第20話「Our Love,Our Magic」①
──音楽、それは、魔法だった。
涙を流しながら拍手する観衆。誰もが立ち上がり、手の痛さに構わずに手を叩く。
誰もが見とれた。
誰もが魔法にかかった。
そして誰でも、誰かに幸せの魔法をかける、魔法使いなのだろう。
──♪──
音が響いていた。
誰かの歌声が聴こえていた。
俺はゆっくり目を開く。そこには、一人の女性がいた。部屋に置かれたオルガンの前に座り、楽しそうに何かを口ずさみながらオルガンを弾いている。その言葉は俺の知らない言語で、俺には全くもって意味がわからなかった。
俺は半ば無意識に、その人に近づく。
するとその人は顔を上げた。目が合ったから、俺に気がついたらしい。怒られるだろう、と思わず身構えたが……その人が怒るような様子はなかった。ニコッ、と微笑み、まるで席を半分譲るように椅子を左にズレる。いや、実際譲ってくれているのだろう。
俺は頭を下げ、促された場所に座った。近くで見るとそのオルガンはかなり古びており、長い間大切に使われていたのがわかる。……愛を感じる。そんなピアノだった。
すると女性は俺に構わず、またオルガンを弾き始める。よく聴くとそれは、ショパンの「子犬のワルツ」だとわかった。子犬が自分の尻尾を追いかけてクルクルと回るさまを描いた曲である。……その女性が弾く「子犬のワルツ」は、まさに子犬が尻尾を追いかけ回り、その様子を女性が微笑ましく眺めている様子がありありと浮かばせてくる。技術的に上手いというわけではなかったが、とても楽しい演奏だった。
そこでふと、子供の笑い声が聴こえた。純粋無垢に笑う声が、部屋に響いていく。俺が振り返ると……そこにはゆりかごがあった。そして、そこには。
「カイン……いや、アベル……?」
どっちだ、と思ったが、どうせ同じならどっちでもいいのだろう。……そこにいるのは、確かにその男だった。彼は女性の演奏を聴き、楽しそうにキャッキャと笑っている。
すると隣に座る女性が、何かを言った。何と言っているのかは、相変わらずわからなかったが……「かわいいでしょ」、というニュアンスのことを言っていることは充分理解できた。俺は、頷く。
女性はまたニコッ、と笑って、オルガンを弾き始めた。楽しいメロディーが、部屋を包む。クルクル、クルクル、回っていく。楽しい楽しい、追いかけっこ。
俺もそのオルガンに指を置く。使い古された鍵盤は、あっさりと抵抗感なく俺を受け入れた。軽い鍵盤に、様々な気持ちを乗せて。俺は女性に合わせてメロディーを刻む。女性も、俺との演奏を楽しんでいるようだった。
オルガンの音と、子供の笑い声。部屋を包む暖かな風。全てが心地良い。……泣きそうなくらい、優しい空間だ。
やがて「子犬のワルツ」が終わる。俺も女性も、鍵盤から指を離した。女性が俺の方に体を向け、ニコッと笑う。そして俺に手を差し出した。優しい手。俺はその手をおずおずと握る。女性も俺の手を握り返して、熱い握手を交わした。
「……カインも、アベルも、大丈夫です。俺がきっと、なんとかします」
俺も、笑う。
「だから、安心してください。……あなたの音楽は、俺が継ぎます」
優しい「子犬のワルツ」。
音楽を以て二人の心を覗き込んだ。そこにこんなに優しい空間があるなら、きっとまだ二人は大丈夫。
「必ず、二人はまた音楽が好きになる。あなたが愛した音楽を」
何で二人が音楽を嫌いになったのか、俺は知らない。
何で二人がお互いを消したがっているのか、俺は知らない。
それでもきっと、大丈夫だと思える。
俺の言葉の意味なんて、この人にはわからないはずだ。しかし女性は、ゆっくり頷いた。そして俺の背後を指差す。俺がその指の先を追うと……そこには、扉があった。……あそこから出ろってことか。
