第16話「波乱のコンクール」②
高校の部は三日間に分けて行われる。そして俺が出るのはその最終日だ。
「……お前ら、こんなとこにいたのか」
「あ。アキ。向こういなくていいの?」
「ああ。客席で他のヤツの演奏とか聴きたいからな。……で」
俺は客席の後ろの方にいたキャンディと会話をしてから、足元に目を落とす。
「……お前は何やってんだ? ゼン」
「いやぁ〜、あはは〜……」
キャンディと和奏の前で蹲っていたゼンは、弱々しく誤魔化すように笑った。……傍から見ると、キャンディと和奏がゼンにカツアゲとかそこら辺のことをしているようにしか見えない。言わないが。
「ほらこいつ、リズム感だけがえげつないほど長けてるからさ。少しでもズレると気持ち悪いんだって」
「どんなに上手くても、少しズレるのは仕方ないでしょ……」
「わかってるんだけどさぁ……うん、駄目だ。気持ち悪い……」
今は演奏していないからこうして会話が出来ているが、始まったらまたこうしてコイツは苦しむのだろうか。
「……じゃあ外にいればいいだろ」
「それもやだ……」
「ワガママか」
「ワガママなのよ」
「ワガママね」
俺の言葉にキャンディと和奏も声を掛け合い、ゼンは小さく呻く。……本当に大丈夫なのだろうか。コイツ。
「耳がいいっていうのは羨ましいけど、良すぎるのも悩みものよね〜、ほんと……」
「……耳がいいわけでは、無いんだけどね」
ゼンはキャンディの言葉にそう小さく返してから立ち上がる。時計を見上げると、もうすぐ次の演奏者だった。
「席座る?」
「いや……立ってる方が楽。皆は席行っててもいいよ」
「あんたを置いてけるか」
キャンディがそう言ってゼンのスネ辺りを蹴る。ゼンはいって、と小さく呟きつつも少しだけ嬉しそうに笑っていた。いやでも、席に二千円と少し払ってるんだろコイツら。
そんなことを思いつつも俺はステージに目を向ける。するとそこで出て来たのは……あの吉柳だった。
「……アイツ……」
「何? 知り合い?」
「……いや、さっき話しかけられたんだ」
和奏の言葉に俺はそう返す。和奏はふーん、と興味なさそうに呟くだけだった。
吉柳海、と名前が紹介される。彼は短くお辞儀をしてから椅子の高さを手早く調節し、待ちくたびれたと言うみたいに椅子に座り、すぐに弾き始めた。
……そしてその瞬間、全身が泡立つのがわかる。
なるほど、と自然に小さく呟いていた。なるほど、これは、すごい。くっ、と喉が鳴る。息を呑むとは、まさにこのことだ。
高校の部は、ある程度曲の指定があるが、小学校や中学校に比べたらかなり自由な方だ。……それほど、個性や技術が分かれてくるとも言える。
俺たちは計三曲を、約八分にまとめるよう曲を組み合わせなければいけない。それを超えれば、失格だ。
彼は一曲目を軽やかに弾き終えると、息をつく間もなくすぐに二曲目に乗り出した。まず一音を聴き、すぐにああ、と感嘆のため息が口から漏れ出す。
その技巧、その表現力。柔らかくしなやかなタッチ。あのどちらかと言えば筋肉質なあの体から、こんなに繊細な音楽が紡ぎ出されるのか。そう思い俺は思わず感心してしまった。
──ショパン、『Etudes, Op.10 No.4』。
とても早いタッチが特徴で、油断するとすぐに指が転がり、置いて行かれてしまう。しかし彼はそれをたやすく……たやすく見えるように、弾いている。彼の横顔はとても楽しそうで、思わず俺でも弾けそう、と思ってしまう。……いや、練習したらそりゃ弾けるんだろうが。
ドッ、ドッ、と心臓が音を立てているのがわかった。これは、これはすごい。否応無しに鳥肌を立てさせられる。このペースで、三曲目か。
約二分半の曲が、あっという間に終わる。そして彼はまたすぐに三曲目を弾き始めた。
──ドビュッシー、『Pour les arpeges composes』。
組み合わされたアルペッジョのための、という練習曲である。
しかし練習曲の割に一切曲想表示がされていないのが特徴だ。そのため、演奏者の想像力といったものが問われる。
……にしてもこの曲、五分くらいあった気がするんだが……? だから一曲目がやけに短かったのか。
そう分析をする傍らで、その演奏に聴き惚れる自分がいるのがわかる。一音一音で、魂が揺さぶられる。音楽の渦の中に閉じ込められて、そこから抜け出すことは適わない。むしろずっとそこにいたいと願ってしまうような、そんなことを思ってしまう。
彼はその曲をノンストップで走り抜けた。約五分の曲なのに、ものの三十秒しか聴けなかったようなもの寂しさ、三十分まるまる聴いたような満足感。この二つが同時に襲ってくる。
