第19話「原初の教え」②
ヴァンラータ・フォスター。
……聞いたことのない名前だった、が、何故かそれが誰のことなのか俺はピンと来ていた。
一度、「コン・アニマ」に誘拐されたときに、俺はある手記を見た。それが、俺に「ウィーン音楽聖戦」のこと、森下秋のことを教えてくれた……。
……あれの持ち主、それこそがヴァンラータ・フォスターなのだろう。そして……この人の、前世。
「……俺は、自分がもう一度あの憧れのピアニスト、森下秋に会えるのだと思った。……自分の息子、森千秋として。こんなに幸せなことは二度とないと思った」
そこで彼は、小さく微笑んだ。本当に、嬉しかったのだろう。……。
「……しかし生まれてすぐ、春百は亡くなった。俺は次の日に、コンサートを控えていた。……正直、コンサートを出来るようなメンタルではなかった。どうしてこの日にコンサートの予定を入れてしまったのだろうと、自分を呪った。……ステージに立つのが、初めて怖くなった。
……だが、そこで思ったんだ。森下秋なら、きっとここで逃げようとはしないだろうと。……俺たちピアニストの役目は、一人でも多くの人を音楽で幸せにすることだ。沢山の人が、俺のピアノを楽しみにしているんだ。……だったら、天国へ行った春百のためにも、春百を亡くして悲しみにくれる十夏のためにも……春百と離れてしまった、千秋のためにも、俺はピアノを弾くべきだと思った。だから……ステージに立って、俺は、自分の思う最高のパフォーマンスをした。……それは今も、後悔していない。
……だが、その結果があのザマだ。
……俺は、〝死のピアニスト〟だなんて呼ばれるようになってしまって……俺の妻である十夏も、ピアノを好きになってくれた千秋も……まだ当時生まれていなかった春万も、同時に不幸にしてしまった。……そんな俺に、もうピアノに触る資格なんてないと思い……俺は、まるで子供のように、部屋から出ることがなくなった」
彼はきっと、強くあろうとしたのだろう。
しかし彼はそれで失敗し、途方にくれたのだろう。
「……前世では、憧れのピアニストを救うことも、今世では、愛する家族を守ることも、どちらも出来なかった……。俺は、何も力がない、ただ人より少しピアノが少し上手く弾けるだけの、弱い人間だ。……だが、お前がオーストリアへ向かうと知った。きっとお前はまた、戦争に巻き込まれる。……俺はもう二度と、何も出来なかったと思いたくない。もう二度と、自分の子供を失いたくない」
帰ろう、と、彼は言った。
「俺とここで帰ろう。千秋」
──────────
俺は、黙った。同じく彼も、何も喋らなかった。ただ俺の答えを待っていた。
俺は、考えに考えて、結論を言う。
……いや、考えたのは結論じゃない。俺の、言いたいこと全てだ。結論は、初めから決まっている。
「俺は、帰らない」
彼は少しだけ驚いたように、目を見張った。しかしすぐに、悲しそうな表情になる。
「……やはり、こんな父親と一緒には、帰りたくないか?」
「それも違う」
俺はすぐにそれを否定した。彼は再び目を見開く。
「俺にはここで、やらないといけないことがあるんだ。だから帰らない。それだけだ」
「千秋……」
「……俺は、アンタが嫌いだった。いや、今も、別に好き、って言うには語弊がある。……アンタには、自分でもどんな感情を抱いているのか、わからない」
俺は彼に近づいた。こんなに近くでこの人を見るには、なんだか違和感がある。
「アンタのせいで、俺の人生めちゃくちゃだったよ。アンタの息子だって後ろ指さされて、ピアノどころか音楽も嫌いになって、正直生きがいなんてなかったよ。……でも俺は、あるやつに出会ったんだ。ソイツは酷いやつでさ。俺が嫌だっつってんのに、俺にピアノやることを強制してきて、あまつさえ俺のピアノが好きだって言うんだよ。……他にも、歌がめちゃくちゃ上手いやつとか、エレクトーンの上手い幼馴染みとか、達観してて大人びた小学生とか、アンタの演奏が好きだって言ってたピアニストとか、俺が全然敵わないって思うピアニストとか……色々出会ったんだよ。きっとその迷惑なヤツに出会わなかったら……俺は、今も塞ぎ込んだままだった」
ゼンに出会って、俺は変わった。
何度も手を払い除けたけれど、一度手を取ってしまったら……そこには、沢山の人が待っていた。いや、その人たちは俺が初めから持っていたものだ。でも、ゼンの手を取って初めて気づいた人たちだ。
俺はきっと、人に恵まれている。沢山の人と繋がりを持って、俺は、変わった。
