管晏列傳 管仲より 鮑叔
鮑叔、あるいは鲍叔牙は潁上(※時代的に楚に属する。たぶん。地理的には合肥の北西)で商いをして暮らしていた。
昼下がりの市場。商品はほとんど捌け、閑散としている。こじんまりとした店の奥で鮑叔はその日の売り上げをまとめていた。と、
「おい鮑叔、聞いたか? 斉が紀を併合したって」
管仲(姓は管、名は夷吾、仲は字)があらわれた。
「うん。さっき来たお客さんから聞いた」
「紀といえば漆の産地だ。うまくやれば安価に買い付けられるんじゃないか?」
「どうだろうね」
ふたりは幼少からの付き合いである。
「絶対うまくいくって。どうだ、一口のらねえか?」
管仲の鼻息は荒い。
「うん。いいけど」
「よし決まり。じゃ馬車を手配してくれ。それに粟を積めるだけ積んで、向こうで漆と交換しよう」
言うや、パッと店を出ていった。
「まったくもう」
鮑叔は苦笑いして、準備にとりかかった。
紀は楚の北東、斉の東に位置する。
「ここが紀か」
紀の君は斉と戦わずして逃げたため、町はさほど荒れていない。
「皆、聞いてくれ。この粟を漆と交換する。希望者はもってきてくれ」
ただ占領後に斉が食料を接収したため、町の人々は飢えに苦しんでいた。
買い付けはうまくいき、斉で捌いたところ、大変な稼ぎになった。
「いや~うまくいったな」
「そうだね」
帰りの馬車。満載の刀貨(※お金)に管仲は満足気である。
「こいつは潁上じゃ使えないから、しばらくは斉に滞在するか」
「うん」
「じゃ鮑叔。俺の取り分は六割でいいよ」
「えっ」
粟も馬車も手配したのはすべて鮑叔である。
「俺の発案で儲けたんだ。コンサルタント料としては安いもんだろ?」
「……うん」
なのに取り分は管仲が上。いつものことだった。
またある日。鮑叔が斉の臨淄(※首都)で店を出していると、ふらっと管仲がやってきて、
「鮑叔~。鮑叔ってもともとの姓は姒だったよな?」
「うん。そうだけど」
「姒って言えば、杞(※先述した紀とは別の国。杞憂の語源となった国)の国姓じゃねえか」
賑わう市で机の上に立ち、
「皆さん。聞いてください。ここにおわす鮑叔は杞の公子です!」
大声で叫んだ。
「ちょっと、管仲。やめて!」
「いまでこそこのような暮らしをしていますが、やがて公になるかもしれませんよ」
話を聞きつけた人々で店はごったがえし、知己を得ようと商品は飛ぶように売れた。さらに、
「こちらに杞の公子さまがおられるとお聞きしましたが」
斉の官吏までやってきて、
「このお方です」
「ぜひ襄公がお会いしたいと。ご同行いただけますかな?」
大事になった。
「違います! 誤解です!!」
結局勘違いとわかり、鮑叔は官吏にこっぴどく怒られ、人々から笑いものにされてしまうのだった。
「鮑叔。すまん。よかれと思って」
「もう、気を付けてよね」
さらに別の日。鮑叔が宿で眠ろうとしていると、
「鮑叔~」
酒に酔った管仲がやってきた。
「どうしたの?」
「またクビになっちまった」
管仲は地頭が良く幾度となく斉の役人に登用されるが、
「今度はなにしたの?」
「勤務中に酒呑んでんのがバレた」
すぐに素行の悪さが露呈してクビになる。
「大変だったね」
「鮑叔~!!」
その度に鮑叔は管仲の愚痴を聞いて慰め、
「……鮑叔…………俺、BIGになりてぇよ……」
「管仲ならなれるよ」
朝になると管仲を寝かしつけて仕事へ向かうのだった。
ほかにも、
「鮑叔~」
「管仲! 戦はどうしたの?」
「上官が気に入らなくて抜けてきた」
「ツイてなかったね。でも僕は君が無事に戻って来てくれてうれしいよ」
「鮑叔~!!」
事あるごとに鮑叔は管仲を支えてきた。
そんなある日。ふたりに良い知らせが舞い込んだ。
「鮑叔! 俺また仕事見つかったよ」
「管仲! 実は僕も大きな仕事が入って」
ふたりは酒屋で顔を見合わせながらにんまりして言った。
「公子の糾のところで雇ってもらえるって」
「公子である小白さまにお仕えすることになったんだ」
公子糾は当時斉を治めていた襄公の弟にあたる。公子小白はそのさらに弟だ。
「……ねえ管仲。僕と一緒に小白さまに仕えない? 小白さまは素晴らしい御方だよ」
「いやいや、せっかく話をいただいたのに断れるかっての。まっ、お互い頑張ろうぜ!」
ようやくつかんだ出世の糸口。だが、すぐ悲劇に見舞われる。
襄公が従弟である公孫無知に殺されたのだ。
襄公は血気盛んな男だった。こんな逸話が残っている。
襄公は魯(斉の南にある国)の桓公に嫁いだ妹と姦通し、桓公にバレたことがある。その上、謝罪したいと偽って酒宴に桓公を招き、彭勝という部下に殺させた。
魯が激怒すると襄公は「こいつが勝手にやった」と彭勝に責任をなすりつけ、処刑してしまった。
そんな男なのだ。彼を憎んでいるものはごまんといただろう。
さて、公孫無知は君の座に就くとその地位を確立するため、公子糾と公子小白を殺害しようとした。
ふたりはあわてて逃亡し、公子糾は母のツテで魯へ、公子小白は似たような立場にある各国の公子が身を寄せる莒へ向かい、管仲と鮑叔も離れ離れになった。
それから一年。公孫無知は雍林で遊んでいる最中に殺害された。
斉の大夫、高傒は告げる。
「襄公を弑した無知は死んだ。誅殺されたのだ。来たれ公子よ。我々は貴方に従おう」
大帰国時代の到来である。いち早く帰国し、政権を樹立したものが次代の斉公。
知らせを受けた公子糾と公子小白はすぐさま動いた。
着の身着のままわずかな供回りを連れて出た公子小白に対し、公子糾は魯が後ろ盾となり軍を派遣してくれた。が、これにより糾はわずかに進行が遅れた。
「このままでは小白に後れをとってしまう」
「糾さま。この管仲にお任せあれ」
管仲はいそぎ小白のもとへ向かい、
(あれは管仲?!)
