第12話「音を立てた無音」④
「じゃあな、哀れなピアニスト」
八遠がナタを振り上げる。それを、ただぼんやりと眺めていた。
その時。
ガシャアアアアン!!!! と盛大な音がし、八遠の体が壁までふっ飛ばされた。
その音で、霧がかっていたような脳内が、パッと晴れた気がした。
心地良い、音。
しかし。
……重々しい、苦い感情が乗った、音。
目線だけ動かして、その方向を見る。そこには、見慣れたローファーがあった。この靴は……。
……ゼン……。
「……ヤーコプ……!!」
「……お久しぶりです、Meister……!!」
ゼンと八遠の声色は、随分正反対だった。嬉しそうな八遠とは対照的に、ゼンは怒りのような、やり切れなさのような、そんな感情を孕んでいるように思える。
……ゾッ、と、背筋が震えるのがわかった。
「Meister、やはり来てくれましたね。貴方様なら、来てくださると信じていました……!!」
「……あんな写真に、あんな楽譜が写っていたら、お前だってわかるに決まってるだろ……!!」
ゼンは八遠を睨みつけ、八遠はそんな視線にも酔うようにうっとりとした表情を浮かべている。ゼンは指揮棒を構えた。そして殺気を滲ませた瞳で、八遠を見据える。
「……はは、素敵です、Meister……!!」
「……ヤーコプ……」
ゼンは指揮棒を力強く握りしめた。指揮棒を折らんばかりの、勢いで。
そして、言い放つ。
「……これ以上アキを傷つけるなら、俺はお前を殺す……!!」
「……やはりMeister、貴方様は、この忌々しい日本人が大事なのですね」
八遠はまた俺に近寄ってくる。そして再び、ナタを振り上げた。
「貴方様が私のことが嫌いであることは、重々存じております。しかし一方で、貴方様は心優しきお方。……一概に私を殺すことも、出来ないでしょう」
さあ、選んでください、と八遠は笑う。
「私を殺さないと、この男は死にますよ」
そして、八遠がナタを握る手に力を込めた。
「……そんなの、選ぶまでもないに決まってるだろ」
ジャンッッッッ!!!! と、音が響き渡り、再び八遠が壁に打ち付けられる。
頭を打ったのか、今度は八遠は立ち上がらなかった。浅い呼吸をしている。
ゼンは俺の横を通り過ぎ、八遠に指揮棒を向けた。
「……破門したとはいえ、お前は俺の弟子だ。そして弟子の不祥事は、師が責任を取る。……これ以上お前が過ちを犯す前に、俺がここでお前を、殺す」
ゼンの声は、低かった。低く、酷く深く暗い感情がこもっていた。
怖い、と思う。
この怖さは、恐ろしさは、俺が当初八遠に抱いたものと、似ていた。
周囲の物が、浮かび上がる。それは鋭利な物ばかりだった。それらは浮かび上がり、ゼンの指揮棒の動きに合わせて、切っ先が八遠の方を向く。
ゼンの顔は、ここからは見えなかった。
「……じゃあな」
ゼンが手を動かす、その前に。
『アンタは、このままでいいのか?』
そんな声が、聞こえた気がした。
やめろ、と、俺は、小さく呟いていた。
反射的に指を動かそうとして、次にドッ、と心臓が大きく跳ね上がる。……怖い、ピアノを使うのが、怖い。使えない。
でも、止めなければいけない。
俺は、大きく息を吸う。吸って、そして。
「……ゼンッッッ、やめろッ……!!」
俺の声に、八遠を突き刺そうとしていたそれらは、八遠の手前で動きを止めた。
「……アキ……?」
「っ……お前までっ……」
俺は深呼吸を繰り返す。繰り返しながら、息絶え絶えに、俺は言った。
「お前まで音楽で、人を傷つけないでくれよッ……!!」
「……ア、キ……」
ゼンが腕を下ろす。浮いていたそれらは、カランカランと音を立てて落ちた。ゼンの足がこちらを向き、俺の方に向かってくる。
指揮棒を少し動かすと、俺の手足を繋ぎ止める枷が外れた。そしてゼンがグイッ、と俺の腕を引き、それから……。
……俺は、ゼンの腕の中にいた。
「……ごめん……俺のせいで、ごめん……」
「……ゼン……」
ゼンの体は、震えていた。しかししっかりと、俺のことを抱きとめている。その温もりに安心する自分がいるのが、わかった。
ふと、自分の手が目に映る。手が、震えていた。……この後に及んで、まだ俺は、失うのが怖いのか。……笑わせる。
……いっそ、この命を、奪ってくれたら良かったのに。
