デパートの6階
ヒデヒトの殺しは残酷だ。
血みどろになる道具は使わずにいつも百目蠟燭の蠟を溶かした掌で締め上げるだけなのに、冷たくてさめざめする。でも早い。それが救いだ。そのひとがそれをされて殺されてしまっても、殺されて死んでしまったのを覚らせないまま、まだまだ1分12回の呼吸を継続させるくらいの早業だ。
よくもまぁ、蠟を垂らしたままのあんな掌で生簀からピンピンの明石の鯛を掴かみ、絞め殺し、活き造りを拵えるみたいな器用で出来るものだと感心する。
殺られるひとだって、自分のことででなかったら、私と同じような此方から、凄腕の職人芸を惚れ惚れする見世物みたいに、何度見ても飽きないと思う。でも、それは叶わない。高級割烹の魚松で活き造りされた明石の鯛みたいに、気持ちよさそうな襟足を金輪際かえることなくお陀仏になり昇天していく。
そのとき、エッジのきいた角々した感じは見えてこない。丸ぁるい丸ぁるいまん丸いものが細く長く手繰られてく感じが見えてくる。包丁で捌くのと違って使うのは掌だけだから、襟足刈り上げた板さんより、下膨れした支那の麵づくりの達人が2本が4本・・・16本が32本・・・・256本が512本と、打ち延ばした麵を包丁遣って細く切って拵える切麵でなく、断面の丸い拉麵に仕上げていく様がぴったりくる。遊園地の丸ぁるいメリーゴーランドでも転がすように、いずれは止まるオルゴールの楽しげが引っ張られ薄くなりカチリOneNoteに行き着き終まる。
512本の先の1024本までを見たことがある、小学3年生の夏の時だ。
もちろん小学3年生だから、支那みたいな海を渡った先の遠い大陸なところじゃない。
遊園地というものが、田舎の地方都市では、その街一番のデパートの屋上にある10円入れて動かす有料遊具のあるところを指してた時分に見たのだ、居たのだ。
いつもたくさんの10円を持ってたわけではないわたしは、それが尽きると6階に下りる。
その男が麵を打ってたのは、デパートの大食堂を中心に飲食街を形成してる7階ではなかった。
化粧装飾服飾の女ものの夫々を散りばめた1階から3階、紳士物の表記で総称してる4階、その階上の5階は舶来ものしか馴染みのない高級雑貨で埋まってた。屋上が遊園地と同義語であるように7階は大食堂と同義語で覚えている。
が、男が麵を打っていたのは華やかな7階ではなく、その下の6階だ。
アクリル板で四方を囲まれた一坪ほどのブースでその男が麵を板に打ち付ける鈍い音と小学校3年生のわたしが倍数で千の位まで暗算できるようになったあや取りと結びついた拉麵の様子以外、あのデパートの6階にわたしの中の記憶は残っていない。その階にも並んでるだろう下の端数を省いたゼロが5桁6桁並ぶ舶来品やそれを冷やかしたり買い取ったりするデパート客が行き交う背景はすっぽり抜けている。
他の階と違って天井は低くした分だけ剝き出しにされ、壁面の壁紙が剝がれた下地のモルタルは触れなくても、夏なのに冷ゃっこいしんしんの冷たさを頬に伝えてくる。どう逆さに降っても、平日の昼下がりとはいえ、6階だけはデパートの華やかな意匠から理不尽なほど外されてた。
見えてくるのは、しんしんの興味で見ている小学生の私と、そんな小学生にはなんの興味も沸いてない麵を打ち続ける男だけ。
男はそれが仕事だから、言いつけられた今日の麵の数が揃うまで四方アクリル板で囲われたブースの中で麵を打っている。いくらしんしんの興味で見ていても、所詮小学生の興味の範疇だから、仕事でそれをする男の斟酌には叶わない。
屋上から一段下がった6階に降りると、いつも男はひとり麵を打っている。
生地をこねて、2本をつくり、その繰り返しの中で1024本まですると1工程の終了だ。1周を廻り終わったように、新たな1024本取り分けて減った分の生地を足して、こねて、はじめの一塊に戻し、引っ張る。
わたしは、アクリル板に顔を付け、一緒になって数えだす。
