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第20話「Our Love,Our Magic」⑤

 沢山の人の目がこちらを向いていた。思わず息を呑む。俺の中の弱い部分が、今にも顔を出しそうだった。……しかし、呼吸を確かめてそれを留める。俺は一礼をしてから、ピアノを正面に椅子に座った。


 ライトに反射して、重々しい黒い光を放つグランドピアノ。まるで他人行儀だ。俺は、鍵盤に手を置く。そして、指先でゆっくりなぞった。

 よろしくな、相棒。


 俺は心の中で呟いてから天を仰いだ。眩しいライトが、視界に滲む。ここは神聖な場所。俺だけの舞台。他の誰でもない、俺だけのもの。


 俺は視線をピアノに戻し、指を動かし始めた。


 そして。

 ──ああ、と、思う。


 ああ、何だ。やっぱり楽しい。


 自然に指が動く。楽しい、ワクワクする、そう心が、体が、俺の全てが叫んでいる。高揚感に、今にも呑まれてしまいそうだった。


 待てよ、落ち着け、と、ゆっくり新たなメロディーが流れていく。風が吹いているような心地がした。気持ちいい。誰もいない草原に、裸足で立っているような心地よさだった。

 そして居ても立ってもいられず、俺は走り出す。全てのものがここにいるよと歌っている。俺の手が、指が、全身が、心が、そのメロディーを引き出していく。


 好きだなぁ、と思った。この時間を、永遠に噛み締めていたい。

 あっという間に、いくつもの曲を弾き終わる。余韻に浸る間もなく、最後の一曲。


 全ての人に、全ての音楽に、愛を込めて。



 ──ポール・デュカス、『魔法使いの弟子』。



 この曲はまさに、物語が見えてくる。大魔法使いの弟子が調子に乗って魔法を使い、困り果てたところを大魔法使いが叱るのだ。弟子が魔法を使う。調子に乗る。困り果てる。大魔法使いがそれを叱る。全ての光景が、ありありと脳裏に浮かぶようだった。


 俺はふと、あることを思い出した。昔、俺がピアノを始めてすぐ、調子に乗ってピアノを弾いたせいで指がとてつもなく転がってしまったことがあった。その時、父さんに苦笑いしながら言われた。



 千秋。お前の独りよがりになったら、ピアノも答えてくれないぞ。ピアノも、観客も、お前と一緒に歌うんだ。わかったか?


 ──ポーン。



 ……ああ、そうか。これが俺の全てだったんだな。


 俺たち音楽家は、きっと魔法使いだ。ある時は、人を喜ばせる。ある時は、人のことを泣かせる。ある時は、人のことを怒らせる。ある時は、人を笑顔にする。

 そして俺は、父さんの息子。きっと、魔法使いの弟子なのだろう。


「っ……!!」


 自然と笑顔になるのがわかる。楽しい、と思った。でも、独りよがりじゃない。


 さあ、一緒に歌おう。

 あなたのための音楽を、届けるよ。


 俺は「魔法使いの弟子」を弾き終える。これが最後の曲だ。


 ……でも。


「……!?」


 客席の方から、戸惑ったような声が聞こえた気がした。当たり前だ。何故なら。



 俺がもう一曲、弾き出したから。



 しかも。


「……っ」


 俺は感情の赴くままに、ピアノを弾く。思い出が、頭の中を駆け巡っていく。懐かしくて、泣きそうだった。俺の様々な感情を、曲に込める。

 観客は戸惑っているようだったが、それでも黙って曲に身を委ねてくれた。ありがたい、と素直に思う。俺のワガママを、こんなに沢山の人が聴いてくれる。


 これは、楽譜のない曲。



 俺が今、即興で弾いている曲だ。



 時に楽しく、時に悲しく、時に切なく、時に恋しく。

 俺の人生、感情、その全てを、この曲に乗せる。


 ……そうだな、この曲に、題名をつけるとすれば……。

 この曲は。


 ──♪──



『よお、また会ったな。千秋』



 上から、声がした。

 顔を上げると、そこには人がいた。


「……久しぶり」


 俺は素直に、そう声を出す。久しぶりだ。……会った記憶はないのに、心の底からそう言えた。


『何だ、俺のことわかるのか』

「……さあ、どちらとも言えない」


 俺はその人物に対し、そう答える。俺はコイツと話しているというのに、ピアノを弾く手は全くブレていなかった。もしかしたらピアノを弾くという意識の外で、俺はコイツと話しているのかもしれない。

