5分で読めるSS 「鯨」
三つのキーワードから生まれるショートショート。
キーワード
「クジラ」「約束」「仕掛け時計」
※別名義Twitterに掲載したものの改稿版になります。
「陸に上がったクジラはね、自分の命が干上がってしまうことを、きっと知っていたんだよ」
それは、忘れもしない、あの夏の終わり。
裏山の廃墟は、僕たちの秘密基地だった。
爺さんの代までは小さな集落があったという稜線沿いの広場は、今はもう、蔦と朽ちた小屋が立ち並ぶばかりだ。
人々の営みの死骸。
僕とあいつは、いつもそこに忍び込んでいた。
田舎町の夏休みは長く、照りつける陽光に焼かれぬように、身を隠す宿が必要だったのだ。
ふたりきりしかいない世界。古びた絡繰時計が、役割を終えたあとも律儀に時を刻む音だけが、蝉の声に混じって、僕らの中に飽和していた。
「どうして、生きられないとわかっているのに、わざわざ陸に上がるんだよ」
僕は窓枠に凭れるようにして腰掛けたあいつに、そう問いかけた。
或いは、答えが知りたいわけではなく、斜に構えた横顔が、気に入らなかっただけなのかもしれない。
けれど、そんな僕の鬱屈を、あいつは気にも留めていないようだった。
「うん、クジラはね、星に憧れていたんだ。きっと、水平線と空とが繋がることを知らなかったんだよ。海から見る丘は、さぞかし星に近く見えたことだろう」
近いけど、遠く。
遠いけど、近い。
だとすれば、その体を動かしたのが、そんな感情であるとするのなら。
「クジラは、憧れに殺されたのか」
「そうとも言えるけど、本当のことはわからない。誰もがみんな、なりたいものになろうとするし、生きたい場所で生きようとする」
けれど、それが本当に幸いなことかは、わからない。
誰にでも息ができる場所があって、そこを離れれば、容易く詰まって絶えてしまう。
「……なら、お前は、本当にこれでよかったのか?」
僕は耐えきれずに、聞いてしまう。心拍を急かすような秒針の音が、やけに耳障りだった。
あいつは、しばらく外に視線をやった。
夕日が沈む。
地球が周り、あらゆるものに限りがあると知らせるために、降りてきた陽は、地平の境を焼き尽くす。
その断末魔は音もなく、静かに今日は落命する。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。熱に負けて、心に黒い焦げが浮いた。けれど、僕にはその意味がわからない。
いつだってそうだ。理由は後付けで、終わったあとじゃないとわからない。
「納得ができなかったら、赦してもらえるの?」
あいつは、軽やかに窓枠から飛び降りた。床板が小さく悲鳴を上げて、巻き起こした風が、僅かに埃を舞い上げた。
「私たちの秒針は、止まらないんだよ。変わってしまう、忘れてしまう、老いてしまう――」
――死んでしまう。
時計の針が一周するように。
生誕のカードを裏返したところに、死神は笑っている。
「私はさ、どうせそうなら、クジラになりたかったんだ。海の底で長く生きるより、自分の生きたい場所で、僅かな時間でも歌っていたかったの」
絡繰時計が、時間を告げた。
逢瀬はいつだって、たった一握ほどの時間しか与えられなかった。逢魔の、わざとらしい西日が、僕たちの一瞬を重ねてくれていたのだ。
だから、ここまで。
最後の時間は、ここまで。
「もう、お前には会えないんだ」僕は意を決して言った。
「遠くの街へ行くことになってさ、今日はさよならを言いに来たんだよ」
そう、と。
あいつは思ったよりも、ずっと淡白だった。
僕は上を向いて、一粒たりとも落とすまいと努力しているというのに、なんだか不公平な気もした。
「よかった。それじゃあ、君はクジラになれたんだね」
「……僕は、陸で渇き死ぬ、って?」
「違うよ」あいつはカラカラと笑った。「だって、クジラにだって肺はあるんだから」
目一杯に胸を膨らませ。
目一杯に酸素で満たして。
足はなくても、歩いていける。
「だからさ、私はさよならは言いたくないんだ。君と私とは、また会えるって知ってるから」