俺は頷き、女性の手を離して踵を返す。扉に向かって歩き出した。
「……私の馬鹿な子どもたちを、よろしくね」
するとそこで、声が背中に届く。俺が振り返ると、女性は微笑んでいた。俺は目を見開いてから……笑い返す。
「任せてください」
俺はドアノブに手をかける。少し力を入れると、扉の隙間から光が差し込んだ。
皆が、この先で待っている。
「ありがとう、チアキ」
その女性の声を最後に、俺は扉を開け放った。
──♪──
気づくと俺は、カインとアベル、二人を馬乗りする形で押し倒していた。二人の表情には驚愕の色が浮かんでいる。……俺は何も言えなかった。ただ、……ただ。
「……森下秋、」
「……何故、お前が泣く」
二人が戸惑ったように、そう呟く。
たまらなく悲しいような心地がした。そして俺の瞳からは涙がこぼれていた。その涙は止めどなく流れ続ける。止めようとも思わない。
「……もうやめよう」
俺は、呟く。
「……もうこんな、悲しい戦争なんて、やめよう」
俺の涙が、二人に降り積もっていく。二人は何も言わなかった。ただ俺のことを、訝しげな瞳で見つめているだけである。俺は、続けた。
「アンタらは、音楽が好きだったはずだ。アンタらの母親が『子犬のワルツ』を弾いて、それでお前らは笑ってたんだ。幸せそうに、笑ってたんだよ!! ……それが、何で、こんなことに……」
……いや、俺にも、似たような覚えがある。
昔から、音楽が好きだった。ピアノを弾く父さんが好きだった。沢山の人を笑顔にするピアノが好きだった。俺もピアノが弾きたくて、弾けたら楽しくて、とにかくピアノから吐き出される音楽がとても綺麗で。大好きだった。
でも父さんがあんなことになって、大好きな父さんが引きこもって、母さんから元気な笑顔が少なくなって……家族が、バラバラになって、いつしか音楽が嫌いになった。父さんのことも、憎むようになっていた。
俺は、音楽から離れた。
かつて俺は音楽で幸せになった。でも、一度嫌いになった。それでも、音楽を好きでいるのをやめられなかった。
俺は、ピアニストだ。
沢山の人を笑顔で幸せにするのが、俺の役目だ。
俺は起き上がる。起き上がり、二人から少しだけ離れる。そしてピアノを取り出した。指先で鍵盤を叩き、一度天を見上げる。
……二人には、聴いてほしい。この二人が愛した母親の愛した、音楽を。
俺はあくまで、代わりだけれど。
それでまたこの二人が音楽を好きになってくれるなら、どんなにいいことだろうと思うのだ。
俺は、メロディーを指先で描き出す。
──ショパン、『子犬のワルツ』。
今ここに、二人の母親はいない。二人にとってのこの音楽の役目は、俺じゃない。
だけど、残されたものをなんとか残すんだ。
……例えば、どれだけ暴力を振るわれても、どんな時間怒られ続けても、決して泣かない人がいた。
しかしその人物が、たった一分間の演奏で涙をこぼすことがあるのだ。
音楽は、その人の柔らかなところにそっと触れる。扉を優しくノックすることができるのだ。そうすれば、自ずと扉を開くことができる。音楽には、そんな力がある。
──俺は、音楽の力を信じてる。
悲しいことがあった。二度と立ち上がれないと本気で思った。でも、また立ち上がれる。立ち上がって、笑うことができる。人間にはもともと、そんな力が備わっているのだ。
俺は、その手伝いをするだけ。
光が差し込んでくるような錯覚がした。顔をあげると、柔らかく何かが触れる。懐かしくて、涙がこぼれそうになる。
何だ、アンタ、結構やるじゃねぇか。そんな声が、耳元で聞こえた気がした。




