動き出す世界
微かに残る意識の中、ミシェルは改めて思い出す。
愛はひとを狂わせるものだと。
真実の愛など本当は存在しないかもしれない。
この千年は無駄だったのか。挫折という言葉が重く伸し掛ってきた。
「探しましたぞ、アリス皇女」
混迷渦巻く空気を変えたのはひとりの使者。セラム中を探し回ったのか、全身から大量の汗が吹き出ていた。
「わたくしを探していた? アナタはもしかして……」
「はい、ジュルニア帝国の者です。ハーネス皇帝陛下の命令で参りました」
たったひとりの使者に全員の動きが止まる。
「どうしてここがわかったのかしら。まぁいいわ、それで要件は何かしら? サイエンとの婚約ならお断りですわ」
「グリトニア王国が宣戦布告をし、我がジュルニア帝国へ侵攻してきたのです。このままでは、ジュルニア帝国は滅んでしまいます」
寝耳に水の事態がアリスの思考を混乱させた。あのビンタの報復なのか、それとも婚約を断ったからなのか。祖国の危機にアリスの心は奈落へと落ちてしまった。
騒がしくなる心の声。
ジュルニア帝国に戻るべきか。
第一皇女として見て見ぬふりは出来なかった。
「理由はなんなのです? どうして今なのかしら?」
「わかりません。ただ、グリトニア王国は停戦の条件を提示しておりまして。その、それが……」
「焦れったいわね。ハッキリと言いなさいよ」
「は、はい。サイエン王子との婚約が条件とのことで……」
生理的に受け付けない男との婚約。断れば圧倒的な軍事力で蹂躙される。まさに究極の選択をしなければならない。
婚約がイヤで家出した。
ミシェルとふたりっきりになりたかったのもある。
愛している──出会った時から運命だと感じていた。
心を色鮮やかに染めた存在。
それが今や無情にも、引き裂かれるかの岐路に立たされた。
「アリス様、迷う必要なんてありません。僕がアリス様の血を飲めば──」
最強のヴァンパイアが誕生する。グリトニア王国だろうと、敵ではないはず。だが、心に巣食った魔物がアリスを奈落へと導く。傷口から侵入し、時間をかけて増幅した漆黒の瘴気。思考までも支配し、負の感情を最大限に膨らませた。
「やはりミシェルは、わたくしの血だけが目的なのね。それ以外は道端に転がる石と同じ。興味がないのですね」
いつもとは違うアリスにミシェルは戸惑ってしまう。全身から漂う禍々しい雰囲気は、ミシェルだけでなくリアやアーデルハイドにも見える。
決して幻なんかではない。
実体化しているのは明らか。
漆黒の中に住む魔物が、ミシェルたちを嘲笑っているかのようだった。
「やっぱりそうだ。あれはカーラの魔法だよ。強制的に闇へ──ううん、闇よりも黒い瘴気で属性反転させるのっ」
「でもカーラは千年前に……。リアさん、僕の傷を治してください。一刻も早くアリス様を助けますので」
リアがミシェルの傷を癒しの魔法で治す。完全復活したミシェルはアリスへと駆け寄った。
「アリス様、しっかりしてください。僕に血を与えてくれれば、アリス様を元に戻せますから」
「そんなに血が欲しいのね。わたくし、もう疲れましたわ。すべて終わりにしましょう」
瘴気に飲み込まれ、アリスの心は絶望が支配。次第に全身へと広がり、極限の闇堕ちへと変貌を遂げた。
「あの、アリス様……?」
「わたくしは、祖国のためこの身を捧げると決めましたわ。これからサイエンのところにいきますの。ですからミシェル、アナタはクビよ」
「ちょっと待ってください」
ミシェルが止めようとするも、その手はアリスへ届かなかった。
近くにいるのに遠く感じる──まるで見えない壁がふたりを引き裂いたかのよう。空気を触った手は虚しく、ミシェルの心に孤独感を刻みつける。
当たり前だった日常が失われた瞬間。
空いた穴は思った以上の大きさ。
すきま風が妙に冷たく感じた。
「さよなら、ミシェル」
「アリス皇女、本当にいいのですか?」
「いいのよ。さっ、早くしましょ」
使者とともにA&Mヴィーナを去っていく。アリスは一度も振り返らず、ミシェルたちの前から姿を消してしまった。
止められなかった悔しさ。ミシェルの頭の中はアリスの後ろ姿が残り続けていた。
「これでよかったのか、カーリア」
「はい、サイエン王子。これですべてが計画通りよ」
「そうか、これでアリス皇女は俺のものか」
グリトニア王国の城内でサイエンの笑い声が響く。ようやく自らの望みが叶うと知り、上機嫌のまま自分の部屋へと戻っていった。
「ふっ、バカな男ね。利用されてるとも知らずに。さて、あとはクリステル女王を傀儡にするだけね」
カーリアは薄ら笑いを浮かべ、女王の間を目指した。
「クリステル女王。当初の予定通り、ジュルニア帝国へ宣戦布告が済んだわよ」
「ご苦労さま、カーリア。でも、停戦条件なんて出して大丈夫なの?」
「問題ありませんよ。ジュルニア帝国は滅ぶべき国。アリス皇女さえ手に入れば、存在価値すらないのだから」
クリステル女王へ報告しにきたカーリア。悲願だったジュルニア帝国の滅亡に喜びを隠せない。
捻じ曲げられた歴史がようやく元に戻る。
いや、戻すだけではダメ。
自分に都合よく改ざんしなければならない。
邪神カーラ──その名がどれほど屈辱的だったか。
全ての始まりは千年前。あの日、愛する者を懸けた戦いが、カーリアにとって地獄への片道切符だった。