「僕が乾涸びてしまったら?」
「私も乾涸びる。ここにいない誰かと話すために、この体は重すぎるから」
「馬鹿だな」僕は笑った。
「馬鹿だよね」あいつも笑った。
真意はわからないままだった。
僕たちしかいない世界。壇上に上がる僕たちが奏でる音だけが、観客不在の劇場の中で旋回し続けている。
台本のない舞台。だから、次の台詞が何なのかも僕は知らないままで。
「ねえ、そうしたらさ、一つだけ約束してよ」
あいつは、唐突にそう切り出した。僕は反射的に相槌を打つ。受け止める覚悟もないまま、あいつは口を開いた。
「もし、君の夢が干上がってしまったら。目を剥いて、息絶えてしまったら、その時はまた、私に会いに来てほしいんだ」
「……どこでなら、お前に会えるんだよ」
「ここに決まってるでしょ。私と君との数式は、ここでしか重ならないんだよ」
唯一の交点。
それはひどく数学的だった。
この世のほとんどのものは数字で表せて、僕もこいつも、とことん還元していけば数列にできるのだろうが、それにしても、ひどく不条理な話のように思えた。
「わかった、約束だ――」僕は観念したように、口にする。
「僕の心臓が止まる前に、もう一度だけ、会いに来るよ」
「ん」と、あいつは短く返事をして、ピンと立てた右手の小指を突き出してきた。
僕は逡巡の後、そこに自分の指を絡める。僅かに行き来した体温が、骨の底にいつまでも残っていた。
ああ、だから僕は、忘れらなかったのだろう。
次に僕がそこを訪れたのは、もうすっかりと世界がくたばりきった、けれどあの頃と変わらぬ匂いの逢魔時だった。
二人で過ごした廃墟は、半分ほどが倒壊していた。風雨が、柱や壁を老いさせたのだろう。
風通しの良くなった僕らの秘密基地には、もう一切の秘匿を許さぬ居心地の悪さがあった。
僕は適当な廃材に当たりをつけ、そこに腰掛ける。経年の風化が、記憶を白骨化させていっているような、そんな寂寞の思いが目の奥を突いた。
当然、あいつはいなかった。
会えるとも、思っていなかった。
今となっては、その声も姿も、朧気にしか思い出せない。
夢を追うために切り捨てたものはあまりに大きくて、僕はもう、大切な血液が流れていくのを止めることすらできないのだ。
「……残酷だ」僕はあいつを偲ぶように口にした。「これなら忘れていたかった。脳みそごと穿り出して、空っぽになりたかった」
なのに、そうはできなかった。
小指に今も絡みついた熱が、何度でも、僕の肺を膨らませた。
僕は、肺呼吸だから。
そうすれば生かすことができると、あいつは知っていたのだ。
――けれど、それも永久ではない。
この世に終わりのないものはない。
僕は所詮、陸に上がったクジラなのだと、星に届かぬまま、カラカラに罅割れていくのだと――。
――かちり。
そんな悲観に、小さな音が亀裂を入れた。
壁にかかった、小さな絡繰時計。あれから長い時を経たというのに、今も止まることなく、秒針は刻み続けていた。
あと、三秒。心臓の表面が突っ張って痛くなるほどの、期待感だった。
二秒。確信、あるいは、それ以前のもの。僕は吸い寄せられるように、文字盤に視線を向ける。
一秒。何千倍にも引き伸ばされた時間の中で、流れる汗が奇妙に肌を撫でる感覚。そして。
勿体つけるように、鐘が鳴った。
同時に、文字盤がゆっくりと開いていく。中から現れた、歯車仕掛けの人形は、一枚の紙片を手にしていた。
それを確かに受け取った僕は――そこに書いてあった一文に目を通す。そして、思わず溢れる笑みを、抑えきれない。
そうか、あいつはここにいたのだ。
ここにいて、ずっと待っていてくれたのだ。
憧れが夢だとするのなら、それは醒めぬままでいい。知ってしまえば現実は、脳漿の中ほど優しくないのだから。
もう、僕を縛り付けていた小指の熱は霧散していた。
だから、どこにでも行ける。この重い体を脱ぎ捨てて、約束を果たしに行ける。
あいつに、会いに行こう。
伝えられなかった言葉を、伝えに行こう。
僕は梁に繋いだ縄に、手をかけた。