王女、突然舞踏会に出席することになる
「え!舞踏会ですか?」
肩の手跡が薄くなって来た頃、父の執務室に呼ばれたマレーナは言われたことに驚いた。
「ああ、アロイス王子がどこからか聞きつけたんだ。ハーバラ侯爵家で舞踏会をするらしいんだが、それに出席したいと申し出があった。それを受けてハーバラ侯爵は是非にと言ってアロイス王子を招待した。そしてその場にマレーナも来て欲しいとハーバラ侯爵からもアロイス王子からも言われたんだ。
マレーナは忙しいからと一旦ハーバラ侯爵には断ったんだが、アロイス王子の希望を受け入れたんだからこちらの言い分も聞いて欲しいと言ってきて仕方ないから受けた。すまん。
父がそう言って頭を下げる。マレーナは必要最低限しか出席しないのを知っているからだ。必ず出席する三公爵家の主催のもの。あとは友人のフェリシアの家、アーレンバリ侯爵家主催のもののみだ。行き出したら切りなく招待され、出席しなくてはならなくなるからそれで押さえていた。アーレンバリ侯爵家なら、父親が王家の所領政務官長の家門なので、親交がある家門で幼馴染で親友ということで行っても支障はないからだ。
他まで行き出せば本当に毎週何らかに出席せねばならない。マレーナ自身も主催するのに。
それでもアロイス王子の希望を聞いてくれたのならこちらも何か返さねばならない。マレーナは気が重いが受け入れるしかないと判断した。
「大丈夫よ。出席するわ。王子とはなるべく接触しないようにするから」
「すまんな。そこでだな、フレデリクが行けないからコンラードをエスコートに頼んだからせめて楽しんで来い」
「え!アロイス王子のエスコートじゃなくても良いんですか?」
「ああ。アロイス王子にはハーバラ侯爵家の令嬢をエスコートするように伝えた。マレーナは仕事で遅れるからと」
「わかったわ。少しだけ滞在して帰って来るから」
「ああ、頼む。あの王子は人の国に来て好き放題だな。全く。何を考えているのか。
昨日はずっと王都の美術館や博物館に行っていて、一昨日は市場やカフェに、高級レストラン。その後はカジノだ。視察というより観光だな。金山とかを視察したいとかも言って来ない。目的は各国に顔を知られることで、王太子になる後押しにしようというだけなのか、我が国ではマレーナを妃にしたいという願望があるのか。何にせよ、断るから気にするな。
「はい。お父様。それでいつですの?舞踏会は」
「言い難いんだが、明日だ」
「明日ですか!?急ですね」
「ああ。元々決まっていたことだからな。悪いが直ぐに準備してくれ」
「はい。わかりました」
「全く、困ったものだ。あれではクレメンタール王国も悩むだろうな」
「そうですね。まあ、仕方ありませんわ。コンラードが一緒だし心配しないでくださいね」
「頼んだぞ」
「はい」
マレーナは父の執務室を後にすると急いで王宮の自室に戻った。そして侍女と一緒に明日のドレスなどを決めて行く。
「迷惑な王子ですね。マレーナ様の邪魔をして」
「ふふ。ミレア、邪魔と言ってはいけないわ」
「邪魔でしょうに。マレーナ様はただでさえお忙しいのに」
「仕方ないわ。これも仕事のうちよ」
そう言ってマレーナが選んだドレスは青色のドレスだ。前面にドレスより濃い色の青で刺繍がしてあり、まだ手跡が残る肩を隠すために肩まで覆うもので丸襟から微かに鎖骨が見える。紺色のチョーカーはレースでできており、胸元のコサージュは白い花とダイヤで作られている。キラキラと輝くコサージュのみの宝飾品だがそれだけでマレーナがより引き立つのだ。靴も選んだら完成だ。
「これで準備は良いわね。手跡が隠れるドレスがあって良かったわ」
「こんな酷い痕が付くくらい掴むなんて王子のすることですか?この美しい白い肌にこんな跡が付くだなんて到底許されません!」
