孝恵本紀 より 劉盈 その三
紀元前195年4月甲辰。劉邦崩御。劉盈が皇帝に即位する。
と同時に呂太后が動きだす。戚夫人を獄に繋ぎ、髪を剃り、囚人服を着せて労役を課した。
「私の子は王なのに、母は奴隷だなんて。終日臼で米をつき、このまま死んでいくのね。ああ愛しい我が子よ。貴方と離れること三千里。誰か母のことを知らせておくれ」
戚夫人はそう嘆いた。さらに呂太后はその息子、趙王・劉如意を呼び出す。
しかし三度使者を遣っても劉如意は来ない。そのまま年が明けた。
「どうなっておる?」
呂太后の問いに使者は震えあがる。
「趙相であられる建平侯・周昌殿がおっしゃられますには、『太后はひどく戚夫人を怨んでおられるご様子。巷では太后が趙王とその母を亡き者にしようと企んでいるともっぱらの噂になっております。さすれば私には趙王を送り出す勇気がございません。また趙王は只今病床の身であり、詔に従うことができず申し訳ございません』とのこと」
周昌はもともと廃太子に反対で直言をはばからなかったが、その義侠心を見込まれ、劉邦にふたりを託された。
呂太后も知っている。
「ならば趙相を連れてこい!」
一喝された使者はあわてて宮を出ていった。
趙の邯鄲宮。勅令を受けた周昌は劉如意を訪ね事の次第を報告する。
「従わないわけにはいかないでしょう」
「周昌。私はいったいどうしたらよい?」
劉如意13歳。周昌だけが頼りだ。
「お前がいなくなれば、私は殺されてしまう!」
「私が不在の間、なにがあってもここを離れませぬよう」
とはいえ詔に背けば、謀反の濡れ衣を着せられてしまう。
周昌は堂々と呼び出しに応じ、呂太后を訪ねた。
「周昌。参上仕りました」
「よく来ました周昌。長旅でさぞお疲れでしょう。宴を用意しております。ゆっくり疲れを癒しされますよう」
呂太后は酒宴に招くと、すぐに、
「周昌の名で如意を呼び出せ」
趙へ使者を送る。
周昌のとりなしによって事なきを得たと聞かされた劉如意は、形式的な儀礼のためという偽りの呼び出しに喜んで応じ、長安へ向かった。
「劉如意が?」
これを知った劉盈は先んじて自ら霸上(※長安の東)へ赴くと劉如意を出迎える。
「陛下自ら、お出迎えいただけるとは」
「水臭いことを言うな。如意よ。我らは母こそ違えど兄弟ではないか。はるばる趙より参る弟を出迎えぬ兄がおろうか」
劉盈はにっこり笑う。
「陛下……」
「これからはふたりで漢王朝を盛り立てて参ろうぞ」
劉如意を自身の寝殿へ。特に呂太后と親しい者には目を光らせ守った。
起居をともにし、同じものを食べ、同じ酒を呑んだ。
呂太后は気に入らない。
「盈はいったいなにをしておる!」
母の心、子知らず。政敵を取り除き王朝の安定を図らんとする太后の深慮が、若き皇帝には理解できぬとみえる。呂太后は、
「樊伉はおるか?」
「はっ」
「盈を宮廷から連れ出せ」
一計を案じた。しばらく経ったある日の夜明け。
劉盈の寝殿を樊伉が訪ねた。
「陛下。こんな朝早くに申し訳ありません」
「構わない。それでどうした?」
「いやあ、近頃、陛下が宮殿に閉じこもっておられるとお聞きしましたので、気分転換にいかがかなとお誘いに参った次第で」
「むむっ。そうか」
樊伉の父は鴻門の会で劉邦を凶刃から守った樊噲である。
(心配をかけてしまったな)
劉如意が長安に来て一か月、劉盈はずっと付きっ切りだった。
まだ帝位を継いで間もない。つまらぬ風聞が大事になることもある。
「よしっ、準備する。少し待っておれ」
「はい!」
劉盈は寝所へ向かった。劉如意はまだ寝ている。
(起こすか?)
