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第16話「波乱のコンクール」③

 俺が演奏する三曲は、まあ特にどの曲にこだわりがあるとかもないから、適当に開いたページとか、完全な運で決めた。もちろん八分に収まるように調整はしたが。……運も実力の内と言うし、これでいいだろう。という感じで。


 俺が舞台に出ると、客席は嫌なほどシン、と静まり返る。……もうすぐ演奏が始まる、というのもあると思うが……この静寂は、それだけではないだろう。

 森千秋、と紹介される。俺はしっかり頭を下げ、そして椅子の高さを調節した。少し下げて、高さを確かめてから椅子に座る。


 座ってからため息を一つ。天を見上げると、目が眩むほどの眩しいライトたちと目が合った。そのライトたちは俺を、俺だけを、爛々と照らしている。


 ……呼吸は、整った。

 鍵盤に、指を乗せる。



 最初に感じたのは、〝高揚〟だった。


 指が吸い付けられる、と比喩ではなくそう思った。指が、手が、体が、全身が、ピアノを叩く。時に乱暴に、時に優しく、時に壊すように、時に撫でるように。

 ヒュッ、と、息を吸う。確かな歓喜に、確かに興奮していた。楽しい、と思う。体を照りつけるライトも、客席から投げられる視線も気にならない。その全てを、俺の音にしてやる。そんな負けん気に似たような感情が体の底から湧き上がってきた。


 ……やっぱり俺は、ピアノを弾くのがこんなにも好きなんだな。本当は少しだけステージに立つのを未だに怖がっていて、足が小さく震えているけど……でも、確実に俺は楽しんでいた。ステージで弾くことを、こんなにも喜んでいる。良かった、と思った。

 俺は、きっと帰ってきた。ピアニストとしての森千秋は、今ここに、帰ってきた。


 一曲目が終わってすぐに、二曲目に乗り出す。客席から、息を呑む音が聴こえた気がした。……あるいはそれは、俺の喉から鳴った音かもしれない。


 今、変わった。鍵盤の音が、変わった。もちろんそれは、ピアノが駄目になったとか、そういうことではなく……俺の、気持ち。感情。それが、弾き方を変えさせてきた。より良く、音楽が、ここにいる誰にも届くように。

 客席に軽く視線を送る。誰もが俺を見つめていた。心の中で、唇を舌でなぞる。もしくは、本当にやっていたかもしれない。


 ……ここにいる全員に、見せてやる。魅せてやる。森千秋を。

 俺は、ここにいるぞ。



 ──シューマン、『Etudes-tableaux Op.39 No.1』。



 通称、「音の絵」。


 荒々しい曲調の練習曲であり、右手は幅広い音程の跳躍、左手は強拍と弱拍のパターンを変えるシンコペーションを含むオクターブが要求されてくる。拍子の変更や不規則なフレーズ。まさに破天荒。……今の俺にピッタリだ、というのは、自惚れ過ぎか。


 今の俺にはきっと、箸の持ち方も、息の吸い方さえわからない。わかるのは、確かな高揚。酔いそうになるピアノの音色。そしてそれを奏でる、指の動かし方一つ一つ。


 テンションを上げたまま、二曲目を弾き終わる。そしてまたすぐに、三曲目を弾き始めた。……吉柳の気持ちがよくわかる。時間が、惜しい。息継ぎの時間、次の曲に移る時間、一秒だって待っていられない。早く次の曲が、弾きたい。聴きたい。

 三曲目に、選んだのは。


「──……」


 俺は息を吐いた。そして、鍵盤を落とし込む。

 ──空気が、変わった。


 それを感じながら、俺は心の向くまま指を動かす。先程の荒ぶるような、嵐のような、そんな気持ちは去って行った。今あるのは……ただ、ひたすら、穏やかな気持ち。それはまるで、深い深い森の奥でしか味わえない……木漏れ日のような。



 ──バッハ、『Prelude and Fugue no. 9 in E major, BWV 854』。



 平均律クラヴィーア曲集、というバッハの有名な曲集の中の曲だ。今回、必ずこの中から一曲演奏しなければいけないことになっている。そして俺は、それを最後に持ってきた。……俺なりの曲の解釈で。優しく、熱くなった心を落ち着けるように。観客にも俺にも、ひとまずの休憩だ。


 指を動かしながら、俺は心の中で呟く。さよなら、ひとまずはさよなら。また会えたなら、きっと俺はまた一回り成長する。成長して、貴方たちの前に現れる。それを、約束しよう。

