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第13話「水底から響く音楽」③

 ゆっくり、振り返る。心臓が鳴っている。リズムを刻む。……苦しいほど、涙が出そうになる。

 ゼンが、舞台の上で、ピアノを弾いていた。


 ……だけど。


「き、ら、き、ら、ひ、か、る〜、お、そ、ら、の、ほ、し、よ〜」


 ……恐ろしいほど、ド下手だった。


 思わず去るのも忘れて、その光景に見入ってしまう。とにかく最悪だった。ピアノは常に隣の鍵盤も弾いてしまっていて音は濁るし、歌も……うん、ヤバい。ヤバい以外の言葉が見つからない。とにかく音程外しまくりだった。聴いていて気持ち悪い。なのにリズムが完璧なのも気持ち悪い。

 するとゼンが手を止めた。手を止めて、俺を見上げて、苦笑いを浮かべる。


「はは、俺、ド下手でしょ」


 自覚があるとは思わず、俺は思わず頷いてしまう。正直か、とゼンは笑った。しかしまたゼンはピアノを弾き始める。……下手なのに、楽しそうに。


 俺は、吸い寄せられるように舞台に向かった。そして、舞台に上がり、ゼンの隣に座る。スペースは、空いていた。


「……貸せよ」

「……うん」


 ピアノに手を置く。手が震えている。ゆっくり息を吸って、そして。


「……キラキラ光る、お空の星よ〜……」


 ゼンを真似て、歌いながら、ピアノを弾いた。

 超絶技巧も凝っていない、幼稚園生でも弾けそうな指使いで、メロディーで。


「……まばたきしては、みんなを見てる〜……」


 ぎこちなく、でも確かに、指が動く。


 俺の手が、体が、頭が、俺の全部が。

 ……弾いている。


「……キラキラ光る、お空の星よ〜……」


 鍵盤から手を離す。それから、ゼンを見た。


「……うん。流石アキ。上手だね」

「……お前は……下手だな」

「うん」


 ゼンは笑って頷く。俺は再び、鍵盤の上に手を置いた。


「……だいたいお前、手からおかしいんだよ。もっと丸くして、優しく乗せろ。……強く弾くだけじゃ駄目だ」

「え、こう?」

「違う。こう」


 ゼンの手に、自分の手を乗せる。ゼンは眉をひそめながら、ぎこちなくも手を動かした。ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ。


「……さっきよりはマシになったな」

「確かにそうだけど!! ひっどい!!」

「事実だろ。……」


 その時ふと、鍵盤の上に、何かが落ちた。……水滴? ここは室内なのに、何で……。


 今度は、頬に暖かいものが流れるのがわかった。目に手を当てる。……涙が、流れていた。俺は、泣いていた。


「……何で……」

「……アキ」


 ゼンが俺の名前を呼んで、嬉しそうに笑う。


「やっぱりアキ、ピアノを弾くのが好きなんだね」


 俺は目を見開く。そして、ピアノに目を向けた。


 ピアノは、何も語らない。いつだって、ピアノに語らせるのは、それを弾く人間だ。……ピアノは、弾く人間の気持ちを写す。教えてくれる。自分が今、何を思っているのかを。

 ……楽しい。好きだ。いつまでもピアノを弾きたい。そう思っていることを、ずっと俺は知っていた。

 でもそれを隠して、食い止めていることを、……ずっとピアノは、教えてくれていた。


 だから俺は、ピアノに拒絶されていると、ずっと感じていた。

 拒絶していたのは、俺の方だ。


「っ……!!」


 思わず目を抑え、俺は止まらない涙を止めようとする。泣く資格なんてないなんて心の中で言い聞かせても、止まってくれない。


 もう、無理だった。俺は認めてしまった。俺はピアニストだ。ピアノを弾く人間だ。ピアノから離れられない、そういう運命のもとの人間なんだ。


「……俺の父親は、ピアニストなんだ。名前は、森一冬。……通称、〝死のピアニスト〟」


 涙を拭いながら、俺はそう話す。ゼンは何も言わず、ただ頷いた。


「世界のピアノのコンクールで、ほとんど優勝していたほどの実力者だったんだ。でも……ある時、その名は、輝いたものから、最悪のものになった。……〝死のピアニスト〟、なんて名前がついた」

「……うん」

「……俺には、双子の兄がいたんだ」


 父親の話から突然兄の話になったことに驚いたのか、ゼンはそこで首を傾げる。しかし俺はそれに構わず、続けた。


「……名前は、春に百で、春百はるひ。……生まれてすぐ、亡くなったらしい」

「……」

「その次の日、森一冬はステージに出た。何食わぬ顔で。子供を亡くした次の日に、何食わぬ顔で、ピアノを弾いたんだ」


 その時の映像は、俺も見た。……素晴らしかった。それ以外の言葉が無かった。喜怒哀楽、全ての感情を表現してみせた。完璧な演奏。弾き終わるたびに、観客はスタンディングオベーションをしてみせた。


「……丁度、俺の妹の春万が母さんのお腹に宿った頃だったか。……春百を亡くした次の日に森一冬がピアノを弾いたっていう噂が流れ始めた。……それだけなら、まだいい。……自殺者が多発した。流産させてしまった母親、子供を亡くした親が、相次いで自殺したんだ。……BGMに、その時の森一冬のピアノのCDを用いて。……一種の流行だった」