いや起こすのも悪い。そう思い、支度を済ませ、弓を手に久々の狩りを楽しんだ。
戻ったのは黎明のこと。
「では陛下、ここで」
「うむ。また誘ってくれ」
見事な雁を仕留めたので鍋にして弟と喰らおうと、揚々寝殿に戻ると、
「そんな……」
劉如意は死んでいた。
「なぜだ?!」
「症状から察するにおそらく毒かと」
14歳。短い人生だった。
「毒とは?」
侍医の態度がよそよそしい。
「貴様がやったか?!」
「とんでもない! 私はただ呂太后より授かりし長寿の薬を煎じただけで……」
「おのれ!」
劉盈は急ぎ呂太后を訪ねた。
「なんです。朝から騒々しい」
「母上。如意殿が亡くなりました」
「おお、それは誠に残念ですね」
「母上が毒を盛ったと」
「……盈。誰がそのようなことを申したのです?」
「それは……」
劉盈は下唇を噛む。
「お前は母を疑うのですか?」
「いえ、そのようなことは」
幼いころはともに畑を耕し、仲良く一緒に食事をとった。名士の家の出で行儀、作法にうるさく、子煩悩で良い母なのだ。信じたいという気持ちが子にはある。
劉盈は追及できずにおずおずと引き上げた。
広くなった寝所は埃ばかりが目に入る。
「すまぬ……すまぬ……」
劉盈はまだ幼かった弟を想い涙した。
劉如意の葬儀後、すっかり劉盈は気を落としてしまい、見かねた呂太后が酒宴を催す。
「盈! いつまでそうしているのです。貴方のために宴を用意しました。廷臣一同参加するので貴方も顔を出しなさい」
「母上」
劉盈は母の顔を見たくもないが、皇帝がいつまでもふさぎ込んでいてはいけない。
「わかりました」
不承不承、ちらっと顔だけ出すことにした。
太后の宴だけあってそれは豪華絢爛なものだった。蕭何や曹参、他諸王まであらゆる貴人が集い、漢王朝の未来を祝った。
「陛下。今宵は存分に楽しませてもらいましょうぞ」
「ささっ、陛下。お酒を」
付き合いもある。劉盈は何度も盃を交わすうち、したたかに酔った。
「ちと便所へ」
「どうぞ。こちらです」
「待ちなさい、盈!」
呂太后に呼び止められる。
「なんでしょう?」
「もう日が落ちて辺りは暗い。足元に気をつけるのですよ」
母の何気ない一言に劉盈は心を打たれる。
(ああ、やはり母は母だ)
燭台の明かりを頼りに廊下をゆく。華やかな宴の喧騒は遠く、夜が近くなる。
月と星に照らされた静かな厠へ。
用を足すと、
「ん?」
暗がりになにかがうごめいている。
「なんぞ?」
近寄ってみるとそれは、
「ひっ」
人だった。手足が切り落とされ、両目は抉れ、耳には熱した鉄が流し込まれている。人?
「お前はなにものだ?」
それはうめくばかりで言葉を発しない。
「のどが潰れておるのか?」
小便にまみれたそれを助け、ひきあげてみると、その横顔にはどこか見覚えが……。
「ま、まさか!」
劉盈は言葉を失った。
――戚夫人。
かつて父の寵姫として絶世の美貌を誇り、美しい舞を披露した女。
「誰がこのような真似を!」
ちくり、心が痛む。怒りで誤魔化そうとしても無駄だ。劉盈には心当たりがある。
「……まさか母上が?」
ほかに誰がいよう。戚夫人は呂太后の手によって宴を盛り上げるための余興「人豚」に仕立てられた。
遠くでどっと笑い声があがる。人豚が鳴く。我が子を求めて。
「なぜ、こんなことを?」
劉如意は死んだ。戚夫人が生きていたところでなにができよう。寛大に許してやれば人々は徳を讃えるだろうに。
(恐怖による支配?)
仁で世を治めようとする劉盈には思いもよらぬこと。
(いや、違う!)
もっと身の毛のよだつ悪意を感じる。理屈ではない。私怨。劉盈の知らぬ母の顔。女。呂太后の女が彼女を許さなかった。
「うっ」
劉盈は現実から目を背け、逃げた。門から飛び出し、御者を振り切って、夜の闇へ、寝殿へ到る。門前で吐き、涙を流した。おぞましい。母との思い出が胃液に混じって飛び出し、愛が流れていく。
「あ、ああ」
醜い。汚らわしい。庭で頭から水を被る。何度も何度も手を洗い。そして、
「あああ、あああー!?」
その手を流れる血に気づく。体を流れるあの女の血。あの化物の血が体内を駆けまわっている。
(私もやがてあのように成り果ててしまうのか?)
腕を頭を掻きむしる。爪に皮膚が、血が付く。劉盈はその血に狂う。
意識を失い倒れた。近侍は彼を寝所へ運び、着替えさせて寝かせた。
翌日。劉盈は目を覚ました。夢か? じっと手を見る。爪に血の痕がある。
「……誰かおるか?」
「はい」
「母上に伝えよ」
呂太后の暮らす宮殿。劉盈の使者が告げる。
「陛下は『あれは人のすることではない。人ではない貴方の息子である私には、天下を治めることができない』そうおっしゃられております」
「ふふっ」
呂太后は昨日見送った参列者の顔を思いだし、機嫌がいい。
「貴方ができないというなら、私が替わって天下を治めましょう」
使者は震えあがり、逃げるように劉盈のもとへ。
「私がやらねばならぬ」
話を聞いた劉盈は固く決意した。