彼が立ち上がり一礼すると、わっ、と溢れんばかりの拍手が場を包んだ。俺も素直な気持ちで拍手をしていた。心臓が、音を立てて震えている。……そうか、このレベルか。このレベルに、挑まないといけないのか。俺は。
吉柳が去ると、会場はたった今その言葉を思い出したと言うように、それぞれの感想を吐き出す。すごかった、予選でこれか、次はどんな演奏が聴けるんだろう。そんな言葉が飛び交っていた。それに頷く横で、そういえばゼンは、とその顔を覗き込む。すると。
「──っ、すごかったーっ……!!」
ゼンは顔を手で覆い、高揚する気持ちを抑えるように笑っていた。
「すごい、全然テンポ狂ってなかったし、曲の切り替えも自然で……まるで全部が一つの曲みたいだった。あの人、すごいんだねぇ……」
ねっ、とゼンが俺の顔を見て同意を求めてくる。俺はその顔をしばらく見つめて……。
「──いっでっ!?」
思いっきり脇腹を殴ってやると、ゼンが大きく悲鳴を上げ、周りから視線が集まる。しかし俺は素知らぬ顔だった。
「い、いっだ……あ、アキ、何!? 急に何!?」
「……嫉妬したんだね」
「まあ今のは、ゼンが悪い」
「…………………………」
涙目になるゼンに対し、俺はそっぽを向く。ゼンは俺に殴られたところを抑えながら、一人だけ訳がわからず首を傾げるのだった。
……嫉妬……ああ、確かにこれは、嫉妬だな。うん。
俺は控室まで歩いてきていた。それから手近の椅子に座り、スニーカーとローファーを履き替える。地面に足を付くと、コツン、と静寂にその音だけが響いた。……聴き慣れない音だが、ローファーが地を着く音は、何とも心地良い気分にさせてくれる。俺は好きだ。……どうしても靴が足に慣れる前に痛くて諦めてしまうから、履きはしないが。
「森千秋」
横からフルネームで呼ばれる。そっちを見ると、そこには吉柳が立っていた。何と返せばいいかわからず、とりあえず軽く手だけ上げておく。すると彼も律儀に小さく手を振り返してくれた。
「……お疲れ」
「ふん、あんなの肩慣らし程度にもならないな」
俺の言葉に吉柳はすぐにそう返す。その表情を見る限り、本当に余裕そうだ。流石、このコンクールの大本命だと言われているだけある。
「それで、俺の演奏はお前から見てどうだった」
すると吉柳はチラッ、チラッ、と俺の顔を伺ってきた。どうやら、俺からの感想が聞きたいらしい。いや、俺の、というより……コイツにとってはきっと、〝森一冬の息子〟の感想、か。
俺は膝の上で手を組みながら、正直な感想を言う。
「……素直にすごかったと思える。そんな演奏だった。細やかで繊細な指使いに、新たな切り口から攻めた曲の解釈。曲自体は何回も聴いたことがあるはずなのに、初めてこの曲を知って出会ったみたいな、そんな新鮮感……ずっと昔から知っていたような、そんな懐かしさを同時に味わえた。俺は、すごい演奏を聴かせてもらったと思う」
俺が顔を上げると、吉柳は目を見開いて固まっていた。まさか、そんなに褒められるとは思っていなかった、とでも言いたげな表情だった。しかし俺が見つめていることに気づくと、ハッとしたように口を半開きにする。
「ま、まあ、俺の演奏はすごいからな。妥当な評価と言える」
「何で偉そうなんだよ……でも、俺の目から見て良かったとは言え、まだまだ改善の余地が沢山あったからな。例えば一曲目のあのスケール……」
「っだぁぁぁぁ!! わかってるよ!! 人が気にしてるとこあっさり見抜くな!!」
俺が言い終わる間もなく、吉柳が大声で誤魔化してきた。自分でも気づいていたらしい。まあ目立つほどのことでは無かったがな……。
そこで俺は腕時計に目を落とし、あ、と呟く。
「……そろそろ出番だから、俺はもう行く」
「お、おう」
俺は立ち上がって、とりあえず靴の感触を確かめた。……うん、いい感じに足にフィットしていなくもない。そこで俺は顔を上げる。すると吉柳が俺に何かを言いたげに見つめているのがわかった。
「……何だよ」
「あ、いや……」
吉柳は、あー、とか、うー、とか小さく唸ってから、突然ビシッと俺を指差す。
「……一冬さんの名に恥じないパフォーマンスをしろよ!?」
……何か段々、コイツのことがわかってきた気がする。つまり、今の言葉は……。
「……演奏頑張れってことか」
「……は!? おまっ、勝手に解釈すんじねぇ!!」
顔を真っ赤にして狼狽える吉柳を見て、思わず爆笑をこらえる。騒がしいやつだな。そんなことを思いながら俺は、軽く手を振って人気の無い廊下を歩いて行った。




