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第12話「音を立てた無音」①

 ポンッ、と軽やかな音がしてから、アナウンスが流れ始める。


『〝──間もなく、成田国際空港へ到着致します。皆様、席にお戻りになられますよう、お願い致します──〟』


 その放送を聞いて、優雅に窓の外を眺めていた男は、ニヤッと笑った。

 その手の中に、一枚の古びた紙を握りしめて。



「もうすぐ……もうすぐ会えます。……Meister」



 ──────────


 俺──森千秋は流れる音楽に身を任せながら、本のページを捲っていた。


「……ふむ、キャンディ嬢。今半音ズレていた。集中しなさい」

「はい。すみません、勇林さん」


 勇林──丸石勇林(老人口調のショタ)の言葉に、キャンディ──飴川菓子(キラキラネーム。最近はキラキラネームと言うと、小学生と言った時と同様、怒られる)は、神妙な面付きで頷いた。それを見てから勇林も頷き返し、again、と短く呟く。

 そして俺はそれを、本を片手にジッと見つめていた。


「……キャンディ、すごいな……」

「……ね。あれから欠かさず、毎日師匠のところに通ってるし……」

「……つか、お前は何でいるんだよ」

「だって、師匠の指導見られるなんて何年ぶりだし……アキこそ、何でいるの?」

「……和奏に連れて来られたんだよ」


 ゼン──香光善の言葉に、俺はそう答えてチラッ、と横を見る。そこでは、俺の幼馴染みの和奏──日下部和奏が、キャンディと同じような神妙な面付きで指導の様子を見守っていた。和奏であんなに真面目な顔など、片手で数えられるほどしか見たことがないのに。

 ……そんなにすごいんだな。コイツの指導は。


「さてはアキ、まだこの人がすごいってわかってないでしょ」

「……わかってはいる。ユーリス・サーストンで検索したら、ページがすごい数出て来たからな。……ただ、あのガキとそれが結び付かない」


 出て来た写真と見比べたら、確かに面影はある。ただその写真はもう七十、八十のものだ。対して勇林はまだ十にも行っていないのだろう。差がありすぎて上手く頭の中で繋がらないのだ。


「それに俺は、お前らみたいに前世の記憶も無いし。ただのちょっと才能のある子供にしか見えないんだよな……」

「ちょっとというか、かなりというか」

「……本当にアイツ、どんな楽器でも使いこなせるんだな……」


 俺は勇林を見つめながらそう呟く。勇林は、ピアノを弾きながらキャンディの歌声を調整していた。確かに、音を取るにもピアノは有効だ。

 だが『コン・アニマ』では指揮棒を使っていたし、先程手本にと歌って見せていた歌声も、中々、いや、かなりの美声だった。少年合唱団にでもいそうな声だった。


 すると勇林はピアノを弾く手を止め、俺たちの方を見る。


「……お前たち、うるさいぞ。邪魔をするな」

「あ、はい。すみませんっ」

「……悪かった」


 俺とゼンが謝ると、勇林はふぅ、と小さくため息をついてからピアノの蓋を閉めた。


「……かなり練習したな。キャンディ嬢、一度休憩にしよう」

「はい」


 キャンディは頷いてから、大きく息を吐き出す。そして喉を抑えた。


「ハーブティを淹れよう。喉のケアをしっかりするんだ」

「あ、手伝います」

「いい。そこに座っていろ」


 足を踏み出しかけたキャンディを、勇林がそう言って止める。そして給水室に入っていった。

 ……まあ確かに、ここは勇林が借りてきた防音スタジオ。勇林の方が物の配置を心得ているだろう。


「お疲れ、キャンディ」

「ああ、アキ」


 俺が声をかけると、キャンディは顔を上げた。汗を拭い、微笑んでいる。


「毎日毎日、飽き足りずによくやるよな」

「何? 嫌味?」

「いや、褒めてる」


 わかってるくせに、と言うと、キャンディは楽しそうに笑った。


「……ここ数日間で、だいぶ上手くなったと思う」

「うん。やっぱりユーリスさん……じゃなくて、勇林さんの指導は格別。自分でも、能力向上したって感じるよ」


 そう語るキャンディの目は、キラキラと輝いている。心の底から、練習を楽しんでいるようだった。

 ……こういうやつほど、上達が早いんだよなぁ。


「……アキもさ」

「ん?」

「……アキも、始めさえすればきっと、私みたいに飽き足らず練習すると思うよ」

「……そうか?」

「うん、そう」


 キャンディはそう言って、いたずらっ子のように笑う。


「アキはたぶん、何か取っ掛かりみたいなのがあるんだと思うけど、それが取れたらきっと、アキだって夢中になるよ」


 俺は目を見開いてから、小さく笑って言った。


「……そんなことねぇよ」


 取っ掛かり、な。確かに、無いことはない。しかし、どうせあってもなくても、俺はいずれ、ピアノをやめていたと思う。

 そもそも今、それが能力だとしても、弾いていることは俺にとって奇跡に近いのだ。


「わかるよ。アキは私と同じ。音楽に集中出来ない取っ掛かりがあって、それでも音楽から完全に離れられない……音楽家だから」


 ……キャンディは、前世の自分の家のことを、ハプスブルク家のことを、乗り越えた。その上で、兄よりも、誰よりも強くなると決心した。

 そしてきっとそれが今、キャンディの最大の原動力となっている。

 取っ掛かりが、障害が無くなった彼女は今、〝最強〟だとも言えるだろう。


 でも、俺は違う。

 俺は、キャンディにはなれない。


「……お前が、すごい声楽家なだけだろ」


 俺の言葉に、キャンディが口を開きかけた瞬間。


 ガシャン、と、何かが割れるような音が響いた。

 慌てて俺たちは、給水室に飛び込むように入る。そこでは割れたティーカップを拾う勇林がいた。


「ああ、悪いがゼン、そこの物置から掃除機を出してくれ」

「あ、はい」

「他のやつは近づかないように。特に、千秋と奏嬢はな」


 首を傾げる俺たちに対し、勇林はあっさりと言う。


「ピアニストは、手が命だからな。怪我をされたら私は責任を取れん」

「ちょっ、師匠、俺の手は良いってー?」

「お前はどちらかと言えば肩だろう」


 というかお前には掃除機を任せたんだ、と勇林が言うと、知ってますー、と声が返ってきた。やがてゼンが掃除機を抱えて来て、細かい破片を吸い始める。ふと顔をあげると、勇林の小さくて白い指から一筋の血が流れ出していた。しかし勇林は気にしないように、それをペロッ、と舐める。


 それを見ながら俺は、自分の手に視線を落とした。

 ……手が命、か。


「ふむ、しかし、食器が割れるとなると……少し不吉だな」

「え、やだ、師匠。変なこと言わないでよ」

「悪いな。年寄りはこの手の話が好きなんだ」

「今は子供のくせに……」


 ゼンはため息を付きながら、他に破片が落ちていないか探し始めるのだった。

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