刺客列傳 荊軻より 秦舞陽
紀元前227年、時は戦国。秦王政(※のちの始皇帝)が韓、趙を滅ぼして1年が経った。
その頃、燕に秦舞陽という若者がいた。燕の将軍として東胡と戦い、千里余りを退かせた秦開の孫である。
彼は13歳にして人を殺めたあらくれ者で、街ですれ違うものは誰も目を合わせようとしなかった。
「あー。金欲しい」
秦舞陽が路地を歩いているとひっそりと立てられた看板を目にした。
「高額報酬」「ホワイト案件」「荷物を運ぶだけの簡単なお仕事です」
「マジかよ。俺ツイてる!」
さっそく書かれた面接会場へ向かう。そこはどこにでもある街の倉庫だった。
「すいませーん。仕事募集の看板見てきたんだけどー?」
「はーい。そちらにおかけください」
倉庫の片隅から声がする。ドアをあけると狭い空間にイスがひとつ。その正面には壁があり、窓がある。
窓にはカーテンがかかっていてお互いの顔がわからないようになっているようだ。
「なにこの幕?」
「手前どもは人の容姿で合否を判断するということをいたしませぬよって、こうした仕切りを設けさせてもらっているのです」
「へえ~」
秦舞陽はしっかりしたところだな、と少し安心し、
「お仕事を探しに来られたのですよね?」
「おう。看板を見て来たんだ」
「ようこそお越しくださいました。どうぞ、おかけください」
イスにどかっと腰かける。
「で、仕事ってなに? 俺、手っ取り早く稼ぎたいんだけど」
「おお、稼ぎたいならウチはうってつけですよ。色んな仕事があって報酬はまちまちですが、高いものですと一件で金300斤をお支払いすることもあります」
「金300斤?!」
千金あれば富豪と呼ばれる時代。その報酬は法外である。秦舞陽は疑問に思い尋ねた。
「それってヤバい仕事じゃないっすよね?」
「ウチはホワイト案件しか扱っていません」
「じゃ、大丈夫っすね」
「ええ。仕事の詳細については守秘義務があり、この場で詳しく申し上げることはできませんが、一例をあげますとショバを荒らしてかよわい一般市民から金をだまし取った高利貸しを懲らしめる、なんて仕事は報酬が高く設定されています」
秦舞陽は首をかしげた。
「えっ、それって役所に訴えた方がよくないっすか?」
「高利貸しの連中は役人に賄賂を渡して、悪事を見逃してもらってますからね。訴えたところで金は戻ってきませんし、下手すると訴えた側が牢に繋がれる、なんてこともありますから……」
秦の脅威が迫り燕も近頃は物騒である。
「ウチはそうした悪党を退治するプロの仕事人もいらっしゃいます」
「仕事人……」
「この世はつらいことばかりですから」
秦舞陽の脳裏にヒーロー像が浮かぶ。
「でも暴力はちょっと……」
「大丈夫です。荷物を運ぶだけのお仕事もあります。そちらも物によってはそれなりの報酬をお支払いしますよ」
「えっ、それってヤバいブツじゃないっすよね?」
「ウチはホワイト案件しか扱っていませんのでご安心ください」
「じゃ、大丈夫っすね」
「いま一番報酬が高いのは……地図ですね」
「なんで地図運んで金になるんすか?」
「詳しくは企業秘密なので申し上げられませんが、あるお得意様から秦王さまへの献上の品なのです。とても重要なお仕事ですので報酬が高くなっております」
「はえ~」
秦王への届け物! 秦舞陽の心が高鳴る!!
(俺みたいなゴロツキでも秦王に謁見できるってのか?!)
普段蔑んだ目で見てくる一族の連中を見返すにはちょうど良い仕事だ。あわよくば秦王に取り入って出世できるかも?