「私が直ぐに振り払えば良かったんだけどちょっと躊躇ったのよね。一応お客様でしょ?手荒な真似したくないから。でもどんどん力が強くなってくるから仕方なくね」
「今度からは直ぐに振り払ってください。今日も消毒しないと」
そう言ってミレアは走り出て行った。
意外と手跡が残っている。痛いと思ったのは確かだが、こんなことをされたことがなかったので、どれくらいの痣になるかなど思いもよらなかった。あの日は帰って来てミレアが見つけて大騒ぎになったのだ。それ以来、消毒と言ってミレアは熱いタオルで拭くのだ。そんなことをして治りが早く治るわけではないのだが、気分的にスッキリするのは間違いない。触れられたことが不快で堪らなかったから。
それをミレアはわかっているのだろう。ああやってマレーナの分まで怒って、気持ちがはれるようにしてくれる。
マレーナは並べられてドレスたちを見て、仕方ないという諦めよりも、コンラードがエスコートをしてくれることに気持ちを持って行こうと思った。こんなことは初めてだ。嬉しさで心が躍る。
「少し楽しみかも」
そんな風にマレーナは考えた。ハーバラ侯爵家というのは嫌だがコンラードが一緒なら大丈夫だろうと気持ちを切り替えた。
翌日、マレーナを迎えにコンラードが王宮までやってきた。マレーナが迎えに行くことになると思っていたが、今回はコンラードが自分が迎えに行くと言ってくれたらしい。マレーナはドキドキする気持ちを抑えながら部屋を行ったり来たりしながら待った。
「そんなに歩き回っては足が疲れますよ」
ミレアが言って来るが大人しく待つなんてできなかった。
「化粧はおかしくない?髪型は大丈夫かしら?」
マレーナは落ち着かなくてミレアに聞くと、今日何度目かという質問にうんざりといった顔で答えが返って来た。
「お美しいですよ。髪型も似合っております」
「そう?」
「ええ、そうです。我が主はお美しいです。コンラード様もきっとお美しいと思われますよ」
「もう!そんなのは良いの!」
そんなやりとりを数回していると、コンラードがもう直ぐ到着すると侍女長から連絡が入り、マレーナは慌てて王宮の入口に向かった。するとコンラードがちょうど入ってきてマレーナを見た。目が合った瞬間にマレーナは心拍数が上がるのを感じた。今日のコンラードも素敵だわ。そう思うと頬も染まった。
「本日は光栄なお役目を頂戴し誠にありがとうございます。本日もマレーナ王女殿下はお美しいですね」
柄にもないことを言うコンラードにマレーナはどぎまぎして手を握ったり開いたりを繰り返した。。
「あ、ありがとう。今日はよろしくね」
マレーがそう言うとコンラードが手を出して来る。エスコートの始まりだ。マレーナはその手を取ると馬車に乗るまでエスコートをしてもらい、コンラードが乗り込むと馬車は走り出した。
「ごめんね。付き合わせちゃって」
「いや、大丈夫。マレーナのエスコートができるからな」
そう言うとコンラードは座席の横に置いてあった袋の中をごそごそとし始め、一つの箱を取り出すと蓋を開け中身を取り出す。
それはブレスレットだった。磨き上げられた太めの白金のブレスレットにサファイアが埋め込まれている。それをコンラードは無言でマレーナの左腕に嵌めた。
「え?どうしたの?これ」
「僕からの贈り物だ。たまには良いだろ?どんなドレスを着るのか聞くのを忘れたからいくつか買って来たんだ。その中でこれが一番今日のマレーナに合うかなと思って。エスコートをするんだから贈り物をしようと思ってな。残りももちろんマレーナの分だからな」
そう言ってコンラードが目を細めて笑う。
「え。良いの?嬉しい。ありがとう!」
マレーナは腕を上げブレスレットに埋め込まれたサファイアの輝きに魅入った。これはコンラードの目の色だ。そんな大切な物をもらってしまった。嬉しくないわけがない。
「綺麗・・・・・。宝物にするわ」
「大したものじゃない。大袈裟だ」
