俺の勇気は、チキンライス
なかなか苦労しました。
俺の勇気は、チキンライス
作 あんたのわたし
(いよいよ俺の臨終の時が近くなってきたぞ)
そして、マツモトヒトシは、自分の前に、女神様が姿を現した。そんな気がした。
(しかし、もう死も間近に迫ってきたこの時期に、女神様はなぜ自分の前に姿を現したというのだろう?)
しかし、このところ毎夜見ているあの夢は相当にリアルであるのだが、ひょっとたら、あれはなにかしら現実で、実際に起こった誰かの事件に基づいて、しかし、自分はこれから天国に旅立とうとしている人間なのに、ハッキリとしていて生き生きとした世界を感じられるのが不思議な気がした。
(やはり、夢だった)
病室には、家族がいた。
マツモトヒトシは、子供たちや愛妻の気配で目を覚ましたのかもしれない。
マツモトヒトシは、違和感というものを感じた。つまりというか、同時に、子供たちや愛妻から自分に向けられている殺気を感じ取った。
だからマツモトヒトシは、子供たちや愛妻に気づかれぬようにあたりをうかがった。
ベッドのマツモトヒトシの周りを取り囲むようにいる子供たちや愛妻の眼はたしかにすわっていた。マツモトヒトシの方を怒りを持って見据えていた。
看護師が彼や、彼の子供たち、愛妻のいる病室に入ってきた。
看護師は、彼の手を取った。彼の脈を診ようとしたのだ。
看護師は、表情が変わった。
「あら、いけない。先生に知らせなければ……」
「どうしたの?」
病室から出ようとした看護師を愛妻が止めた。看護師と愛妻は、もうひそひそ声で何かを隠そうなどとはしなかった。
愛妻と看護師のやりとりを聴いていると、マツモトヒトシは、間もなく自分が死んでいくのだということが分かった。
愛妻は、臨終の床に横たわる自分の旦那の方に身体を寄せるように、旦那の顔を見つめて、一度旦那の頬に彼女の手のひらを持ってくると確実に狙いを定め、至近距離ながら最大限に力を込めて、旦那の頬を引っ叩いた。
愛妻の一撃からは、死につつある旦那への憐れみというものは一欠片もなかった。やり切れない憤怒が込められた一撃であった。
「あんた、死のうとしているのに、あんた本当に懲りない人だね…… あんた、今、死にかけているのに、なんでこんなにつまらない夢を見ているのよ」
マツモトヒトシは、愛妻の指摘にドキリとした。どうして、愛妻は、自分の見ている夢の内容がわかるのか。それがまず一点であった。
(確かに、俺の見ていた夢は本当に下らない。俺の見ていた夢は、死に瀕した人間が見ていそうな夢ではなかった。俺の夢には死者が死に向き合うときの懺悔の気持ちの一欠片もない。俺の見ていた夢は、死者としてはありえない、ただただお下劣な夢であった)
「きっと、あんたの持っていた変な病気が私にも感染ってしまったんだよ。最初から分かっていたんだけど、アンタは、心底クズな人間なんだね。アンタは、最初から、ちょっとしたことでも大切な自分のチャンスは見逃し、大事な人は見殺しにしてしまうそんな病気の人間で、アンタは、自分の判断や『勇気』というものを病気のせいでなくしてしまったんだよ。その病気が、ついに、私にまで感染ってしまい、私まで、あんたと同じ夢を見てしまう、そんなことになってしまったんだよ」
(そうか、お前も一緒に見ていたのか。俺に、いくらかの勇気があれば、俺の人生は全く違っていたかもしれない)
マツモトヒトシは、思った。
(しかし、もう手遅れだ! 俺は、『勇気』を持って、人生を生きていたら、こんな変な夢に悩まされて臨終の時を迎えることはなかったのかもしれないな)
マツモトヒトシは、死の床で同じ夢をくり返し、くり返し見ていた。
マツモトヒトシは、この夢を見るたびごとに、自分の身体から体力が奪われていくのを感じた。
(世界は、終わっている。少なくとも俺の世界は!
(マツモトヒトシがいるのは、夢の世界。多分そうだろ
(夢は正直、だから、それが分かる。
(夢で手に入れた少しの勇気、使われることのない、いびつな『勇気』)
などの言葉を、マツモトヒトシは、この夢を見るたびに自分につぶやいていた。
◯頭に残るめくるめく妄想、それは夢?
◯だから、無秩序。
◯それは不思議な夢! でも、誰が見た夢? マツモトヒトシの夢?
◯幻滅、絶望のマツモトヒトシの生きてきた世界は、この夢よりはずっとマシだった!
◯マツモトヒトシはどこにいるのか。夢の文脈は、前後が不明!