「それやります!」
「おお、ありがとうございます。では氏名、住所、職業、職場の住所、ご両親の氏名、ご両親の住所、家族構成を教えていただけますか?」
「えっ、なんでそんなこと聞くんすか?」
「昔ですね、運ぶ荷物を盗んだ方がおられまして、念のため確認させていただくよう規則で決められているのです。教えていただいた個人情報はこちらでしっかり管理しますのでご安心ください」
「そーなんすね」
やっぱりしっかりしてるな、なんて思いながら秦舞陽は荷物運搬の契約を交わした。
「では指定された日時に集合場所へ来てください。なおこのお仕事はもう御一方と合わせ、ふたりで作業いただきますので、よろしくお願いいたします」
大金が入るとあって、秦舞陽は約束の日まで遊んで暮らした。
さて仕事当日。秦舞陽がルンルンで指定された倉庫へ向かうと、先にひとりの男がいた。
(こいつはやべぇ)
服の上からでも見て取れる鍛えられた体、驕らず緩まずぴっと筋の通った立ち姿、鋭い眼光は狂気に濡れ、一方で奥には知性が宿っている。
その堂々たる様は札付きの悪である秦舞陽でさえ萎縮するほどだ。
「お前はなんだ?」
男の酒焼けした声が肚に響く。
「俺は秦舞陽だ。秦王のところまで荷運びをするよう言われている」
「帰れ。お前のような未熟者の出る幕ではない」
「なんだと! 俺は未熟者なんかじゃない。これでも13の時には人を殺してるんだぞ!!」
「くだらん」
そこへまた別の男があらわれた。
「まあまあ荊軻さん。虎穴に飛びこもうというのです。暴虎馮河の勇もまた必要でしょう。賢しくて大事は起こせませんから」
「慎重でなければ事は果たせん」
仮面をつけているため表情はわからないが、穏やかな話し方、やわらかな物腰、立ち振る舞いに気品があり、偉い人であることがうかがえる。
「アンタは?」
秦舞陽が問う。
「私は今回の仕事の依頼人です。さて荊軻さん。約束の日時です。出発の準備はできていますか?」
「まだだ。まだ友人が来ていない」
「ですが、こちらもあまり時間がないのです」
「口出し無用。出発の時期は俺が決める」
「そうですか……」
仮面の男はひどく残念がり、
「では、また後日。秦舞陽さん。貴方も今日のところはお引き取り下さい。待機している間の日当はお支払いします」
この日はこれで解散となった。
しかし、それから待てど暮らせど一向に出発しない。
秦舞陽は気が気でない。友人にデカい仕事があると吹いて回ったのに、いつまでも街にいるのでメンツに傷がつきそうになっている。
「おい、どうなってんだ!」
面接した倉庫に行って問い詰める。
「そうですねえ。私から荊軻さんを急かしてみましょう」
それから数日。ようやく出発する運びになった。
出発の日。荊軻の待っていた友人はついに姿をみせず、秦舞陽とふたりで旅立つことに。
薊(※燕の都)のはずれ。秦舞陽と荊軻。それに依頼人と見送りの人々が集まった。
「ではお荷物を。こちらの木箱と袋を荊軻さんに、こちらの地図を秦舞陽さんがお持ちください」
木箱は小脇に抱えられる程度の大きさ。地図は箱に収められている。
「いやー、なんかものものしいっすね」
秦舞陽と荊軻以外、仮面で顔を隠している。しかしその恰好は白衣に冠と礼服である。
「それほど重要なお仕事なのですよ。きちんと報酬分の仕事をしてくださいね」
「わかってるってーの」
ふたりは軺車という二人乗りの馬車に乗り込む。荊軻が手綱をとって出発した。
仮面の人々はふたりが地平線に消えるまで、背を正し馬車を見送った。
二週間ほど経った頃だろうか。ふたりは秦の都、咸陽に入った。
「これが咸陽か」
いまや日の出の勢いである秦の国都だけあって、道も建物もなにもかもが大きい。
荊軻はまず秦の高官である蒙嘉に会い、千金の賄賂を贈って秦王政への面会を求めた。
くすりが効いたか、ふたりは滞りなく面会にこぎつけた。
「いくぞ」
咸陽宮。秦の王宮である。豪華絢爛にして壮大。三千人の妃が住まうという。