「ううん。そんなことない。だって嬉しいもの」
マレーナが笑いかけるとコンラードからも笑顔が返ってきた。
「遅れて行って直ぐに帰るんだろ?気を付けろよ。あの王子がいるからな」
「大丈夫。コンラードがいてくれるし、護衛もいるもの。一人にならないわ」
そう言いながらマレーナはサファイアを撫でた。手で触れると嬉しさが増して、気が乗らない舞踏会だったがこれだけで出席して良かったと思った。
「マレーナ。先に言っておくことがある。僕はこの舞踏会の招待状が送られてきて、欠席で返事を出した。しかし、今回マレーナをエスコートすることになったから行くことにした。ハーバラ侯爵家の舞踏会に行きたくて行くわけじゃないからな。マレーナをエスコートしたいから行くんだ。それだけを覚えておいて欲しい」
真っ直ぐな目で見つめられマレーナは頷いた。
「ごめんなさい。私のせいでコンラードの貴重な時間を使わせてしまって」
「そうじゃない。謝らなくて良い。本来は行く予定じゃなかった、ということだ。それだけを信じてくれれば良いから。マレーナはいつも通りで良い。僕が一緒にいるから」
「わかったわ。コンラードにとにかく任せる」
「僕から離れるなよ」
そう言うとコンラードがマレーナの指先に口付けをした。
マレーナは驚き困惑した。こんなことされたことない、と。いつだってコンラードはマレーナを子ども扱いし、こんな女性にするようなことをしてくれたことなどなかった。
舞踏会に行くという特別な空間がそうさせるのかわからないが、マレーナは口付けされた指先をなぞると窓の外を見た。
「そろそろ着くわね」
「さて、美しいマレーナを見せびらかしに行きますか」
「もう、何よそれ」
マレーナは高鳴る鼓動を抑え笑って答えるのに精一杯だった。
ハーバラ侯爵家に着くとマレーナはもちろんコンラードのエスコートで玄関を通った。既に舞踏会は始まっており、執事の案内で会場へと案内された。
「マレーナ王女殿下ご到着でございます!」
張り上げた声で紹介が出席者が一斉にマレーナを見たのがわかった。マレーナはそれをきにすることなく、今夜の主催者のハーバラ侯爵夫妻の元へと向かう。
「今夜はお招きありがとう。侯爵と夫人がお元気そうで何よりだわ」
マレーナは細やかな笑みを浮かべ挨拶した。
「お越しいただき光栄でございます。是非楽しんで行ってください」
「ええ。あまりいられないけど楽しませてもらうわ」
「まあ!マレーナ王女殿下にお越しいただくなんて、サロンでご婦人方から嫉妬されてしまいますわ」
マレーナはだからほとんど出席しないのよ、などと思いながら夫婦の挨拶を聞いていた。そこへふわふわとした髪が前を横切り夫婦の横に立つ人物がいた。イルマだ。
「コンラード様!やっぱりお越しくださったんですね!嬉しいです!」
目の前にマレーナがいると言うのに挨拶もしないとは。マレーナはちらりと侯爵を見た。その目が泳いでいる。娘を注意もできないのかと思うとこの家の先が知れると思った。
「イルマ嬢。今夜はマレーナ王女殿下の護衛として僕は出席しているのです。マレーナ王女殿下がこちらの舞踏会に出席することになったと聞いたので是非エスコートと護衛をさせて欲しいと陛下に申し出たのです」
コンラードの言葉にイルマが涙を拭う仕草をした。涙など一滴も出ていないが。
「コンラード様は大変ですのね。いつも王族の為に色々お考えになられて。マレーナ王女殿下のエスコートは護衛も兼ねるなら近衛騎士に任せればよろしかったのに。そうすれば仕事ではなく楽しく舞踏会に出席できましたでしょ?お可哀想だわ。ご自分の時間を削って仕事をしなければならないなんて」
「イルマ!申し訳ございません。真っ直ぐな性格なものでして」
