孝恵本紀 より 劉盈 その四
しかし時代の流れは味方しない。この頃、相国・蕭何が病を患い、床に伏した。
相国とは漢王朝における臣下としての最高位である。
蕭何について書きだせば一冊の本でも書き足りないほどの名臣であり、ここでは詳述しない。史記には「その位は群臣の冠にあり、声望は後世に轟き、閎夭や散宜生と烈しく競う」といったことが書かれている。(※閎夭、散宜生は周王朝の文王に仕えた賢者)
劉盈は気が気でない。足しげく蕭何邸に通った。
「蕭何。加減はいかがか?」
「陛下。申し訳ありません」
このとき劉盈はまだ18歳。蕭何の後ろ盾を失うのはあまりに痛い。
「なにをおっしゃる。病はきっとよくなる。あまりに長生きしすぎて百歳を越えるかもしれん。あはは」
蕭何の顔に死相が出ている。もう長くない。聞かなければ。
「もし蕭何が百歳になったら、さすがに隠居して養生してもらわねばなるまい。……仮にそうなったら、誰が貴公の替わりを務められるだろうか?」
ひどい咳。口から血が垂れる。ひゅーと気管支が鳴る。
「陛下。陛下以上に私のことを知るものはおりません。私の考えなどお見通しでしょう」
蕭何の澄んだ瞳がまっすぐ劉盈を見据えた。
「むむっ、そうだな」
間違えてはならない。心残りのないよう、漢王朝のため身を粉にして働いてくれた男が、安らかな眠りにつけるように。
劉盈はしっかり考え、答えた。
「曹参はどうだ?」
曹参は異母兄の劉肥が治める齊国の丞相だ。黄老思想に通暁し、法ではなく徳で国を治める。そのため蕭何とは馬が合わなかった。
恐る恐る顔色をうかがう。と、蕭何はにこやかに微笑んだ。
「陛下! そうです、曹参です! 陛下は正しい。自信をお持ちください。これで思い残すことはもうなにもありません」
紀元前193年8月。蕭何没す。劉盈は文終侯と諡した。
気落ちしている暇はない。同年10月。曹参が丞相を務めていた齊の王・劉肥が長安へやってきた。
「おお陛下。ご立派になられましたな」
「兄上。ご無沙汰しております」
劉肥は劉邦の庶子である。皇位継承権を有さない。
劉盈は兄のため酒宴を催す。
「母上が?」
「はい。ぜひこの機会に親睦を図りたいと」
呂太后もこの酒宴に参加した。
参加者は皆、劉邦や呂太后の一族ばかり。身内での会となった。
「兄上。宮中では皇帝と臣下でありますが、ここでは兄と弟。ぜひ上座にお座りください」
「いやそれは畏れ多い」
「なんの。遠慮はいりません」
劉盈は劉肥を上座に据えた。これに呂太后は怒った。
(庶子風情が我が子の上に着くなど……)
彼女はすぐさま側付きの侍女を呼び、酒に毒を混ぜ、劉肥に出させる。
なにも知らない劉肥が、
「では、僭越ながら私めが乾杯の音頭をとらせていただきます。漢王朝の益々の発展を願い……」
酒を呑もうとしたところ、
「お待ちくだされ」
劉盈が止める。
「いかがなされました?」
「我らは母は違えど兄弟。ここはひとつ互いの盃を交わし、呑み合おうではございませぬか」
「おお、それはよろしい」
ふたりは盃を入れ替え、
「では乾杯」
呑もうとしたとき、
「お待ちなさい!」
呂太后があわてて劉盈の腕にしがみついて酒をこぼさせた。
「いかがなされました。母上?」
「盈。お前……」
和やかな場が一気に張り詰める。異様な雰囲気を感じ取った劉肥は、
「やはり陛下に盃を賜るなど畏れ多いこと。私が功をあげたとき、あらためて盃を乞いましょうぞ。あはは」
呂太后の企みに気づき、難を逃れた。
彼はその後も逃げ続け、ついに呂氏の毒牙にかかることはなかった。
劉盈はなおも忙しい。呂太后ばかりではない。皇帝としての業務もある。
「父が打ち出した十五税を復活させる」
劉邦はかねがね倹約を奨励し、地代や税を減らした。十五税はその象徴である。
年間収穫量の15分の1を国庫に。周は井田制により10分の1、秦は商鞅が戸に税をかけたため数値は明確ではないが負担率は周より多いであろう。比べてかなり低い税率である。
この減税策は戦が頻発したために長く維持されなかったが、世が治まったいまこそ戻さなければならない。さらに、
「挟書律を撤廃する」
秦が始めた焚書坑儒の悪習を断ち切りにかかる。
挟書律とは医術、占術、農学に関する以外の書物を持ち歩く者を刑に処すというもの。
父・劉邦が生前学ぶことの重要さを説いたように、庶民にも学問をすすめた。
外交面でも活躍している。
宗室の公主を匈奴の単于に嫁がせ、閩越の搖を東海王に冊封し、それぞれの関係を修復し、国家を安定させた。
ほかにもある。人事だ。蕭何の後を継いだ相国・曹参が政務を放棄し、酒浸りの生活を送っていた。
(私がいたらないせいだろうか?)
