第13話「水底から響く音楽」①
例えるなら、音楽は水の流れだ。
絶え間なく流れて、一度掴めたと思ったものも、気づけばその手の中には違うものがいる。もしくは手の中から、水は消えている。
俺は、その水に浸っていた。きっと溺れているのだと思う。もがいてももがいても、這い上がれない。
日光が届かない、暗く深い海の底で、俺は囚われている。
ピアノがある。しかし、触ってはいない。あっちもそれは求めていない。耳元では、ゴウゴウと水の流れる音。それは俺を嘲るように鳴って、通り過ぎていく。息が苦しい。呼吸が出来ない。
呑まれながら俺は、呼吸もままならず海の底で生きている。
──────────
「……」
「……」
ゼン……香光善の静寂の視線に対し、私……日下部和奏も、静寂の視線を返す。
スマホを片手に、私は言った。
「……千秋、今日も休み」
「……そっか」
私の言葉に、ゼンは悲しそうに微笑む。
そして私たちは、それ以上喋らなかった。
私の幼馴染み、森千秋は、私のスマホにあの写真が来て、ゼンがそれを見て飛び出して、それから……二週間、学校に来ていない。
「……なぁ」
「……何?」
私がそう言うと、ゼンは真顔で、しかし苦しそうな顔で告げる。
「……アキの過去、お前は知ってるの?」
「……」
静寂の部屋。俺は、森千秋は、布団を頭から被り、ベッドの上で体育座りをしていた。
……こうしていれば、大きな音は聞こえない。
すると部屋のドアから、コンコン、と音が響いた。思わずビクッ、となる。
「……千秋?」
その声は、母さんのものだった。何も答えずに黙っていると、母さんの声が続く。
「……今日も学校、休むの?」
それは責めるような口調ではなく、優しく淡々と語りかけるような口調だった。だから俺は、少しだけ安心してから呟く。
「……ああ」
ごめん、と、続けて呟いた。そう、と小さく声が入ってくる。
「……無理しないでね」
そして母さんの気配が去って行く。俺は黙ったまま、再び布団を手で強く掴んで包まった。布が擦れる音が響く。
視線を少し落とすと、壊れた時計が目に映る。これは、俺が一週間前に壊した目覚まし時計だった。
……秒針の音が、うるさかった。次は、デジタルを買ってもらおう。
何もない。何も聞こえない。外界の音も、全てシャットアウトした。受け入れるのは、たまにドアの外から聴こえる音だけ。
「……お兄ちゃん、行ってきます」
妹の、春万の声がした。俺は、小さく返す。
「……行ってらっしゃい」
しかし、春万の気配は去らない。そのことを不審に思っていると、ドアの外側にいる春万が言った。
「……お兄ちゃんは、わたしが守るよ」
俺はその言葉に、目を見開く。すると春万は、続けた。
「だから、お兄ちゃん。お兄ちゃんが元気になったら、一緒に学校に行こ」
俺の返事を待たず、その気配が去る。俺は思わずベッドから身を乗り出しかけ……すぐに戻った。自分が、不甲斐なかった。
妹に、自分よりずっと小さな存在に、あんなことを言わせてしまうだなんて。
……わかってる。俺がしていることは、一階でアイツがしてることと、同じだ。返事をするだけマシだなんて、そんなことない。
……俺は、この部屋から出られない。
この静寂の城で、一人だ。
ピンポンピンポーン、と音が聞こえた。私は顔を上げて、インターホンを押した人の顔が映る画面を見て、ゲッ、と呟く。
踵を返して無視すると、またピンポンピンポーン、と、遠慮の無い楽しげな音が響いた。イラッ、となって、こちらとあちらの音声を繋げられるボタンを押す。
「何ようるさいわねっ!!」
『飴木菓子さ〜ん、いるのはわかっているんです〜、大人しくお縄に付きやがれ〜』
