろうが、愛に溺れた時点で最弱となってしまう。
だからこそミシェルは、愛の意味を探すフリで誤魔化していた。
「僕にはアリス様が必要なんだ。それは血だけの関係じゃない。うん、絶対にそうだ。この気持ちはきっと……」
伝えなければ。今なら自分の心を晒け出せる。ミシェルの中に勇気が湧き上がり、漆黒の景色は月明によってかき消された。
「もう逃げるのはやめよう。この気持ちを打ち明ければ、アリス様は必ず元に戻るはず。だから、早くアリス様の元へ行かないと」
気力だけで伏魔殿の城壁を登りきった。息が切れ体力は限界に近い。その上、城内ともなれば警備はより一層厳しくなる。
心を休めている暇はない。
高まった緊張を維持しなければ。
城内へと舞い降りたミシェル。極限まで警戒心を上げ、アリスの探索へと向かった。
「アリス様はどこにいるのだろうか。夜遅いとはいえ、機巧兵器が巡回していると思うし。どう探せばいいんだろ」
手がかりは皆無。かといって無闇に探索するのは危険すぎる。内部構造すら不明であり、運任せになるのは明らかであった。
「直感を信じるしかないのかな。それとも他にいい方法があったりするのだろうか」
危険を承知でミシェルはその場で考えた。経験と英智の海へと旅立ち、名案を探しに彷徨い始める。取っ掛りでもいい。何かしら見つかるはず。諦めずに根気よく探していると、ミシェルの全身が騒がしくなった。
体の内側から熱くなっていく。
流れる血がミシェルに小声で語りかけてくる。
全神経を集中させ、聞き耳を立てるミシェル。
脳内に浮かんだ一筋の光が、進むべき道を教えてくれた。
「聞こえる……。僕の中の血が教えてくれた。今ならわかるよ。アリス様の居る場所が!」
鮮明に描かれるアリスの居場所。知らない風景が頭の中に浮かび上がる。たどり着くにはかなりの距離を移動する必要がある。しかも機巧兵器が徘徊する城内をだ。
見つかればそこで全てが終わる。
今のミシェルに抗う術はない。
緊張と不安が混じり合い、心に破月を作り出した。
だが戸惑っている暇はなく、示された道を突き進むのみ。城内を知らずとも、体が自然と動き勝手に歩き始める。もちろん警戒は怠っていない。
いつ現れるか分からない機巧兵器。
物陰から、ときには曲がり角から様子を窺う。
何度か遭遇しそうになるも、ミシェルは寸前で回避に成功した。
「ここだ……。間違いない、この部屋にアリス様はいる」
豪華な装飾が施されたトビラ。肌に伝わる空気が重く感じる。ドアノブを握るのが正直怖い。だがここで時間をかけてはいけない。張り詰めた緊張の中、ミシェルはドアノブをゆっくりと開けた。
「あ、アリス様!?」
優雅に座るアリスへ向かって叫ぶミシェル。声に反応しアリスが静かに振り向いた。以前と変わらない顔。そのはずが、どことなく違和感を覚える。
具体的には説明できない。
しかし、ミシェルの知るアリスとは別人のように見えた。
「あら、ミシェルじゃないの。まだ懲りずにわたくしの血を求めているの?」
「違います。僕はアリス様を助けに来たんですよ」
力強いミシェルの声が部屋に響き渡る。迷いのない真っ直ぐな声。瞳は煌めきを放ち暗闇を明るく照らす。必ずや闇に堕ちたアリスへ届くはず。ミシェルはそう信じていた。
「助けに? このわたくしを? ミシェル、何か勘違いしているようね。わたくしは自分の意思でここにいるのですわ」
「それはカーラの魔法のせいです。アリス様は操られているんですよ」
「カーラ……。また新しい女ですの? ミシェルが幸せなら、わたくしは構いませんが、ほどほどしないと後悔しますわよ?」
抑揚のないアリスの声は、ミシェルの心に戦慄を刻みつける。輝きを失ったアリスの瞳が追い討ちとなり、ミシェルから希望の光を奪い去った。
なぜ自分を信じてくれないのか。
考えなくても答えは出ている。
アリスの愛を誠実に受け止めなかったから。
後悔と悲しみがミシェルの中で絡み合い、土砂降りの雨に見舞われていた。
「どうして……。どうしてそうなるんですか! 僕は純粋にアリス様を救いたいんです。だって僕は──アリスの従者ですから!」
「血に飢えたヴァンパイアは、どうしてこう惨めなのかしら。滑稽ね、ミシェル。私の愛はもうアナタにないのよ?」
冷酷な眼差しから放たれた言葉は、ミシェルの心をいとも簡単にへし折る。まさに絶望へと突き落とす禁句。心に空いた穴を冷たいすきま風が通過した。
大切なものを失った瞬間。
思考は雪景色に染まる。
魔法の影響下だと分かっていても、ミシェルにとって受け入れ難い現実だった。
「もういいわ、これ以上の会話は無駄ですもの。誰か、誰かいないのです? この不届き者を捕らえてちょうだい」
アリスのひと声で機巧兵器が部屋に押しかける。瞬く間にミシェルを拘束し動けなくした。いや、そうせずとも今のミシェルに動く気力はない。なすがまま床に頭を押さえつけられた。
「お似合いの姿ね、ミシェル。顔も見たくないわ。牢獄にでも放り込んでおいて」
感情のない声でアリスに命令される機巧兵器。すぐにミシェルを起き上がらせ、無言のまま部屋の外へ連れ出す。行き先は極寒の地下牢獄。誰もいない牢獄で、ミシェルは檻の中に投げ捨てられてしまった。