◯気がつけば、マツモトヒトシは、レトロな町並みの通りにいた。
◯オールドスタイルのタバコ屋
◯オールドファッション、手売りのタバコ屋、看板娘の名残あり
◯ブンシュンの壁に立ちションする!そう覚悟を決めたマツモトヒトシ
◯通りがかりと思われるジョシ。
◯結局、ジョシは、マツモトヒトシの立ちションするのをそのそばで目撃してしまう。
◯マツモトヒトシが立ちションすると決めた現場なのだが、その通りは表通り!通りには、多くの通行人がいた。マツモトヒトシの立ちションする気配を感じ、立ち止まったのはそのジョシ、彼女、唯一人だった。
◯それまで、ジョシは、マツモトヒトシのすぐ後ろを歩いていた。マツモトヒトシの十歩ほどくらい後ろだった。マツモトヒトシは、すごく足が速かった。だからジョシは、遅れまいと速足で歩いた。
◯マツモトヒトシは、ブンシュンに到着すると、鋭い眼差しであたりを見渡した。ブンシュンの通りの向こうには、昔ながらのタバコ屋があって、そのタバコ屋は、自動販売機ではなく、看板娘の婆さんがタバコを現金と引換に売っていたよ。
◯マツモトヒトシと婆さんは、マツモトヒトシがブンシュンの前で立ち止まった時、最初に目があった。タバコ屋の看板娘の婆さんは、ガラスの引き窓を開け、マツモトヒトシに会釈したが、マツモトヒトシは、婆さんのことを無視したな。無慈悲なマツモトヒトシだな。
◯マツモトヒトシは、更にあたりを見渡した。マツモトヒトシの後ろには、十歩ほど遅れてついてきていたジョシがいた。マツモトヒトシは、このジョシのことにようやく気がついた。ジョシは、急に立ち止まって、眼と眼があった。
◯マツモトヒトシに、自分も立ち止まり息を切らしながら会釈したジョシ。マツモトヒトシはこのタバコ屋の看板娘に続いてこのジョシも無視したよ。
◯それというのもマツモトヒトシは、男らしく心を決めたから。そして、マツモトヒトシは、ついに行為を開始したのさ。
◯マツモトヒトシは、ズボンのチャックを降ろした。マツモトヒトシは、片手に紙の束を持っていたので、もう一方の手でチャックを降ろしたのさ。
◯マツモトヒトシは、ズボンの奥、パンツの奥からモノを引っ張り出した。マツモトヒトシは、モノを両手で支えた。マツモトヒトシの片手には、結構な量の紙の束が握られていたので、モノを支えるその姿にはぎこちなさがあったともいえる。
◯マツモトヒトシが少し腰をふると、モノから液体がほとばしり出始めた。液体は、ブンシュンの壁を濡らした。ホットしたのか、マツモトヒトシの肩から少し力が抜けたようにも見えた。マツモトヒトシは、何気なく自分の後方を振り返ったのかな。
◯マツモトヒトシの後方には、少し前マツモトヒトシに会釈したジョシがその場に留まっていたのさ。通りには、日中なのでそれなりの人がいたが、その中で、歩みを止めていたのは、マツモトヒトシとそのジョシだけだった。それは、ある意味ありふれた都会の無関心。都会の優しさなのかもしれない。
◯マツモトヒトシは、少し振り向き確認したよ。ジョシの視線が自分のモノに向かっているのではないかと感じたのさ。片手に持った紙の束で、ジョシの視線から自分のモノを隠そうとした。
◯残念なことに、不必要に露出したコック
◯紙の束脅迫に使われたブンシュン側の原稿の写しは、マツモトヒトシのモノから吹き出す液体の行く手を遮ることになり、紙の束によって跳ね返された液体は、マツモトヒトシのズボンを濡らした。
◯マツモトヒトシは、この不始末、粗相の原因は、明らかに自分の後を付け回してきたジョシにあると感じた。
◯マツモトヒトシは、怒りを覚えた。マツモトヒトシは、液体がかかって濡れてしまった紙の束を振り上げて、ジョシに向かって怒鳴りつけてやろうとした。ジョシは、事態の深刻さを悟り、おびえてしまっているように。
◯ブンシュンから、事件を察知した警備会社の人が現れたよ。マツモトヒトシは、思った。
◯しかし、それはマツモトヒトシの勘違い。警備の人間は、蛮行に及ぶマツモトヒトシを止めるわけではなかった。警備の人間は、マツモトヒトシの存在に気づいていないかのように、都会の上空に広がる青空を見上げると、ブンシュンのビルの中に帰っていった。
◯マツモトヒトシは、自分の勇気というものに物足りなさを感じていた。その物足りないという気持ちが、今回の夢に反映されたのであろうさ。
* *
そんなときに、そんな気持ちで、マツモトヒトシが、ふと我に返った瞬間、マツモトヒトシは、最初の道筋に引き戻されて、同じ夢がマツモトヒトシの頭の中で繰り返されることになった。
同じ夢は、終わることなく、マツモトヒトシの眠りの中で、何度も何度もリピートされていった。そして、結局、マツモトヒトシは神に召された。
マツモトヒトシは死んだ。そして、そこから本当の問題が、人類にとって非常に深刻な問題が明らかになってしまったのである。
マツモトヒトシの夢は、マツモトヒトシのまわりの人間に感染っていき、それは、伝染病ように、世界に広がっていった。
多くの人間が同じ夢を見るという病が、世界に広まりつつあった。
マツモトヒトシの見た夢と同じ夢が、夢は、マツモトヒトシとは、関係もない人に伝染り、今世界中に広まりつつある。
あのマツモトヒトシの夢、あの非条理なあの夢と全く同じ夢を見る人間が日々増加しているらしい。
増加とはいっても、百人単位で絶対数はまだ少ないのであるが、同じ夢を見る人の増える率というのは増大しているので、これがこのままマツモトヒトシの夢と同じ夢を見る人が増え続けて行くのであれば、我々の社会生活に大きな支障が生じてしまうかもしれない。
だって、マツモトヒトシの夢のせいで、本来は個々の人が見ている夢が見れなくなってしまっている現状が存在するのである。実質、何十億という人間がマツモトヒトシという他人の自分とは縁もゆかりも無い人間の夢を、しかも毎回、毎晩、同じ夢を観ることになったら、本来人間に与えられた夢の効用というのは奪われてしまうに違いない。そんなとき、人間の心は毎日、毎晩、マツモトヒトシの変な夢を見続けるという状況に耐えられるであろうか?