自国の王女に向かってこんなことを言えるだなんてと、マレーナだけではなく聞いている周囲も驚いているようだ。慌てて侯爵が割って入ったが、何の意味もない。真っ直ぐな性格なら不敬なことを言っても良いという理由にはならない。それに真っ直ぐな性格とは思えない。思っているままのことを時と場所を選ばず口に出すのが、不敬であると思わないのはもはや真っ直ぐではなく無知だ。
「誤解しないでもらいたい。僕はマレーナ王女殿下のエスコートをしたいから来ただけで、マレーナ王女殿下が出席されないなら、申し訳ないが僕は今日来なかった。
それに仕事だと思っていない。マレーナ王女殿下のエスコートができるなら他の家の舞踏会でも出席した。それが事実だ。それからイルマ嬢はマレーナ王女殿下への挨拶がまだのようだが、僕たちはハーバラ侯爵夫妻に挨拶をしたからこのままこの場を去るよ」
そう言ってコンラードがマレーナを促しハーバラ侯爵一家に背を向けようとした。
「お待ちください!娘が大変ご無礼を致しました。マレーナ王女殿下、お許しください」
侯爵が必死になって謝罪してきた。マレーナだってこんなことで揉めたくはないし注目も浴びたくない。
「気にしていないわ。まだまだ跡継ぎとしての勉強が必要そうだけど私と同い年で若いもの。時間はたくさんあるわ。私もまだまだ学ぶことがあるから彼女もこれから学べば良いだけよ」
マレーナとしてはこれくらいの忠告で終わりたい。そんな考えで言ったことなのだがイルマがプクリと頬を膨らませている。とても19歳のすることとは思えない。
「マレーナ王女殿下は私が不勉強だとおっしゃりたいのかしら?」
その言葉に周囲がざわついた。インデスタ―王国の王家は信頼が厚く国民に好かれている。そんな王家の王女に反論したのだ。恐れ多いにもほどがある。視線が増えてきたことにマレーナは辟易しながら相手をするしかないと覚悟を決めた。
「そうね。私は人は一生学ぶものだと思っているの。だからあなたも私もまだまだ学ぶことがあると言ったつもりだったのだけど、どうやら私が思っている以上に学ぶ必要があるようね」
「私は次期侯爵夫人としてちゃんと勉強しています。王女殿下だからといって私を軽んじらないで欲しいわ」
つくづく疲れる相手だ。
「軽んじているつもりはないの。あなたの一言で侯爵家が傾くこともあると気付いた方が良いと言っているだけよ。周りの反応は見えているかしら?もし理解できないのだとしたら、あなたの代になったらハーバラ侯爵家は独立宣言をした方が良いわ。もちろんインデスタ―王国がそれを認めることはないけれど」
マレーナとイルマの視線が絡んだ。イルマはプクリと頬を膨らませたままだ。
「申し訳ございません。マレーナ王女殿下。娘には言い聞かせますので」
侯爵がイルマをのマレーナの視線から外すように後ろに隠す。
「良いのよ。学び方はそれぞれだわ」
「マレーナ王女殿下、あちらに行きましょう」
コンラードの再度の促しでマレーナはその場を後にした。そしてコンラードが耳元で囁いてきた。
「マレーナ、気分転換をしよう」
そう言ってコンラードはマレーナの前に立つと跪いて手を差し出して来た。
「マレーナ王女殿下、一曲踊ってくださいませんか?」
マレーナは大袈裟な誘い方のコンラードに笑うとその手を取った。
「ええ、喜んで」
二人がダンスホールの中央に進むと人が割れる。自然と中央に立つとお辞儀をしてから手を取り合った。
そして楽団がワルツを奏でだし、マレーナはコンラードにリードされてステップを踏む。二人が軽やかに踊るのに周囲が踊るのを止め、まるで観劇するかのように周りに輪ができていく。それくらい二人のダンスは完璧で美しく、見る者を魅了した。楽団はそれに合わせて曲を終わらせずに別の曲に繋いで演奏し始めたので、二人はそのまま踊り続けた。そして時々囁き合う。
「こんなに人に見られて踊るのは初めてかも」
「僕もだ。みんなマレーナの美しさに見惚れているんだな」