大和田健(達)樹著「謡曲評釋」の表現を借りると、
そも〳〵此咸陽宮と申すは。都のまはり一万八千三百余里。
内裏は地より三里高く。雲を凌ぎて築きあげて。鉄の築地方四十里。
又は高さも百余丈。雲路を渡る雁がねも。鴈門なくては過ぎがたし。
内に三十六宮あり。真珠の砂瑠璃の砂。黄金の砂を地には敷き。
長生不老の日月まで。甍を並べておびたゝし。
らしい。元は平家物語巻第五っぽい。小説家なら自分の筆で書いたらどうだ? と読者は思われるだろうが、こんなん読んだ後に書けるわけない。あまりに美しいのでご紹介した次第である。
閑話休題。
沈鬱な面持ちの荊軻の一方、秦舞陽は浮かれている。
(すげー)
いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの秦王に拝謁する。まさに男子一生の業である。郷里の父や母、友の顔が浮かぶ。盃を片手に土産話に花を咲かせれば、いままでの鬱屈とした人生がパーッと桜の花びらのように散っていくだろう。
「落ち着け」
「わかってら」
荊軻の言葉もどこか遠い。異国の礼服である黒羊の深衣、緇布の冠。吸ったことのない都の香り。目に飛び込む華燭は脳を焼かんばかり。秦舞陽は夢現を歩く。
本宮の前で役人に呼び止められ持ち物の確認を受ける。
「それはなんだ」
「大王様に献上する地図でい」
ひもを解き、箱をあけると見事な帛書(※絹布でできた書)の巻物が。王侯将相でもなければまず目にすることのない珠玉の品に秦舞陽の心が躍る。
(ああ母ちゃん。いままで迷惑かけてごめんよ。これからはまっとうに生きていくから。そうだ、帰りに花を摘んで帰ろう。父ちゃんの墓参りにもいって、土地を買って田んぼ耕して、所帯をもって、真面目にコツコツ生きていこう。人生をやり直すんだ)
一方、本宮内では使者の来訪が告げられていた。
「大王さま。燕より使者が参っております。燕王は大王さまの威に服し、あえて軍を率いて戦わず、国をあげて秦の臣となり、諸侯として加えてもらえるよう願い出ました。いまはただ郡県の令となり、先王の宗廟を奉りたいとのことです」
蒙嘉が取り次ぐ。
「燕王はあの樊於期を匿っておりましたが、いま使者にその首を持たせ、督亢(※燕の肥沃な土地)の地図と合わせて献じたいと申しております」
秦王政はひどく喜び、さっそく朝服をまとって、九賓の礼をもってふたりを招き入れた。
(なんて大きな宮殿だ)
朱色で塗られた柱、ふかふかの敷物。はるか遠く百歩の殿上に在わす御方こそ秦王その人である。
「使者殿。燕王からの品を大王さまに献じよ」
ふたりは交互にするすると前進し、秦王政の手前、階段の下まで移動する。
荊軻がおもむろに箱の蓋をあけると中から人の生首が。
(ヒッ!?)
秦舞陽は驚き、顔が青ざめた。
「どうした使者殿?」
蒙嘉が訝しがる。まさか使者が献上の品を知らぬはずがない。
「この者は北の辺鄙な田舎の生まれ故、いまだ天子にまみえたことがなく、その御威光を畏れているのです。しばしお待ちください」
荊軻はそう言うと、振り返って微笑んだ。
(なにしてんだ馬鹿野郎! 仕事の時間だぞ)
秦舞陽は荊軻がなにを言っているのかわからない。
「そうか。ならばその方が代わって地図を持ってこい」
秦王政に命じられ、荊軻は秦舞陽から地図を受け取り階上に運ぶ。
「どうぞ御覧じくださいませ」
巻物の紐を解き、ゆるゆると広げてゆけば、
「おお。これは見事な」
「大王さま。ひとつ申し上げたき儀が」
「なんぞ」
「この地図はここに疵がございまして」
最後、パッと地図をひるがえすと匕首が。
荊軻はそれを掴み秦王政に襲いかかる。
「ああ、ああ?!」
秦舞陽はただ下で見つめるばかり。
(もしかしてこれって闇売人なんじゃ……)
荊軻と秦王政は宮殿内を走りまわり、しばらくして秦王政が剣を抜くと荊軻を斬りつけ、
「うぬっ!」
荊軻が最後の力で投げた匕首は柱に突き刺さった。
秦舞陽の最期は史記に書かれていない。書くまでもない。