「……それは……」

「……それで森一冬についた通り名が、〝死のピアニスト〟」


 ピアノの鍵盤を撫でる。その手が、震えていた。


「……その前から俺は、ピアノ教室に通っていた。父さんに憧れていたから。アイツには、沢山のことを教えてもらったよ。……でもいつしか教室内で、俺の父親は……超有名天才ピアニストから……〝死のピアニスト〟に様変わりしていた」


 今でも思い出せる。子供ながらに、その時あったことを。


「お前のピアノは、不幸のピアノだ」

 そう、言われた。


「最初は気にしなかった。でも段々……怖くなった。もし森一冬と同じように、俺まで、俺のピアノのせいで、誰かを不幸にしてしまったら。そんなことが起きてしまったら。……そう思うと、怖くて仕方なかった」


 俺は、〝死のピアニスト〟の血を継いでいる。

 そんな俺が、ピアノを弾いてしまったら。誰かを不幸にしてしまったら。……俺に責任なんて取れない。


 いつか誰かを不幸にしてしまうなら。

 自分から離れてしまおう。


「……そんな風にしているうちに、いつしか音楽全部が嫌いになった。……俺は、音楽から離れた」


 ヘッドフォンはいい。周りからの音を妨げてくれるから。

 町中に溢れる最近の流行りの曲。鳥の囀り。車のクラクション。誰かの笑い声。その全てが音楽だ。


 だから遮断して、守った。


「……森一冬は結局、精神を壊して引きこもるようになった。その後に春万が生まれたから、春万は自分の父親にさえ会ったことがない。……俺たちは、バラバラになった。音楽のせいで」


 なのに、俺は音楽を手放せずにいる。こんなに、愛してしまっている。

 ピアノを、弾きたがっている。


「っ……俺までっ……俺まで、他の人を不幸にしたら、どうしようっ……!!」


 また涙が溢れてくる。不安で仕方がない。俺に音楽をやる資格があるのか、わからない。暗い中に一人だ。呼吸もままならず、苦しい。


 それ以上何も言えずしゃくりあげていると、隣で黙って聞いてくれたゼンが、ふと鍵盤を指先で押した。ド。ただその一音が、舞台に響く。


「……アキ。話してくれてありがとう」


 顔をあげると、ゼンは微笑んだ。


「少なくとも、俺はアキのピアノで不幸になったことなんてないよ。……アキのピアノを聴くと、幸せになる」

「……」

「そもそも俺が指揮を始めたのは、アキのお陰なんだよ」

「……え?」


 その言葉に、俺は思わず顔を上げる。ゼンはまたぎこちない手で「きらきら星」を弾きながら言った。


「アキは前世の云々で大変な思いしてるのに、前世の話でごめんね。ほら、今もわかる通り、俺昔から音楽センス皆無なの。音痴だし楽器も壊すしとにかく耳に毒だって何度言われたことか」

「……否定はしない」

「はは。……だからね、俺も初めは音楽がだいっ嫌いだったんだよ」


 でも、とゼンが呟く。


「友達がさ、俺のこと無理矢理ピアノコンクールに連れてったの。ウィーンのね。……で、君のピアノに出会った。……一目惚れって言うのかなー、もっとピアノが聴きたくて、だったら同じ業界に入らなきゃって。その時から、テンポ感だけは完璧だったから、指揮者になろうって決めたの」

「そんな……安直な……」


 一目惚れ、という言葉に思わず顔が熱くなるのがわかる。どんな言葉選びだ。


「今世でもこうして会えてさ。……あ、アキは否定してるけど。……やっぱ、うん、幸せだよ。キャンディにも会えて、奏にも会えたしね。奏のことは、覚えてなかったけど……」


 その言葉に、思わず吹き出す。一言余計だった。するとゼンの瞳が、俺を捉える。


「君は、俺の人生を変えたんだよ」


 ゼンがそう言って、笑う。


「アキ、君のお陰で、俺は音楽が大好きになった。お陰で、毎日幸せ」


 目を見開く俺に、ゼンは続けた。


「ありがとう!!」


 息を呑む。また涙が溢れる。悲しいんじゃない。嬉しいんだ。……例えそれが、半分俺じゃない話だとしても。

 俺のピアノが、この目の前の男を、幸せに出来たのなら。


 ……俺は、幸せだ。


 ──────────


 ふと、息が楽になった。呼吸が出来る。顔をあげると、ゼンがいた。俺のいる海の底まで潜ってきて、俺の手を掴んでいる。ここは海の底なのに、光が照らしていた。

 ゼンが指揮棒を揺らす。すると水の動きが変わった。上向きに、俺を、俺たちを押し出すように動き出す。大きな躍動。crescendo。


 そうか、コイツは、指揮者だった。


 海の上に着く。久しぶりの呼吸に、喉が燃えそうだった。でも、随分と楽だ。空を仰ぐ。青い空が視界を覆っている。綺麗だな。素直にそう思えた。

 隣を見ると、ゼンが笑っている。


 そうか、……そうか、音楽って。

 音楽って、こんなに単純なものだったのか。


 水だけじゃない。この空気、空、温もり、俺が体で感じる全てが、俺の全て。俺の音楽。


 ああ、こんなに、呼吸が楽だ。

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