第10話「オーストリアの歌姫【前編】」③
「……ゼン、秋。その少女は……」
「師匠! 説明は後! とりあえずソファ開けて、布を水で濡らして……」
訝しげな表情を浮かべるユーリスにゼンが対応しながら物の積み上がったソファから荷物を退かしていく。それを秋が見守っていると、彼の近くに十歳ほどの少女が近寄ってくる。それは奏だった。
「秋さん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。たぶん……」
秋はそう言い、奏の頭を撫でる。奏は嬉しそうに顔を綻ばせた。
ほら、練習しとけ、と言い秋は奏を追い払う。そして秋はゼンがソファに寝かせた少女を見下ろした。
「……とんでもないことしたね、俺たち……」
「……本当だよ……」
ゼンと秋は思わず項垂れる。どうしてこの少女が追われていたのかは知らない。しかし自分たちが連れ去ったと知られたらただでは済まない。本当に、とんでもないことをした。と二人は思った。
ユーリスは何か温かいものでも作る、と言って調理場に籠もってしまった。恐らくこの少女が目覚めた時のためであろう。
これからどうするか、と二人が相談しようと思ったその時。
「……ん……」
少女が、ゆっくり目を開けた。
少女の瞳が、ゼンと秋を捉える。
「……」
「……」
「……」
三人は何も言わず、ただ見つめ合う。しかしすぐに少女はハッ、と目を見開き、懐に手を伸ばした。
「……っ!」
「う……わっ、」
ゼンは反射的に指揮棒を取り出し、何かを受け止める。少女の手には、高級そうなナイフが握られていた。
「ゼン……!」
「だ、大丈夫……あっぶな〜……」
「っ……〝あなたたち、何!?〟」
叫ぶ少女をよそに、秋が音もなく背後に回って、そのナイフを奪い取る。驚く少女に、ゼンは優しく笑った。
「〝……えーっと、君が誰かに追われていたみたいだから、俺たちの部屋に勝手に運んできちゃったんだ。ごめんね〟」
ゼンの言葉に、少女は一瞬黙る。しかしすぐに表情を険しくして言った。
「〝……あいつらの仲間じゃ、ない?〟」
「〝うん〟」
少女は辺りを見回す。それから表情を少しだけ緩くした。
「〝俺はゼン・フロライト。あっちにいるのが森下秋〟」
「〝……私は……キャンディ。キャンディ・キャロライン……〟」
「〝そっか。よろしくね、キャンディ。……それで、君は何で追われてたの?〟」
ゼンの問いに、少女は……キャンディは、ゆっくり目を伏せる。そして言った。
「〝……言えない〟」
「〝……そっか〟」
ゼンは、笑う。
「〝じゃあ、しばらくゆっくりしていきなよ。ほぼ楽器しか無い家だけどさ〟」
その言葉に、キャンディは顔を上げた。
「〝……聞かないの?〟」
「〝言いたくないんなら、無理して聞くことじゃないし〟」
それと同時に、ユーリスが部屋に戻ってくる。そしてキャンディの方を見た。
「あ、師匠。この子、キャンディ・キャロラインっていうらしいよ」
「……ふむ。事情はアキから聞こう。とりあえずゼンは、これをその子にあげて話し相手になってあげなさい」
「はーい」
ゼンはユーリスの手から皿を受け取る。それはスープだった。ほのかに湯気がたっている。
「〝食欲ある?〟」
「〝ある、けど……〟」
「〝……あ、警戒してるのか。それは仕方ないね〟」
ちょっとごめんね、と言い。
ゼンはスプーンを手に取って、そのスープを一口飲んだ。
「〝……はい。毒味終わり〟」
「〝……あ、ありがとう……〟」
「〝いえいえ。……あっ、俺が口つけたものでごめんね〟」
「〝……いえ……〟」
キャンディはほのかに顔を赤く染め、スープを一口飲む。そして……顔を輝かせた。
「〝……美味しい……〟」
「〝良かった。師匠のスープは絶品だからね〟」
「〝……本当に、美味しい……〟」
そこでゼンは顔を上げ、そしてギョッ、となる。キャンディが、涙を流しながらスープを飲んでいたからである。