「これでも喰らえ!」
暗がりから毒矢を放った。
「ぐふっ!!」
矢が腹部に突き立ち、小白はもんどりうって倒れる。
「……やったか?」
念のため次の宿場で様子をみると一行に小白の姿はなく、代わりに棺桶を運んでいるではないか。
「ざまあみろ!」
管仲は意気揚々と撤収し、
「糾さま。小白は死にました!」
「おお! でかした!!」
報告を受けた公子糾は斉へゆったり向かい、国に入ったのは六日後のことだった。しかし、
「なんぞ、どうなっておる?」
なんと小白は生きていて、すでに君の座に就いたという。
「おい、管仲!」
「わかりません。が、ここは引き上げた方がよろしいでしょう。いつ小白が軍を差し向けてくるか……」
「うぬぅ」
魯に逃げ帰った公子糾を討つべく、小白あらため桓公は軍を起こし、魯軍を破った。
敗走する魯軍の逃げ道をふさいで包囲し、人質にとった上で桓公は手紙を出す。
「拝啓 すっかり寒くなりましたね。魯の皆さんはお元気ですか。さて、さっそくですがお手紙を差し上げたのは公子糾についてです。私は兄を手にかけたくはありません。でもこのまま野放しにはできないし、いったいどうすればよいでしょうか? もし兄が魯で自殺でもしてくれたら……なんて考えたりしちゃったりして。冗談ですよ? あと管仲。てめぇは絶対許さねえからな。塩漬けでもいいからとにかく連れてこい。さもなくばこいつら皆殺しにするぞ。 敬具」
魯の人々は恐怖し、笙瀆(※読めない。しょうとく? 現在の山東省菏沢市)で公子糾を殺し、
「待って。たぶん生きたまま連れてった方がポイント高いと思う」
管仲を捕らえて桓公のもとへ送った。
斉の宮殿。魯の使者を桓公はにっこにこで見送った。と、
「桓公さま。よろしいでしょうか?」
「どうした鮑叔?」
いつになく神妙な面持ちで鮑叔は言う。
「私は桓公さまの臣下になれて本当に幸運でした」
「なにを言う。今日の私があるのはそちの支えあってこそぞ」
「ありがたきお言葉を賜り恐悦至極に存じます。ただ私の力はここまでのようです」
「どういうことだ?」
「私の力では桓公さまを斉の君にするのでやっとです。ここから先、桓公さまが中原の覇者となられるには私などでは力不足なのです」
「そんなことを申すな。頼りにしておるぞ」
「……申し訳ありません」
その頑なな態度に桓公はすっかり困ってしまった。
「では、私が覇者となるためにはどうすればよいと申すのだ?」
鮑叔は顔をあげ、はっきりと答えた。
「管夷吾(管仲)を用いてください」
「ええ……」
桓公の口がへの字に曲がる。
「彼は失ってはならない人材です」
しかし重ねて言うので、
「わかった。だったらそちがいって力を貸すよう言ってくれ」
「はい!」
しぶしぶ容れることにした。
地面に穴を掘って作られた薄暗い牢獄。
「管仲!」
「鮑叔?!」
鮑叔が訪ねると管仲は涙を流した。
「助けてくれ鮑叔。俺、まだ死にたくない……」
「大丈夫だよ。僕が桓公さまにとりなすから」
が、すぐに笑顔を取り戻し、
「本当か?」
「うん!」
涙をぬぐった。
「ようし鮑叔。これから俺はどうすればいい?」
「まずはその足かせをとって、お風呂だね」
鮑叔は管仲を獄から連れ出して身を清めさせ、桓公に引き合わせた。
桓公は鮑叔の進言どおり厚く礼をもって管仲を迎え、大夫に任命した。
ここから桓公は覇者へと昇り詰めるのである。
司馬遷は史記にこう書き記している。
管仲世所謂賢臣,然孔子小之。(管仲はいわゆる賢臣だけど孔子は小せぇって言ってるよ)
一方で、こうも書いている。
天下不多管仲之賢而多鮑叔能知人也。(天下には管仲みたいに賢いやつは多くないけど、鮑叔みたいによく人を知る人は多いよね)
うーん。そうかな?