 そしてソイツは無礼講にもピアノの上に腰掛けて、俺に話しかけていた。でもそれで全然音は変わらないから、やはり実際にここにいるわけではないのだろう。


 俺はそう判断してから、彼に言った。


「……一つだけ、聞きたいことがある」

『一つでいいのか? いいけど』


 そう朗らかに笑う彼に対し、俺は続ける。



「お前は、『森下秋』か? それとも、『森春百』か?」



 すると彼は、少しだけ口元を緩ませる。その靄掛かっていた顔が、見えた。

 そしてソイツは、俺と同じ顔をしていた。


『さあな。でも、どっちでもいいだろ』


 彼はそうはぐらかすように言った。その返答に俺は、思わず笑う。


「少なくともどちらかは、正解なのか?」

『あるいは、どちらも正解かもしれないし、どちらも間違いかもしれない』


 彼はピアノの上を歩き、俺のことを見下すように、俺の正面に立つ。


『お前は〝森千秋〟だ。それだけわかってれば、充分だろ?』

「……そうだな」


 俺はそう呟いた。相変わらず指は、動かしたまま。


「でも、何て呼べばいいか、困る」

『別に、お前でいいよ』

「……ああ言えばこう言うな。お前」

『お前こそ』


 それで、と彼は言う。再びピアノの上に腰掛けた。微妙に、俺の使う鍵盤のところには足を乗せずに。彼は足を組み、膝の上に肘を置いてこちらを覗き込む。


『それで? お前の望むものはわかったか?』

「……ああ」


 俺は、頷く。



『ゼンを一人にするな』

「……ゼンを?」

『そうだ。……アイツといれば、アイツと戦っていれば、見えてくるものがきっとある。そうすればいずれ、お前の知りたいこの気持ちも、わかってくるはずだ』

「……本当だな?」

『ああ、約束する』



 脳裏に、そんな会話が蘇った。懐かしい。……俺は、アイツを一人にしなかっただろうか。わからない。

 だけど、わからないことはわかった。


「……俺は、俺の望みの答えは、初めから持っていたものだったよ」


 一度は切り捨てたものだった。俺には必要ないものだと、最初から見限っていたものだった。

 でも目を開けば、手を取れば、深い海の底から這い出たら、掴めた、暖かいものだった。


 俺は初めから、善のことが好きだった。

 そして、俺を取り巻く全ての人々。



「俺はきっと、恋をしているんだ」



 両親、妹、友達、……恋人。

 そして、いつも周りに溢れている、音楽。


 それら全てに、俺は恋をしているのだろう。


『よくもまあそんな恥ずかしいことを堂々と……』

「……お前が言わせたんだろ」

『うん、いいんじゃないか? ……俺にソックリだ』


 彼はそう言って笑う。馬鹿にしている感じではなく、優しさに溢れていた。


『それにこの曲にも、お前の気持ちが溢れている』


 彼はそう言ってピアノから飛び降り、俺の隣に並ぶ。そして、鍵盤を指でなぞった。優しく、愛しい恋人を撫ででもするように。


『音楽って、いいよな』

「……ああ。本当に」


 俺は素直に頷く。彼は俺の返事に満足したように、ニッ、と笑った。


『なあ、千秋。お前はこの曲に、どんな題名を付けるんだ?』

「……決まってる」


 俺はその瞳に笑い返して。

 考えていた言葉を紡ぐ。


 彼は鍵盤に手を置き、満足げに頷いた。


『なるほどな。いいじゃねぇか』

「……偉そうだな」

『最大の褒め言葉だよ。……聞こえるよ。お前の声が』


 彼が一音、指で押す。その音が、まるで波紋が均等に広がっていくように、音に厚みを出して響いていく。優しい優しい、音楽。


『あなたが好きですって』


 好きだ。

 皆、大好きだ。


「……ならいい」


 俺の音楽で、俺の気持ちが少しでも伝わるのなら。

 音楽家として、演奏家として、とても幸せなことなのだろう。