そう言ったら、コイツに怒られるだろうか。
そんなことを思いながら俺は、ゼンに抱かれ続けるのだった。
ゼンに連れられて外に出ると、そこには勇林がいた。そして俺は勇林に預けられ、ゼンは建物の中に戻る。
「……アイツは……」
「ふむ、ゼンはヤーコプを置いては行けないのだろうな。どうにか説得するのだろう」
俺の言葉の先を察し、勇林がそう言った。俺は俯き、勇林に向けて呟くまでもなく、独り言のように言う。
「……ヤーコプは、八遠は、何であんなに、森下秋を恨んでるんだ?」
「恨んでいるわけではない。ただ、あいつはゼンへの尊敬心が度を過ぎているだけだ。ゼンの音楽にアキはいらないと考えており、なおかつアキを失った時にこそ、ゼンの音楽が常軌を逸したものになると信じているんだ」
「……」
……常軌を、逸したもの……。
「……千秋」
「……何だよ」
「……大丈夫か?」
「……」
俺はその問いに、無言を返す。勇林は、何も答えない俺に小さく息を吐いた。呆れ、よりは、心配に近かったと思う。
「……送って行こう。ゼンも、あいつの用事が済んだら勝手に帰るだろうしな。心配する必要はない」
その言葉に俺は、勇林を一瞥するだけして、頷く。送るって、それを言う立場は本来、俺だろうに。なんて思いながら。
でも今は、今だけは。……誰でもいいから、隣にいて欲しかった。
家に着き、勇林に別れを告げてから、俺は家に入る。
ただいま、と呟いて、再び自分の手に視線を落とした。手首には、枷の痕が薄く残っている。忌々しげに、呪うように、それをジッと見つめた。
少し歩くと、木のドアがある。この静寂の、その向こう側。向こう側に。
……俺は何度、人生を狂わされたのだろう。
気づくと俺は、ダンッ!! とそのドアを拳で殴りつけていた。反動でジンジンと手が痛む。しかし構わずに、もう一回。何度も何度も殴って、気づけば呼吸は乱れていた。何度も息を吸って、吐いて、吐き気が込み上げて、それに耐えながら、俺は、叫ぶ。
「ッ……何でだよッ!!」
痛い。苦しい。何度もこれに耐えてきた。何度も何度も。一体後どれくらい耐えればいい?
「何でお前のせいでッ、俺たちがこんなに苦しまなきゃいけないんだよッ!! 母さんも、春万も、俺もッ……!! 全部、お前のせいだろうがよ……!!」
もう一度ドアを叩く。決して内側から開かないドアを。……ズルいだろ、そんな、一人だけ逃げるような……!!
「出て来いよ!! 出て来てッ……!! ちゃんと、言い返せよッ……!!」
もう、手に力は入らなかった。結局何も出来ず、俺はドアに縋るように手を付きながら、その場に崩れ落ちる。呼吸が覚束ない。視界がチカチカしていた。……苦しい、苦しい……。
「……お兄ちゃん……」
するとそんな声がし、俺は顔を上げる。そこでは、妹の春万が、壁から顔だけを出し、こちらを伺っていた。……泣きそうな顔をしている。
……俺のせいだな、ごめん。
俺は妹に駆け寄り、その小さな体を抱きしめた。
「……お兄ちゃん……、泣いてるの……?」
「……泣いてない」
泣いてなんていない。泣く資格なんてない。
「……ごめん、ごめんな、春万」
俺は、うわ言のように春万にそう繰り返す。春万は何も言わず、ジッとしているだけだった。
俺は、何を謝っているのだろう。何に対して、春万に謝っているのだろう。
俺は、間違ってる。その罪を、聞いてほしい。聞いて、そして、その罪を、許さないでほしい。
気づかないフリをして、箱の中に全てを押し込めた俺を。
……なぁ神様。俺は、大それたものはいらない。普通に生活して、普通に生きて、普通の幸せを手に入れられたら、それでいいんだ。それで十分なんだよ。神は人に乗り越えられない試練は与えないなんて、きっとそんなの嘘だ。
なぁ。
……幸せになりたい。
俺は、幸せになりたい。
パンドラの箱は音をたてる。ドアの向こう側からは、何も聞こえない。
この話、好き好き大好き~♪(歌うな)
やっぱり一回どん底に落とすのが昔から好きなんですね。そうするとその後のハッピーが染みますのでね。
次の話と併せて読みたい話。
一個思ったのは、千秋の妹の登場があまりにも唐突なので、もうちょっと……なんか、事前に出しておけなかったものなのか。