「フルネームで呼ぶなっ!!」
『何だちゃんといるじゃない。無視してないで、出て来なさいよ』
そう言うと、画面の中の奏はニコッと笑った。思わずムッと眉をひそめて、私は裸足のままサンダルだけを履いて、玄関を開ける。
「おっ、本当に出てきた」
「あんたがうるさく呼ぶからでしょ……」
「私、そこまでしつこくまだやってないんだけど」
気になってたんでしょ。と奏はいたずらっ子のように笑ってから、ふと悲しそうに眉をひそめる。
「……千秋のこと。だから、いつもよりすぐ出てきたんでしょ」
「……」
私は思わず黙った。……何故なら、当たりだから。奏が来たということは、つまり、何か進展でもあったのかと思ったからだ。
アキとは、二週間も会っていない。しかも何があったかを聞いたのは、一週間前だ。……確かにヤーコプは、あの時から何かとアキを目の敵にしてたからね……。
「でも残念。事態は進んでません」
「よし、帰るわ」
「ちょっと、待ちなさいよ。まだ話は終わってないわよ」
綺麗に回れ右をした私の前に、奏は躍り出る。そして、何故か財布を取り出した。
「ファミレスに行こう」
その言葉に私は、思わず三十秒ほど黙ってから。
「…………………………何で?」
そう呟くのだった。
ファミレスに着くと予想通り、奏が奢ってくれるらしかった。まあ、話に付き合ってもらうんだし、とぶっきらぼうに言われた。
「……それで、話って?」
「んー……」
奏はドリンクバーで入れた紅茶を飲みながら、考えるように視線を宙に投げる。
「……ま、言うほど特に無いのよね」
「……は?」
私が声を荒げると、奏はそれを気にせずにあっさりと言った。
「私が、誰かといたかったのよ」
「……」
その言葉に、思わず黙る。黙ってしまう。だって奏がそんな弱音みたいなものを、しかも私に、言うだなんて思わなかったから。
「……私じゃなくても、いいじゃない」
「あんたじゃないと駄目よ」
「ゴフッ、」
予想外の言葉が飛んできてオレンジジュースを吹き出していると、奏は汚い、と言ってから私にティッシュを差し出す。
「えっ、何気持ち悪いこと言ってんの怖……」
「よーし歯を食いしばれ」
奏は拳を構えてから、すぐにその拳は頬杖に使った。
「……事情知らない人といたって、気分晴れないじゃない。事情知らない人といて、気を紛らわせて、気持ちに気づかないフリするより、事情知ってるやつと、気持ちを共有したい」
だから、あんたじゃなきゃ駄目よ。
ああ、そういう、と心の中で呟いてから、また今度はちゃんとオレンジジュースを飲んだ。
「……それこそ、私じゃなくていいじゃない。ゼンとか……」
「あいつには、別のことを任せた」
「……任せた……? あんたが?」
「意外そうな顔ね」
「そりゃ、そうでしょ」
「……まあね」
そのことは、本人が一番わかっているようだ。可笑しい、と言いたげに苦笑いを浮かべている。
「……あいつから聞かれたのよ。お前は、アキの過去を知ってるのかって」
「……それで?」
「結論から言うと、知ってるのよね。何で千秋が、ピアノをやめちゃったのかも。……だから私、仕方ないと思ってるの。私だって、千秋の立場だったらやめてたかもしれない。千秋と同じ決断を、下したかもしれない」
奏は今度は窓の外に視線を投げる。机を指先でコンコンと叩いて、言葉を選ぶように紡いでいく。
「知ってる、って言ったら、どうするの? って聞いた。そしたら、あいつ……」
『そうか、ってなる』
「それだけ、言いやがった」
そこで奏は、不満そうに唇を歪ませた。
「あいつが、私の口から過去を言わせようって思ってたのなら、死んでも言ってやんないって思ってたの」
