第19話「原初の教え」①
「……父、さん……」
俺は思わずそう呟く。呟いてから、久しぶりに自分がその単語を口にしたことを今更のように思い出した。森一冬、だなんて、他人事のように呼んでいたから。
彼は俺の記憶の中の彼とは、随分変わっていた。無精髭を生やし、かなりクローゼットの奥から引っ張り出して来たであろうヨレヨレのスーツ。瞳にはまるで生気がない。……だが、その姿にはやはり、何か貫禄のようなものがあるように思う。こう、駄目な大人、という感じなのに、そのカリスマ性に似たようなオーラは拭えない。……そういう意味で間違いなくこの人は……俺の、父さん。森一冬だ。
彼はしばらく黙り、やがて口を開いた。
「……久しぶりだな。千秋」
ああ、本当に、久しぶりだよ。
俺は心の中でそう呟きながら、何も答えられずにいた。何だろう。言いたいことがたくさんあったはずなのに、今はその一つの言葉さえ浮かんでこない。あんなに文句を言いたかったのに。あんなに恨み言をぶつけてやりたかったのに。
今は心の中に、その一つさえ見つからない。
不思議なほど、心は平静を保っていて……静かな、穏やかな気持ちだった。そこで、気づく。俺にはもう、この人を恨んでいるだとか憎いだとか、そういう感情を抱いていないことに。
俺は顔をスマホから少しだけ離して答える。
「……久しぶり」
俺の言葉に、彼はかすかに目を見開いた。何か言われると思っていたのに、とでも言いたげな瞳だった。俺もそう思ってたよ。
『な、何、突然どうしたの? 千秋』
「ああ、母さん……」
俺は再びスマホを耳に戻してから、彼の方をチラッと見る。彼は悲しそうに目を細めてから言った。
「……すまない。電話を切ってくれないか。俺が今ここにいるということは、十夏には秘密にしているんだ」
それは、母さんの言葉からもわかる。俺は少し迷ってから、またスマホの方に意識を戻した。
「……とりあえず、落ち着いて。ひとまず待ってみたらいいと思う。もしかしたらフラッと戻ってくるかもしれないし……」
『そ、そうかしら……』
「ああ。……とりあえず、今取り込んでるから、また後で電話する」
『あ、うん。わざわざごめんなさい』
「あんまり気に病むなよ」
そう言い残してから俺は電話を切った。そしてスマホを、ポケットの中にしまう。……しまって、再び彼の方を見た。
「……何でアンタが、こんなとこにいるんだよ」
「……」
彼は、何も言わない。それをいいことに、俺は続けた。
「そもそも部屋に籠もりっきりだったアンタが部屋から出てきたこと自体が驚きだし……それに、今がこんな状態なのに、全然驚いたりパニックになったりしてないんだな」
「……それは、お前もだろう……」
彼の言葉に、俺は黙った。それをいいことに、彼は俺に近寄ってくる。
「……こんな不甲斐ない父親が、何故今になって。加えてこんなオーストリアという日本から遠く離れた場所でお前の前に現れたと思うだろう。千秋」
「……そうだな」
「……お前がオーストリアへ向かうという話を、実は俺は……あの部屋の中で、聞いていたんだ」
耳はいいからな、と彼は呟く。……確かに、リビングはあの部屋のすぐ近くだけど……。
俺が電話している相手が母さんだとわかったのも、その耳のお陰か。
「だから俺は……部屋を出て、お前に付いて行こうと決心した」
「……?」
俺は首を傾げる。話を聞いたことと、部屋を出て俺に付いて来る、というのは……上手く話が、繋がらない。
「……千秋、少し、昔話をしよう。これは、十夏も知らない……俺とお前の、話だ」
「……母さんも、知らない……」
彼は近くの瓦礫に腰掛ける。するとそこが彼が座るための椅子に見えてくるもんだから、この人はやはりすごい。
そして彼はゆっくり口を開いた。ゼンを追いかけなければ、と頭の片隅では思ったが、今はこの人の話を聞くことが最適解な気がした。俺は黙ったまま、その場に立ち続ける。
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「俺の名はお前も知る通り、森一冬だ。昔から音楽に強い関心を持っていて、中でもピアノ……それに強い関心を持ったと親から聞いている。しかし俺は、どうやら人のピアノを聴くのが好きだったようだ。それを見て両親は俺に……ピアノを習いさせ始めた。やがて俺はピアノを弾くことも好きになった。……あっという間に、その世界の魅力の虜にさせられたよ。
世界的にも日本人ピアニストとして人気になった俺は、十夏に出会った。彼女は楽器をやる人ではなかったが、主に音楽史を研究する大学生だった。……俺のピアノが好きだと言ってくれた。あなたのピアノは優しいピアノねって、褒めてくれた。……それが出会いだった。何年か付き合って、その後結婚した。
そして俺たちの間には、子供を授かった。……しかも、双子。俺たちは幸せだった。これから四人で幸せに生きていくんだって、信じて疑うことなどなかった。……しかし、お前も知る通り……春百は、生まれてすぐに……亡くなった」
彼は弱々しく笑った。やはりそこに、生気がない。
「ここからが、十夏も知らない話だ。彼女も知らない、俺とお前の話」
「……ああ」
「……兄を春百、弟を千秋と、俺たちはお前たちが生まれる前から二人で決めていた。……そして俺はそう決めた時……あることを、思い出した」
そこで彼は俺のことを見上げた。真っ直ぐ、目が合う。
「……俺には、前世の記憶があった」
「……は……?」
俺は半ば無意識に情けなく、そう呟く。前世の、記憶。まさか、コイツも……。
「……とは言っても、お前たちのように、俺の前世は演奏家ではなかった。……それを眺める、あくまで一人のファンだったという……そんな前世だった」
千秋、と彼は俺を呼ぶ。
「……俺の前世は、お前……森下秋の熱狂的なファンだった……ヴァンラータ・フォスターだ」