ということで、日本政府もこのような事態を重く見て、さらに日本中に広がる夢がもたらす最悪の事態に備えて、いくつかの対策を練ることとなった。
まずは、彼の人となりを知るために、国のとある機関にマツモトヒトシの親族、仕事関係の仲間、マツモトヒトシがよく出入りする飲食店の人間、もちろん、マツモトヒトシの友人たちなどが集められた。そして、マツモトヒトシについての聞き取り調査が行われた。
そして、調査によって集められた情報は、心理学者、宗教家、哲学者に提供され分析されることとなった。
しかし、このマツモトヒトシを巡っての調査は不毛なものであった。つまり、問題の解決へのヒントさえもこの調査によって得られることはなかった。
調査の結果、分かったことは、判明した事実は、調査に関わった関係者を、世界のマツモトヒトシの夢に頭を乗っ取られかけている人たちを当惑させ始めている。
つまり、マツモトヒトシに関して、調査の開始にあたって得られると見込まれていた、想定されていた事実とは、真反対の事実しか得ることができなかったのだ。
つまり、マツモトヒトシは、狂ってもいなければ、なにかの心の病に取り憑かれているというわけでもなく、生前のマツモトヒトシは、普通に健全な心の持ち主であったらしい。
マツモトヒトシは、美食を避け、チキンライスをもっぱら食し、お菓子ももっぱら駄菓子しか、口にしなかったという。
本当は、気骨のあるサムライだったのよ。だから、そんな人があの人が立派な行いをしてないということは、絶対にない。
これもマツモトヒトシをよく知る人達の証言ではあるのだか、やはり何かの力が働いていたのはマツモトヒトシに働いていたのは明白なようであった。
は、極限の状態ではなにかの力に操られているかのように、キュッとした表情が浮かんできた。その表情から彼に対してなにかのブレーキが働いているのが見て取れた。
「私達が、勇気を出してあの人のために何かをしてあげるべきだったのかもしれない」
調査の対象となったマツモトヒトシの関係者は納得がいかなかった。
大事な調査ではあり、マツモトヒトシを巡るすべての関係者の証言は、慎重に検討されるべきであったが、マツモトヒトシの関係者は、調査に対して、なにか上滑りで物足りなさを感じた。
「この事態に踏み込む『勇気』が必要だったかもしれない。わたしたちも含めて、鈍感だった。そういう鈍感さを超えた『勇気』がわたしたちは、」
しかし、実際には、そういうふうにはならなかった。
わたしたちには、そういう勇気はなかったということ。
マツモトヒトシのあの奇妙な夢は、世界の凡ての人間の中で、くり返し見られることになるのは確定的であった。
マツモトヒトシの夢は増殖していき。世界中の人の頭の中の隅々まで、マツモトヒトシの見た夢が独占するようになっていった。
世界の人々はマツモトヒトシと同じ夢のせいで体力を失い、力尽き、しんでいった。
世界が滅び、ジョシが、マツモトヒトシの夢の中に現れたそのままの姿で、街を見下ろす高台に現れた。
ジョシの姿を見ると、滅びつつある世界の死につつある人々は、ジヨンが誰であるかすぐに理解した。彼らが毎晩見ている夢の最重要の一人であるからだ。
ジョシは高台に登った。
ジョシは高台の公園から、鈍感で、無関心さが溢れる終末の世界を眺めた。ジョシはそこにみちみちてある終末の空気を深呼吸して、身体に取り入れ、味わった。
人類の終末の空気は、ジョシにとってみれば、そこには、やはり『勇気』要素が枯渇しているように感じられた。
終わり
よろしくお願いします