「じゃあつまり、あんたの口からアキのことを教えたの?」
「……んなわけないでしょ」
奏はそう呟き、紅茶をもう一口飲む。
「逆に、言ってやったの。私が教えようかって。そしたらあいつ……『お前はアキに一番近いから、アキと同じだけの言葉の価値があると思う。でも、俺はアキの口からそれが聞きたい』って言った」
「……ふーん」
「……あいつ本当、心得すぎてて、ムカつく」
奏の頬が手からズルズルと滑り落ちて、遂に机に突っ伏した。
「……かっこよすぎてて、ムカつく。秋さんがあいつのことを好きになった理由がわかりすぎて、ムカつく」
「……」
私は黙ってから、呟く。
「……ゼンは、全くかっこよくなんてないわよ」
「……知ってる」
それは、矛盾のようだったけど、私たちの中では、理論整然としていた理屈だった。
「……だから言った。じゃあ、聞きに行きなさいよって。千秋のこと助けてあげてよって、言っちゃった」
背中を押しちゃった。と奏が呟く。
弱々しい、女の子の声で。
「だから、あいつは今、たぶん、千秋のとこに行ってる」
「……そう」
「私には、千秋に何もしてあげられない。全部知ってる私には、何も出来ない。気持ちがわかりすぎるから、無理矢理連れ出してあげられない。もう傷つかないよう、守ってあげたくなるから」
でも、あいつなら、と呟く。
「あいつは、千秋の隠してる箱を開けてくれる。……千秋のことを、傷つけてくれる」
顔を上げた奏は、涙ぐんでいた。ただ悔しそうな顔だった。ここにいる自分を、何も出来ない自分を、ただ悔やんでいた。
「……好きなのに、何も出来ないっ……!!」
「……」
私は黙って、奏が先程まで持っていたティッシュを、差し出す。
「……そうね。私も、何も出来ない」
「っ……」
「……私さ、勇林さんがゼンの生意気弟子の更生にかまけてるせいで、二週間くらいずっと自主トレーニングなの。……流石にマンネリ化よね」
だから、と言って私は笑った。
「あんた、流石にまだピアノ弾けるわよね」
「……馬鹿にしてんの?」
「何だ、まだ元気あるじゃない」
私は奏の瞳を真っ直ぐ見つめて、言う。
「私の練習、付き合ってよ。そろそろピアノがほしいところなの」
「……」
「……私たちに出来るのは、きっと、何でもない日常を、平凡に生きて、……帰ってくるのを、待つことよ」
ほら、と私は言った。
「アキを迎えに行くゼンは、私たちとは違って、『おかえり』って言えないじゃない」
すると奏は少し目を見開いてから……ふはっ、と笑う。
「何それ。最高」
「でしょ」
そこで私が注文したストロベリーチェリーパフェが届いた。長いスプーンを手に取って、一口食べる。そして、苺を掬って奏に差し出した。
「ほら」
「……何で私が苺好きって、知ってるの?」
「前に言ってたじゃない。初めて会った時」
奏は嫌々そうだったけど。たぶんユーリスさんに言われて、無理矢理だったんだろうけど。
「流石に、あの時の私でもストロベリーくらいは聞き取れたわよ」
ライク、ストロベリー。
それくらいの英語なら、わかった。
「……そんな前のこと、よく覚えてるわね」
奏は照れたように頬を少しだけ赤くして、苺にかぶりつく。
「ちなみに私はさくらんぼが好き」
「聞いてないわよ。……チェリー……あっ、童貞が好き……?」
「何その繋げ方。くだらな。てか食事中なんですけど」
「もう一個寄越しなさいよ。私の金よ」
「私が頼んだから、もう私のものよ」
そう言い合いながらも、交互にパフェを食べ合う。こんなことなら、初めから二つ頼んでおいた方が良かったんじゃない? とも思ったけど。
……ま、いっか。練習付き合ってもらうんだし。未来投資。