「ふふ。どうかしら?コンラードを見ているのかも。それにお父様とお兄様としか踊ったことがなかったけど、きっとコンラードだからこんな風に踊れるのよ」
「そうか?それなら光栄だな」
「そうよ。こんなに楽しく踊ったのは初めてだわ。ダンスって楽しいのね」
そんな風に会話しながら曲は進み、楽しい時間は終わりを迎えた。二人が手を離しお辞儀をすると周囲から拍手が沸き起こり、鳴り止まない拍手を止めるためにマレーナは軽く手を振ると壁際へと移動した。
「はあ。もう帰っても良いと思う?」
マレーナがコンラードに聞く。
「はは。さすがにまだだな。少し飲み物を飲んだ方が良い。食べ物にも飲み物にも手を付けなかったら、王家はハーバラ侯爵家に不安要素があると思っていると言われるぞ。一杯飲んだら護衛に合図しよう」
「仕方ないわね」
マレーナがそう言うと、コンラードが近くを通りかかった給仕から果実水を取り渡してくれた。
「美味しい。踊って喉が渇いてたのね。コンラードは何を飲んでいるの?」
「僕も果実水だ。完璧なエスコートをしたいからな」
そう言ってコンラードが笑ったと思った瞬間だった。
「来るぞ。気を付けろ」
「え?」
マレーナが問いかけた時、聞きたくない声が聞こえた。
「マレーナ王女。今宵も美しい」
そう言ってきたのはアロイス王子だ。コンラードと一緒にいることが楽し過ぎて、マレーナはすっかり存在を忘れていた。この王子の為にここに来ることになったというのに。
「アロイス王子、楽しい視察をされてらっしゃいますか?」
仕事と割り切ってマレーナは笑みを浮かべてそう聞いた。
「ええ。食べ物も美味しいし、美人も多い。中でもマレーナ王女が一番だ。マレーナ王女は月明かりに照らされた一輪の白い薔薇のように美しい」
大量の砂糖菓子を口に含んだような気持ち悪さを感じたが何とか笑みを保つ。
「我が国をお褒めいただき光栄ですわ。視察を楽しんでくださいませ」
マレーナは早く会話が終われと念じたがアロイスが立ち去る気配はない。
「折角の機会だ。一曲私と踊ってくれないか?」
「ええ。私で良ければ」
マレーナは何とか堪えてそう答えた。正直あの楽しい時間の後にこの王子と踊るのは嫌だったが、他国の王子からダンスに誘われ断るわけにはいかない。直ぐに了承の返事ができた自分を褒めたいとさえマレーナは思った。
心配そうにコンラードが見て来るのに目で大丈夫と伝えるとアロイス王子の出された手を取りホールへと進んだ。ちらちら視線が来るのが煩わしい。まだマレーナがこの国に残り婿を迎えることを知らない出席者たちは、もしここで関係が生まれてマレーナがクレメンタール王国に行くこともあるのではと考えることだろう。ちらりと視界の隅に映ったイルマが嬉しそうにこちらを見てくるのもそれを期待していそうと思ってしまう。
そして実際に踊り出してみればそつなく熟してはいるが、コンラード程踊りやすくもなければもちろん楽しくもない。苦行の時間でしかないと思いながら薄く笑みを浮かべ踊り続けていると、アロイスが話しかけてきた。
「下水道事業というのを初日に視察しただろ?マレーナ王女が帰った後に担当者に話を聞いたよ。興味が湧いてね、汚水の処理施設が建つと聞いた場所の周辺住民の聞き取りを臣下にさせたんだ。とても素晴らしい事業だ。しかもその事業を輸出するんだって?」
「ええ。いずれは」
「マレーナ王女が主導していると聞いたが、技術の輸出ではなく事業全体を輸出するのであれば、マレーナ王女はこの国から出て私の妃になった方が良い」
「そのお話はお断りしたはずです」
マレーナは不快感を飲み込みながら答えた。
「まあ、そういうなよ。私の話を聞けば考えは変わるさ。クレメンタール王国は大陸の東方にあるのは知っているだろ?大陸の西側にある島国のインデスタ―王国と東側にあるクレメンタール王国の両方に事業の拠点をおけば、東と西からインデスタ―王国の事業が輸出できると思わないか?