「……ゼン、お前、何泣かせてんだよ」
「えっ、俺のせいなの!? 〝……ど、どうしたの……!?〟」
「〝……違うんです。こんなに息の詰まらない食事、初めてで……美味しい……〟」
そう言いながらキャンディは夢中でスープを飲む。それを聞いたゼンは、嬉しそうに微笑んだ。
「……お前、女を泣かせる趣味が……」
「いやだから、そんなんじゃないから! なかせたいのもアキだけ……」
「……だから何言ってんだ!!」
秋はゼンの言葉に再び顔を赤くする。持っていたキャンディのナイフを振り上げた秋に、ゼンはごめんごめん、と楽しそうに笑った。
それをポカンと見ていたキャンディは、ふと笑い出す。きっと会話もわかっていないだろうに。
二人もキョトンとして、そして釣られたように笑い合った。
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「ああ、その日なら私も覚えてる。久しぶりに練習場に来れたのに秋さんが全然構ってくれないから、ピアノ弾きながらむくれてたわ」
和奏がそう言って頬を指でかく。
「その後あのおチビちゃんの話し相手になれって言われて、言葉も通じないのに何言ってんの!! ってユーリスさんに猛抗議したんだけど、ぜーんぜん聞いてくれなくて。逃げるみたいに帰っちゃった」
「……あー、じゃあ、お兄さんが出てくるのはたぶんその後の話だわ……」
「というかお前、その話だと和奏……奏もその部屋いるじゃねぇか。なのに奏のこと知らなかったのか?」
「……あははー……」
「ほんっとあんた、秋さんにしか興味なかったわよね」
「わっ、わーっ!! もーその話はいいでしょ!?」
ゼンが真っ赤になりながら和奏に抗議する。和奏はつーんっ、とそっぽを向いたままだ。……俺、じゃないけど、俺にしか興味なかったって……何だよそれ。
「……えー、コホン。話を戻すよ。……その後キャンディは、戸惑ってたみたいだけど徐々に俺たちに慣れていって……」
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「〝じゃあキャンディは、声楽家なんだね〟」
「〝……うん。歌は好きなの。お母様やお姉様たちには、反対されていたけど……〟」
「〝俺はね、指揮者なんだ。最近やっと、お偉いさん方の前で腕っぷしを披露できるようになったんだよ〟」
ゼンの言葉に、キャンディはクスクスと笑う。出会って早三時間ほど。彼女はこうして笑顔を見せてくれるようになった。
「〝良かったら、聴かせてくれない?〟」
「〝えっ……でも、下手よ〟」
「〝いいよ。聴いてみたいんだ〟」
「〝……そこまで言うなら……〟」
キャンディはそう言って、立ち上がる。そして喉を抑えた。
ゆっくり深呼吸をして、そして。
「……!」
ゼンは目を見張る。何故なら、その歌声は……。
まるで、天使が舞い降りたようだ。誇張ではなく、そう思ったから。
その歌声を聴いたのだろう。秋が隣の部屋から入ってきた。しかし歌に夢中なキャンディは気づかない。秋はゼンの隣でそれを聴いていたが、やがて何かを思いついたように部屋の奥に置かれたピアノに近づいた。被せられた布をどけて、蓋を開ける。椅子に座って、天を仰ぎ、深呼吸を一つ。そして。
「……!」
キャンディが弾かれたように部屋の奥を見る。新たな音が入ってきていた。秋はキャンディを一瞥して、小さく頷く。キャンディは戸惑いつつも、そのまま歌い続けた。秋は素早く滑らかに指を動かし、それに乗せていく。全く、一コンマのズレもない。
即興の、演奏会が始まった。
「……羨ましー……指揮者じゃ入れないなぁ」
「ふむ。『あのね、ママ聞いてよ』か……かなり有名ではない曲だな。……アキは、即興で乗せているのか」
「あ、師匠。……へー、これ、そんな曲なんだ」
流石師匠、良く知ってるね。とゼンは呟く。ゼンとユーリスは、黙ってその演奏会の音楽に身を任せた。




