留侯世家より 張良 その二
黄石公という老人が橋の欄干によりかかり、川を眺めている。
「どこかに我が秘伝の『三略』を授けるに足る人物はおらぬかのう」
三略とは、周の武王に天下を獲らせた軍師、太公望こと呂尚の軍略をまとめた書である。某ゲームでは孫子の兵法書に次いで価値が高く、なんと統率が7も上がる。
と、そこへみすぼらしい格好をした若い男があらわれた。
(見事な吉相をしておる!)
龍のような顔。なびくひげは春の心地。
「おい小僧!」
黄石公は男を呼び止め、
「老師。どうしたい?」
草履を河川敷に落とした。
「お、裏か。明日は雨だな」
「違うわい。小僧。草履をとってこい」
男は目を丸くしたもののすぐに、
「なんだい、しょうがねえな」
自らの草履を脱いで黄石公に与えた。
「じゃ、俺いくわ」
カカッと笑い、去った。
(うーむ。ひとかどの人物ではあるが兵法を授ける天稟ではない)
またある日、同じように黄石公が橋にいると、
(な、なんじゃあの男は?!)
向こうから大男が肩をいからせてやってくる。
(ひょえ~。声をかけづらいのう)
髪が逆立ち蛇のようにニョロニョロうごめいている。体温のせいだろうか。心なしか男のまわりが蜃気楼のように揺らいでいるような?
(じゃが、大物であることは間違いない!)
黄石公は意を決して男を呼び止め、
「おいそこの若いの!」
「……俺を呼んだか?」
目をつむって「えいっ」と草履を河川敷に落とした。
「草履をとってくださらんかの?」
瞬間、男からミシミシッと音がした。肉がひしめくような、骨が軋むようなそんな音。
「よかろう!」
男はにわかに黄石公を担ぐと、ともに河川敷へ滑り降りた。
「拾え!」
男が草履を指す。黄石公は言われるままに手を伸ばしかけたがぐっと堪え、
「……履かせろッ」
キッと男をにらみつけた。
「いまなんと申した?」
「わしに草履を履かせろッ!」
男が笑うと大地が揺れる。
「……俺に指図するとは」
が、目は笑っていない。その双眸は嵐。のぞきこめば眩暈がし、瞳が二重に見える。
男は黄石公の脚を掴んで逆さづりにし、もう一方の手で草履を拾うと、
「よかろう! 履かせてやるッ!!」
足を草履へ突っ込んだ。
「ただし……貴様が草履を履くのではないッ! 草履が貴様を履くのだッ……!!」
「ひょえ~~~!!」
無残。黄石公の脚は黒くうっ血し、頭に血がのぼってふらふらに。しかし、足にはしっかり草履が履かれている。いや、黄石公は草履に履かれていた。
「さらばだ」
男が去ると老人は静かに涙した。
またある日。
(故郷が恋しいのう)
黄石公が橋で黄昏れていると、丁度、若い男が通りがかった。
「あっ」
痛めた脚からするりと草履が脱げ、橋の下へ。
(しまった)
とても下までは降りていけない。
「小僧。草履をとってこい」
「あ? ぶん殴るぞ!」
男はそう言いつつも、
「なんか言ったかの?」
「チッ」
……思いつつも、よぼよぼのおじいちゃんのために草履を拾ってきた。
「おらよ」
ぺんっと地面に叩きつけられた草履。だが黄石公は足が痛い。
「履かせろ」
「てめぇはシンデレラか?」
しかたなく男はひざまずき、履かせてあげた。
(なんていい子じゃ)
黄石公は感涙し、片足でぴょんぴょん跳ねながら去った。
「いや、お礼は?」
男はただただ驚いて立ち尽くした。
数日後。男が橋を避け、浅瀬を渡っていると、
「おい小僧!」
黄石公があらわれた。
(チッ)
対岸に着き、屈んで草履を履きなおす。
「お主はなかなかみどころがある。五日後に橋にきなさい」
(なんだ。お礼する気になったのか?)
「返事は?」
「わかった」
黄石公はうれしそうにぴょんぴょん跳ねていった。
そして五日後。
「あのクソジジイ。待ち合わせするなら時刻も指定しろっての」
男は夜が明けると橋へむかった。すると、すでに黄石公がいるではないか。
「老人を待たせるとは何事じゃ!」
「はぁ?」
「実にけしからん」
秦末の動乱期であろうと令和の世であろうと老人の朝は早いようだ。
「また五日後。次はもっと早く来るのじゃぞ」
黄石公はそう言って去った。
五日後。
「遅い!」
今度は雞鳴の時間(鶏が鳴く頃……かと思いきやなんと午前二時ごろ。中国って鶏も朝早いのかよ。まだ真っ暗だよ。天体観測できるよ)に家を出たが、黄石公は仁王立ちして待っていた。
「また五日後。次はもっともっと早く来るのじゃぞ」
ヤケになった男は、今度は日付が変わる前に家を出た。しばらくすると黄石公がやってきて、
「合格じゃ」
うれしそうに一冊の本を差しだした。
「これは?」
「この本を読めば十年後にお主は王の師になれる。そして十三年後に済北の穀城山(たぶん襄陽の西)の麓で黄色い石をみつけるだろう。その石こそわしじゃ」
「……天書三巻の方がよかったな」
「なんか言ったか?」
「いえ、別に」
翌日。書に目を通すと、なんと太公望の兵法書ではないか。男は諳んじられるまで何度も何度も読み返した。
この男こそが張良であり、後に劉邦を支え、天下を獲らせるのである。
「しばらくしたら穀城山に石を埋めにいかねばのう」