2本が4本、4本が8本、8本が16本、
もちろん声は出さない。くちも開かない。そんな子供じみた真似をしたら、ションベンくさいガキを追い払う口実を男に与えるだけだから。
128本が256本、256本が512本、512本が1024本、
1024本の時だけ、わたしはむにゃむにゃ素早く唱える。1024と呪文のような符丁のような。当事は、じゅもんは知っていたが、ふちょうはしらなかった。きっと、符丁の方があっている。
粉の一塊から1024本の拉麵を精製する同じ作業の繰り返しに、しんしんの興味で臨んでも、小学3年生が持ってる生理上の集中力はその男がする麵づくり工程の8回までが限界だった。
七度目か八度目の1024が聞こえると、エスカレーターに悠長に乗っていてはもう我慢できず、防火扉の中に隠れて非常階段を駆け下り、一目散に5階の男子化粧室に猛ダッシュする。ぱんぱんに張った膀胱のかたちはもう目の前に震えるように現れてくる。
胃や腸の消化器官に隠れてる腎臓は、後年の授業のとき人体図の中で見せられるまで形はしらなかったが、膀胱は、ぼうこうの響きを聞いたときから形が鮮明だった。見えていた。二つの腎臓のどくどく送る小便でぱんぱんに張ってくると、漏らさなようにと我慢していくと、膀胱は、右からの左、左からの右とへ。
夜明けの光明まで休みと励みを呉れながら疲れた脚を庇うように片足立ちして眠る鶴のように、互いを助け、続けていく。
そう、わたしには膀胱は二つある。
こんなとき目の前に現れてくるのは一卵性双生児みたいな瓜二つ。腎臓からどんどん送り出される小便を漏らさないよう互いにキャッチボールさせながら、あぶくが立つほど小便を煮詰めて夜明けの光明が差してくるのを待っている。
そんな血相かえた膀胱がぱんぱんに膨れてる小学校3年生を、もちろん男は見送ってはくれない。漏らさないかなどに気を止める義理もない。
ただ、おのれの仕事を続けるだけ。
小学3年生のわたしは、いまはチンチンの先が焼けるくらい濃くなったションベンを排出させることにやっきになってるから、そのあと男が一日にどれだけの麵の数を拵えているのかは、結局知らずじまいだった。
殺ったあとのヒデヒトの掌を見ていると、いつもあの男が差し込まれてくる。殺るまえはまだ熱かった蠟が固まり、デスマスクのように殺られたヒトの跡のこびりついた掌が、あの男のいつも粉まみれの下膨れした顎のあたりと重なる。
128本は256本になる
いつも五分刈りあたまだったから、安床屋にしたってひと月に2度は刈らなきゃ、あーはいかない。
256本が512本にかわる
前垂れだって、つんつるてんで一張羅の絣にメリケン粉が掛からないよう魚屋の大将が締めてる実用一点張りの足元までのしっかりしたものを選べばいいのに、丁稚どんがする小回りのきく可愛いやつだ。
512本は1024本になり、嚙めば丸い断面のいつもの拉麵になる。いつものように百目蠟燭拵える中の蠟にまみれた掌のまんま、ぐぅーぐぅいう腹を抱え、そぁーとお店を抜け出し、打ち立てつるりを一気に流し込む。残ったスープだって一滴も残さず平らげようと丼鉢を傾け、鉢の底が被った団子っ鼻にくっついたら、鼻先に付いたスープの最期の一滴が鼻の下の人中を滑り落ちてくのを出した舌先で、ペロリする。折檻の付いた躾をあれだけされても箸使いは上手に出来ないから、お店の小僧さんなのに口中から胃の腑に麵を運ぶのも汁を施すのもゆっくりゆったりだ。
そのクセのままだから、仕舞いの時分には丼鉢は冷え切ってくっつけてた百目蠟燭の蠟の方は掌から丼鉢に持っていかれてる。掌だけは小僧さんのまんまの可愛らしいヒデヒトの手形が蠟型でくっつく。被るようにしてた丼鉢が放れると、隠れてたヒデヒトが戻ってくる。
大人になっても変われずいるのは面倒くさいかが、クセなんだからと飲み込んでしまえば、いつまでたっても付いて回る可愛いヤツだ。