劉盈は曹参の子、中大夫・曹窋を呼び出した。
「なぜ相国は出仕しない?」
「陛下。申し訳ありません!」
曹窋も心当たりがないらしい。
「帰ったら私が言ったとは内緒で、曹参にこう聞いてはもらないか? 『高皇帝(※劉邦)が崩御されたばかりでまだ陛下もお若いのに、どうして相国が毎日酒を呑んでいるのか。天下に憂うところはないのか』と」
曹窋は顔面蒼白で、飛んで家に帰り、身を清めてから、あらためて父・曹参に質した。
曹参はこの問いを聞くや激怒し、曹窋を200回も笞打ち、
「いますぐ宮廷にいって働いてこい! 貴様ごときが天下を語るな!!」
息子を家から叩きだした。
事の次第を聞いた劉盈はひどく後悔し、後日、曹参が参内した際にあらためて自分の口で問い質す。
「曹参。先日、曹窋が貴方を諫めたのは私の指示だ。あまり子を責めないでやってくれ」
曹参は冠を脱ぎ、
「陛下。お尋ねしますが、陛下は高皇帝より武に秀でるとお思いですか?」
問うてきた。
「とんでもない! どうしてそのようなことを聞くのだ」
「ならば蕭何と私。どちらが賢いと思いますか?」
劉盈は言葉につまったものの正直に言った。
「曹参。貴方は蕭何には及ばない」
「陛下のおっしゃるとおりであります。高皇帝と蕭何殿はともに国をよく治め、法は正しく機能しています。我々はただそれを守っていればよいではありませんか」
曹参の言葉に劉盈は呆れた。
「わかった。ゆっくり休んでくれ」
……劉盈にはこうしたところがある。仁弱と言われる所以であろうが、年長者を思いやるばかりにはっきりと言わない。相国が飲んだくれていては下の者らはどう思うだろうか? 皇帝の立場は? 劉邦旗揚げ以来の元勲が皇帝を蔑ろにして、誰が尽すというのか?
ただ、曹参の側にも事情はある。いや、劉盈は見抜いていたのかもしれない。
紀元前190年8月己丑。曹参は死んだ。蕭何が没して三年。劉盈は新たな相国を任じなかった。
なお司馬遷は曹参を高く評価している。
さてこの間、呂太后はなにもしなかったわけではない。
彼女は絶えず自らの地位を確立するために一族の者らを登用するよう劉盈に求めている。
しかし劉盈は一切許さなかった。彼の治世中、誰ひとりとして功のない呂氏は用いられていない。
呂太后は快くない。
「盈め。私が国のためを思ってやっているというに」
ただ彼女には愉しみがあった。
「太后さま。劉恭(※名前不詳。ここでは日本でよく使われる仮名を当てている。前少帝のこと)さまがお越しです」
「おお、よく参った」
劉恭。劉盈の子である。名前すら伝わっていないが彼が劉盈の死後、皇帝となった。母親も不明。生まれたときに死んだ、殺されたとも。表向きは劉盈の正室・張皇后の子とされている。張皇后は劉邦と呂后の娘である魯元公主の娘だ。
つまり呂太后は新しい傀儡を見つけた。
「お前はちゃんと私の言うことを聞くのですよ」
紀元前188年8月戊寅。劉盈23歳。ついにその時が来た。
皇帝の激務に劉盈は体調を崩していた。
「陛下」
「なんだ?」
侍医が寝所を訪ねた。
「呂太后より薬が届けられました」
薬。劉盈の心がざわつく。
侍医はそれを煎じて、器に入れ持ってくる。
「母上から……」
飲むか? 劉盈は迷った。
劉如意。狩りに行ったあの日、彼はここで寝ていた。
「どうぞ」
差し出されるままに受け取る。侍医はすぐに去った。
(母上)
目をつむれば昔が思い出される。始まりは沛の田舎だった。一緒に草取りをした。食事をした。その後、項羽との戦で離れ離れになり、再会まで二年を要した。優しい母だった。
(懐かしいな)
ほんの少し前まで、彼らはそこらにいる民のひとりでしかなかった。そう思えば、いまの暮らしは夢のよう。
(信じたい)
劉如意のことも、戚夫人のことも、全ては夢。夢であったと、母は変わらずあの頃のままだと。
劉盈は人を信じすぎる。あの日、劉肥との宴で母が毒酒をこぼしたように、まだ母の心に我が子への愛があると、そう願っている。
「いただきます」
母が子の身を案じて処方した薬を、ゆっくり飲み込んだ。
まもなく劉盈は崩御した。諡号は恵帝。帝位は先述した名前も伝わっていない子が継いだ。劉盈との子であるかも疑わしい。ただ呂氏の血は入っているのだろう。
劉盈の死を知った呂太后は哭いたが、涙は流れなかったと史書に書かれている。
そして呂太后の専横が始まる。帝位を継いだ子もすぐに殺され、新しい子へ。
その子は呂太后の死後、呂氏の乱で呂氏一族諸共、誅殺された。
劉盈には呂太后の血が流れている。故に彼の血脈はそこで途絶えた。
司馬遷は恵帝の本紀を立てなかった。