人と生きるということ。音楽は楽しいんだということ。沢山の感情が、俺の中にはあったんだということ。
全て。
「アンタのせいで塞ぎ込んでいた俺を救ってくれたのは、アンタじゃなかった」
貴方じゃなかったのよ。
そんな阿妻の言葉を思い出す。
「でも」
それでも。
「アンタが俺に音楽を教えてくれなかったら、俺はきっと今出会った人たちとも出会わなかった」
俺にピアノがあったから、音楽があったから、俺は様々な人と出会い、繋がりを持った。
……そうなるとやっぱり、俺は、この人に感謝するべきなのだろう。するべき、というか、したい。
「俺はこの戦争を止める。音楽は誰かを傷つけるためのものじゃない。……俺はアンタが教えてくれたピアノで、そう証明する。帰るのは、その後だ」
彼は、何も言わなかった。俺は、小さく笑う。
「俺、好きな人がいるんだ。だから、行かないと」
「……!」
「全部終わったら、一緒に帰ろう。それで、アンタは母さんに死ぬほど謝って、死ぬほど怒られて、春万にも死ぬほど謝って、初めましてってちゃんと言って……それで、一緒に音楽をしよう。そしたら俺たち、絶対にやり直せる」
なあ、と俺は呟く。
「……父さん」
彼は……父さんは、目玉が飛び出るほど目を見開く。そして一気に泣きそうな顔になった。……そんな情けない顔するなよ。大人だろ。
「あと言っておくが、俺はアンタらと違って前世の記憶がない。俺の前世は森下秋だって言われてるけど……俺は、森千秋だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「そう、か。……そうだな……」
父さんは小さく笑い、ため息をつくように、何か安堵をしたようにそっと息を吐き出す。
「……行ってきなさい。千秋」
「……ああ」
俺は頷いてから、再びスマホを取り出した。そして戸惑ったように俺を見つめる父さんに構わず、俺はある人に電話を掛ける。
「あ、母さん?」
「……っ」
『ち、千秋……? どうしたの?』
俺は父さんの方をチラッと見てから言った。
「父さん、こっちに来てたんだ。だから今、オーストリアにいる」
『……え!? え、何で一冬くんが……?』
「何か俺のことが心配で付いて来たらしい」
『そ、そう……なの……?』
「とりあえず……俺も父さんも、無事だから」
俺はスマホを握る手に力を込める。
「……父さんと絶対、日本に帰るから」
『……え、ええ』
「だから、母さん。春万と待ってて」
俺の言葉に、母さんはしばらく黙った。そして。
『……ええ。待ってるわ。ここで、待ってる』
「……ありがとう」
母さんには、きっと話の一つだってわかっていないのだろう。俺だって、全てを把握しているだなんて言えない。
それでも、俺たちは家族だ。
俺は電話を切らないまま、父さんに向かってスマホを投げる。父さんは半ば反射的に、それを受け取った。
「母さんと話しててくれ。俺は行く」
「なっ、千秋っ……」
父さんはスマホと俺のことを見比べてから言う。
「……お前の探す人は、たぶん地下にいる。下へ行くには、隠し階段を使わないといけないからな。……そこを真っ直ぐ行って、床のくぼみに指をかけたら開くはずだ」
「……わかった、ありがとう!」
俺は父さんの行った通りに走り出した。……先程より立ち昇る煙が強くなっているように感じる。早く、行かなければ。
先を急ぐ俺の一方、父さんは。
俺に渡されたスマホをしばらく眺めてから、ゆっくりとぎこちなく、それを耳にあてた。
『──っと、千秋? ちょっと、ねぇってば』
「……十夏」
父さんが声を出すと、電話口の向こう側でかすかに息を呑むような音がした。そして、小さく声が返ってくる。
『……一冬、くん……?』
「ああ。……悪かった、突然、いなくなって……いや、他にももっと、色々……」
『……』
父さんの言葉に、母さんは黙る。父さんもそれ以上何も言えないでいると、しばらくしてようやく声が返ってきた。
『……そういうのは、帰ってきてから直接言ってよね』
「……そうだな」
『……ねぇ、千秋は大丈夫なの?』
母さんの言葉に、父さんは一瞬言葉を詰まらせてから言う。
「……大丈夫だ。あいつは、強いからな」
『……そうね』
「……あいつが帰ってくるまで、何を話そうか」
そんな父さんの言葉に、母さんはふふっ、と笑い返した。
『あら。……私たちには、積もる話がたくさんあるはずじゃない?』
どこか楽しそうな母さんに、父さんは再びそうだな、と微笑んで相槌を打つのだった。