 彼は鍵盤から指を離した。しかしその音は、まだ残っている。この場に、皆の耳に。何より……俺の心に。

 残って、混ざって、失って、また得て、そうやって、次に継がれていくのだろう。


『じゃあな。俺は、もう行くよ。……もう俺は、お前には必要ない』

「……ああ。そうだな」


 俺は頷く。彼はピアノを通り過ぎ、去って行く。俺はもう、手は伸ばさなかった。


 彼の言う通りだ。俺にはもう、彼は必要ない。自分の足で、どこまでも歩いて行ける。

 彼は歩いて行く。舞台の袖を目指し、真っ直ぐと。……そして。


 俺は、目を見開いた。

 彼の行く先に、もう一人の人物が見えたから。


「……ゼン……」


 俺は、そう呟く。思わず客席の方を見ると、善もかすかに目を見開いて舞台袖を凝視していた。しかし他の人が、それを見る様子はない。……俺たちにしか、見えてないのか。


 俺は彼らに視線を戻す。ゼンは、ゼン・フロライトは、彼を見ると嬉しそうに微笑んだ。そして、その手を差し出す。彼は迷わずに、その手を取った。

 彼がこちらを振り返る。彼は優しく笑っていた。……俺と同じで、きっと恋をしている。


 彼は手を前に出した。まるで、ピアノを弾くように。するとその手から音楽が溢れ出す。悲しくて、でも、どこか希望に、満ち溢れたようなメロディー。


 これは……練習曲作品10第3番ホ長調。通称、別れの曲。

 でも、違う。これに、このメロディーに、改めて題名を付けるなら。



 ──再会の曲。



 またな。


 そんな声が、聞こえた。


 そしてメロディーに合わせるように、彼らの後ろに様々な人が現れる。キャンディ、奏、ユーリス、ヤーコプ、ハーネス、イヴ、……他にも、色々。

 きっと、彼の大切な人たちが。


 頬を何かが流れる。確認するまでもなかった。これは、涙だ。


 良かった、と思う。

 彼が幸せで、良かった。


 音楽が流れる。音楽が、終わっていく。また新しい日々が始まる。再会の日を、夢見ながら。


 ……またな、そっちでも、幸せに暮らせよ。


 ──♪──


 最後の一音を、弾いた。自然とため息が溢れる。感嘆のような、虚しさのような、希望のような。そんな思いを孕んだため息だった。


 俺は天を仰ぐ。眩しいライトが目に染みる。……終わったんだ。ここで。


 そして。

 ここから、始まるんだ。


 袖で涙を拭って、俺は立ち上がる。ステージの真ん中へ、歩み寄り……深々と、頭を下げた。その拍子にまた、涙が零れ落ちる。その、次の瞬間。


 パチパチ、と、かすかな拍手が聞こえた。顔を上げると、その音を出した人物が逆光でも見える。……善がこちらを見て、拍手をしていた。

 そしてその音がトリガーとなったように、拍手が広がっていく。やがてそれはこの場所を揺らすほどの音となって、誰もが立ち上がり、俺に笑顔を向けていた。中には泣いている人もいる。俺はもはや涙を拭うことも出来ずに、ただそれを眺めていた。


 長かった、と思う。

 ここに来るまで、長かった。


 善やキャンディに出会って、和奏と再会して、柊木や中島とも友達になって、勇林やハルネスとも出会って、八遠とも出会って、阿妻や吉柳っていうライバルとも出会って……カインとアベル。この二人の中の音楽を見つけて。


 ここまで来た。


 振り返れば、一年も経っていない。それでも、長かった。その分、短かった。


 ありがとう。皆、ありがとう。


 善と目が合う。彼の瞳には、涙が溜まっていた。


 ありがとう。千秋。

 そんな声が聞こえた気がする。


 俺は笑い返して、再び頭を下げた。


 ──この曲に、題名を付けるとするならば。



 ──『Our Love,Our Magic』。


 ──俺を幸せにする、俺たちの魔法。

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