そんな事業所の拠点をクレメンタール王国に作って、マレーナ王女が主導すればいいのさ。もちろん、少しはクレメンタール王国に還元して欲しいが、ほとんどをインデスタ―王国のものにして構わない。
少しずつ西側から売り込んでいくより、両方から売り込んでいく方が早く結果が出ると思わないか?マレーナ王女の携わっている事業は一年やそこらで終わるものじゃない。長い期間の事業になるだろ?だからその方がインデスタ―王国の国庫も早く潤うし、他国の国民も衛生面で安全になるのが早くなる。いい案だと思わないか?」
マレーナは強張りそうになる顔を何とか動かし笑顔を浮かべた。
「そのようなことを言われましても、私はこの国を出るつもりはありません。我が国の民の為に尽くすと決めているのです」
マレーナは小さな声で答えた。近くの誰かに聞かれたくない。今、この場で誰かに他国に嫁ぐと思われ噂されるのが怖い。国の為に他国に行けと言われてしまう。
長年覚悟していたことを、嫁がなくて良い、気持ちを抑えなくて良いと言われた後に、再度嫁げとなるのは流石に堪える。
「賢い君は本当はわかっているはずだ。私の提案が正しいとね。自分が生きている間に事業を各国で達成する為にはそうするのが一番だ。何が大切か。判断できるだろ?」
マレーナは目を伏せ、早く曲が終われと念じた。そして、数分であるはずなのに数時間にも感じた時間が終わり、向き合ってお辞儀をすると周囲から拍手が起こった。何とか笑みを浮かべ周囲に応える。
そこへ小走りでイルマが駆け寄りマレーナの手を握った。
「素晴らしかったですわ!お二人は息もピッタリでとても初めて一緒に踊ったとは思えません!きっと運命なのですわ!お二人は結ばれる運命なのです!それくらい素晴らしかったです!」
「そうかい?嬉しいことを言ってくれるね」
アロイスが演技かのように言う。
「ええ、とっても!アロイス王子殿下はマレーナ王女殿下に求婚されているのですよね?お似合いですわ!」
マレーナはイルマの手をそっと離すとハーバラ侯爵の方を見た。王族にこんな気安く触れてくるなど言語道断だ。親しい間柄でもないのに。ハーバラ侯爵は真っ青な顔をしている。
しかしそれより周りがマレーナの結婚についてざわめき始めた。嫌な展開になったと思っても遅い。自分で切り抜けるしかない。
「イルマさん。王家はそのお話をお断りしたのです。このような場で軽々しく発言すべきことではありません」
「そんな!勿体ないですわ!マレーナ王女殿下は学生時代からも優秀な方でしたもの。他国の王妃になられるなんて当然のことですわ」
当然のこと。その言葉がマレーナの心を搔きむしる。
「そのような発言はアロイス王子にも失礼です。控えなさい」
「イルマ嬢は素晴らしい提案をされるね。私が王太子になりいずれ国王になるのだから、その側で王妃として立つのはマレーナ王女が相応しいと思うだろう?」
「ええ!とても友好的なお話ですわ!マレーナ王女殿下は優秀ですからどこに行ってもご活躍されますよ。間違いなしです!」
私の何を知ってこんなことを口にするのだろうか。何故こんな売り込みみたいに言われなけれなならない?