 ……そしてもし、貴方が俺の演奏を聴いてくれるなら、俺はこの世で一番幸福だと言えるだろう。


 最後の一音を弾く。そうして俺は、束の間の余韻に浸ろうとした。しかしその前に。



 ワッ! と、観客から歓声が上がった。



 突然のことに思わず俺は反射的にビクッ、となってしまう。それから俺は、改めて人前で演奏をしていたことを思い出した。……演奏の時は大分ハイになってたからな。遅れて頭が目の前の光景を理解し始めたのか、足が震えだす。でも最後の最後で、そんなカッコ悪いところは見せられない。


 立ち上がって、客に向かって礼をした。するとまた歓声が沸く。顔を上げると、たくさんの笑顔がそこにはあった。逆光でも、それでも見える。──ああ、そうか、これか。


 これが見たくて、皆あんなに必死にステージに上がってくるのか。

 ……あんたもそうだったのか? ……父さん。


 今ならアンタの気持ち、少しはわかるかもしれないよ。





「アキ、お帰り〜」

「おう、ただいま……いや、ただいまでいいのか? ここ俺の席じゃな……っていうか、ゼンどこ行ったんだ?」

「頑張ってたんだけど、千秋の次に弾いた人の聴いて外に出てっちゃった。限界だったみたいだねー」


 俺の問いに、和奏があっけらかんとそう答える。そして、ゼンもいないしここ座りなよ、とゼンの席であろうところを女性陣二人に促された。いや、いいのかよ。コイツら、ゼンの扱い雑だな……。


「ちなみにゼン、アキの演奏褒めてたよ。流石はアキ、一つ一つが綺麗で、聴いていて心地良かったって」

「そう……なら、良かったけど……」


 その伝言に、思わず俺は口を手で抑える。ヤバい、普通に褒められてニヤけそう……というか、ニヤける……。


「はいはい、好きな人に褒められてヨカッタネー」

「千秋、顔ユルミスギー」

「お、お前らなぁっ……!!」


 キャンディと和奏にそう何故か片言で茶化され、俺は文句を言おうと口を開く。しかしすぐにそれを留めた。


「……あと俺は、控室の方で聴くつもりだから……席は使わないでいい」

「あ、そうなの?」

「……人多いし、ゆっくり休みがてら聴きたいからな……」

「オッケー、じゃあ仕方ないけど私たち二人で聴いてるわ」

「はあ……それはこっちのセリフよ……」

「……お前ら何だかんだ仲いいから大丈夫だよ」

「「良くない」」


 ……やっぱ仲いいな。


 俺は苦笑いを浮かべがてら、二人に手を振ってその場から立ち去る。俺が会場の外に出るとすぐに、背後で次のヤツの演奏が始まった。

 俺は一度立ち止まってから、そこに立っていた人影に声をかける。


「吉柳」

「おう、お疲れ」


 俺が近くの椅子に座ると、吉柳も横に並んで座った。そして何も言わず黙っていると、やがて吉柳が口を開く。


「……すごかった」

「……おう」

「……正直、お前を舐めてた。お前は、小学生以降、ピアノをやってないって聞いてたし……ここまで、仕上げてくるなんてな。結局俺も、周りで勝手にあーだこーだ言っていたやつらと同じだったってことだな……すまん」


 そう言って吉柳は、突然盛大に頭を下げてきた。思わず俺はビクッ、となる。律儀なヤツだな、本当……。


「か、顔上げろって……それに、俺は気にしてねぇし……」

「いや、これは俺なりの礼儀だ」


 吉柳はしばらくそうしてから顔を上げる。


「……あんたはやっぱ、森一冬さんの息子だな。しっかり、血が通ってるって思ったよ」

「……」


 それは、何というか、少し複雑な心境だと思わなくもないが……まあ、コイツからしたら、この言葉は最大の褒め言葉だろうしな……。


「……ありがとう」


 俺は小さくそう礼を言う。そしていつか、この真っ直ぐな青年のために、今の言葉を同じく真っ直ぐに受け取れる日が来ればいいと、そう思った。


 そこで前から、カツン、と音が響く。良く通る音だった。……そして俺は、その音の主が誰だか、何故か確信していた。


「あれ、阿妻」


 隣にいた吉柳がそう声を上げる。俺が顔を上げると、確かにそこには彼の声と俺の予想通り……阿妻伊吹が、立っていた。それはそれは、とても優雅に。


「お前、もうすぐ出番だろ」

「ふふっ、森千秋さんに、どうしても会いたくて……ね?」


 そう言って阿妻はニコッ、と笑う。反射的に背筋が凍るような心地がした。……何故だか、彼女の前は……生きている心地がしない。


「まあ確かに時間もないので、単刀直入に言いますが」


 阿妻はそう前置きをしてから、言い放つ。



「正直、拍子抜けでしたわ」



 その、俺のピアノに対する感想は。

 吉柳のとは、全く真逆のものだった。

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