「イルマさん。私の話を聞いていましたか?言葉を控えなさい」
「そんなあ!素敵なご縁じゃないですかあ。こうやってわざわざ会いに来られての求婚ですよ?素晴らしいですわ!これは愛です!真実の愛ですわ!」
この声を聞くだけで苛立ちが増す。
「ご婚約のご予定はあるのですか?」
恐る恐る近くにいた貴族の青年が聞いてきた。見た顔だ。マレーナは動かない頭を必死に動かし思いだした。コンラードとレストランに行った時にイルマと一緒にいた青年だ。イルマに言わされているのだろう。態度がぎこちない。
「いいえ。先程も言いましたが、このお話は父からお断りさせていただいております。婚約の予定はありません」
「そんなあ。もったいないですよ!マレーナ王女殿下の手腕を発揮できるのは王妃の職責しかありませんよ!」
まだイルマが言って来る。
「そう思うだろう?だから今はまだ婚約のし直しをしているところだ。私の気持ちを分かってくれたらきっとマレーナ王女も私を選んでくれるさ」
「そうなんですね!マレーナ王女殿下の手首に付いているブレスレットの石がエメラルドになる日も近いのかしら?」
やめろ。これはコンラードがくれた大切な物だ。エメラルドなどつけるつもはない。しかし、もはや周囲はこのやりとりしか聞いていない。自国の王女がどこに嫁ぐことになるのか関心があるのは当たり前だ。しかし、マレーナが断ったと言う言葉をこうやって言われ続けるとどこかで尾ひれがついて噂になってしまう。
国家間の婚姻の噂が立てば新聞にも載るだろう。
マレーナはここに来たことを後悔した。これはきっとアロイス王子とイルマで仕組まれていたのだ。その証拠に先程の青年がイルマをチラチラと見ながらこちらを見て来る。指示を待っているのだろう。
「マレーナ王女殿下。そろそろお時間です」
そこへコンラードが割って入ってくれた。
「コンラード様!素敵なお二人だと思いませんか?」
イルマが目をキラキラさせて聞いている。
「イルマ嬢。マレーナ王女殿下がおっしゃった通りインデスタ―王国側はこの話は断った。インデスタ―王国の国民であるなら、王家の判断に任せれば良い。口を出す権利は君にはないんだよ。ここにいる皆さんも、それを理解してください」
そう言うと周囲が黙り込んだ。公爵家であり、王太子の側近のコンラードが言うのだからマレーナの話に真実味を持たせたのか、誰もがなかったかのように振舞い始めた。
「マレーナ王女殿下、参りましょう」
「今日は楽しかったですわ。ごきげんよう」
マレーナはそれだけ言うとコンラードと一緒にハーバラ侯爵家を後にした。
馬車の中、アロイスの話が頭に浮かんでは消えるを繰り返す。あの場にコンラードがいなければ直ぐにあの場を去れなかった。そんな自分が情けない。
自分は強いと思っていた。どんな時も戦ってきたし守っても来た。マレーナのやり方で。それが今回は上手く行かない。心が落ち着かず船酔いを感じた時の様だ。
「マレーナ。あの男に何か言われたのか?」
コンラードの言葉にマレーナは顔を上げた。自然と俯いていたようだ。
「マレーナ。顔色が悪い。直ぐに助けに行けなくて悪かった。護衛に馬車の準備を頼んでいた。離れて悪かった」
コンラードが頭を下げる。
「そんな。コンラードが悪いことなんて何もないわ。私があの二人に上手く反論できなかっただけ」
「でも、何か言われたんだろ?踊っている途中から様子がおかしかった。だから馬車の手配をさせに行ったんだ。戻って来たら婚約の話になっていて驚いたよ」
「もちろんちゃんと断ったわ」
「ああ。聞こえていた。フレデリクに伝えておこう。あの王子にはさっさと帰ってもらおう」
そう言って頭を二度撫でてくれた。
「コンラード・・・」
安心してコンラードを見上げる。
「そんな顔をするな。大丈夫だ。マレーナは自分が正しいと思ったことをすれば良い。マレーナが笑っていることを陛下もフレデリクも、僕もテオも願っている。不安に思うことなんて何もない」
マレーナはコンラードに抱きつきたくなる衝動を堪えるのに精一杯だった。
こんな優しい人はいない。こんな愛しい人はいない。こんなにマレーナの心を占めている人はいない。マレーナは涙が零れそうだった。
「うん」
そう答える頃には馬車は城門をくぐっていた。