表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

5分で読めるSS 「鯨」

作者: 文海マヤ

三つのキーワードから生まれるショートショート。


キーワード


「クジラ」「約束」「仕掛け時計」




※別名義Twitterに掲載したものの改稿版になります。

「陸に上がったクジラはね、自分の命が干上がってしまうことを、きっと知っていたんだよ」


 それは、忘れもしない、あの夏の終わり。

 裏山の廃墟は、僕たちの秘密基地だった。


 爺さんの代までは小さな集落があったという稜線(りょうせん)沿いの広場は、今はもう、(つた)と朽ちた小屋が立ち並ぶばかりだ。


 人々の営みの死骸(しがい)


 僕とあいつは、いつもそこに忍び込んでいた。

 田舎町の夏休みは長く、照りつける陽光に焼かれぬように、身を隠す宿が必要だったのだ。


 ふたりきりしかいない世界。古びた絡繰(からくり)時計が、役割を終えたあとも律儀(りちぎ)に時を刻む音だけが、蝉の声に混じって、僕らの中に飽和(ほうわ)していた。


「どうして、生きられないとわかっているのに、わざわざ陸に上がるんだよ」


 僕は窓枠に(もた)れるようにして腰掛けたあいつに、そう問いかけた。

 或いは、答えが知りたいわけではなく、(はす)に構えた横顔が、気に入らなかっただけなのかもしれない。


 けれど、そんな僕の鬱屈を、あいつは気にも留めていないようだった。


「うん、クジラはね、星に憧れていたんだ。きっと、水平線と空とが繋がることを知らなかったんだよ。海から見る丘は、さぞかし星に近く見えたことだろう」


 近いけど、遠く。

 遠いけど、近い。


 だとすれば、その体を動かしたのが、そんな感情であるとするのなら。


「クジラは、憧れに殺されたのか」


「そうとも言えるけど、本当のことはわからない。誰もがみんな、なりたいものになろうとするし、生きたい場所で生きようとする」


 けれど、それが本当に幸いなことかは、わからない。


 誰にでも息ができる場所があって、そこを離れれば、容易(たやす)く詰まって絶えてしまう。


「……なら、お前は、本当にこれでよかったのか?」


 僕は耐えきれずに、聞いてしまう。心拍を急かすような秒針の音が、やけに耳障りだった。


 あいつは、しばらく外に視線をやった。


 夕日が沈む。


 地球が周り、あらゆるものに限りがあると知らせるために、降りてきた陽は、地平の境を焼き尽くす。


 その断末魔は音もなく、静かに今日は落命する。


 ぽつ、ぽつ、ぽつ。熱に負けて、心に黒い焦げが浮いた。けれど、僕にはその意味がわからない。


 いつだってそうだ。理由は後付けで、終わったあとじゃないとわからない。


「納得ができなかったら、(ゆる)してもらえるの?」


 あいつは、軽やかに窓枠から飛び降りた。床板が小さく悲鳴を上げて、巻き起こした風が、僅かに(ほこり)を舞い上げた。


「私たちの秒針は、止まらないんだよ。変わってしまう、忘れてしまう、老いてしまう――」


 ――死んでしまう。


 時計の針が一周するように。

 生誕のカードを裏返したところに、死神は笑っている。


「私はさ、どうせそうなら、クジラになりたかったんだ。海の底で長く生きるより、自分の生きたい場所で、僅かな時間でも歌っていたかったの」


 絡繰時計が、時間を告げた。


 逢瀬(おうせ)はいつだって、たった一握(ひとあく)ほどの時間しか与えられなかった。逢魔(おうま)の、わざとらしい西日が、僕たちの一瞬を重ねてくれていたのだ。


 だから、ここまで。

 最後の時間は、ここまで。


「もう、お前には会えないんだ」僕は意を決して言った。

「遠くの街へ行くことになってさ、今日はさよならを言いに来たんだよ」


 そう、と。


 あいつは思ったよりも、ずっと淡白だった。

 僕は上を向いて、一粒たりとも落とすまいと努力しているというのに、なんだか不公平な気もした。


「よかった。それじゃあ、君はクジラになれたんだね」


「……僕は、陸で(かわ)き死ぬ、って?」 


「違うよ」あいつはカラカラと笑った。「だって、クジラにだって肺はあるんだから」


 目一杯に胸を膨らませ。

 目一杯に酸素で満たして。

 足はなくても、歩いていける。


「だからさ、私はさよならは言いたくないんだ。君と私とは、また会えるって知ってるから」


「僕が乾涸(ひから)びてしまったら?」


「私も乾涸びる。ここにいない誰かと話すために、この体は重すぎるから」


「馬鹿だな」僕は笑った。


「馬鹿だよね」あいつも笑った。


 真意はわからないままだった。


 僕たちしかいない世界。壇上(だんじょう)に上がる僕たちが奏でる音だけが、観客不在の劇場の中で旋回(せんかい)し続けている。


 台本のない舞台。だから、次の台詞が何なのかも僕は知らないままで。


「ねえ、そうしたらさ、一つだけ約束してよ」


 あいつは、唐突にそう切り出した。僕は反射的に相槌(あいづち)を打つ。受け止める覚悟もないまま、あいつは口を開いた。


「もし、君の夢が干上がってしまったら。目を剥いて、息絶えてしまったら、その時はまた、私に会いに来てほしいんだ」


「……どこでなら、お前に会えるんだよ」


「ここに決まってるでしょ。私と君との数式は、ここでしか重ならないんだよ」


 唯一の交点。


 それはひどく数学的だった。

 この世のほとんどのものは数字で表せて、僕もこいつも、とことん還元していけば数列にできるのだろうが、それにしても、ひどく不条理な話のように思えた。


「わかった、約束だ――」僕は観念したように、口にする。

「僕の心臓が止まる前に、もう一度だけ、会いに来るよ」


「ん」と、あいつは短く返事をして、ピンと立てた右手の小指を突き出してきた。


 僕は逡巡(しゅんじゅん)の後、そこに自分の指を絡める。僅かに行き来した体温が、骨の底にいつまでも残っていた。




 ああ、だから僕は、忘れらなかったのだろう。



 

 次に僕がそこを訪れたのは、もうすっかりと世界がくたばりきった、けれどあの頃と変わらぬ匂いの逢魔時(おうまがとき)だった。


 二人で過ごした廃墟は、半分ほどが倒壊していた。風雨が、柱や壁を老いさせたのだろう。

 風通しの良くなった僕らの秘密基地には、もう一切の秘匿(ひとく)を許さぬ居心地の悪さがあった。


 僕は適当な廃材に当たりをつけ、そこに腰掛ける。経年の風化が、記憶を白骨化させていっているような、そんな寂寞(せきばく)の思いが目の奥を突いた。


 当然、あいつはいなかった。

 会えるとも、思っていなかった。


 今となっては、その声も姿も、朧気にしか思い出せない。

 夢を追うために切り捨てたものはあまりに大きくて、僕はもう、大切な血液が流れていくのを止めることすらできないのだ。


「……残酷だ」僕はあいつを(しの)ぶように口にした。「これなら忘れていたかった。脳みそごと穿(ほじ)り出して、空っぽになりたかった」


 なのに、そうはできなかった。


 小指に今も絡みついた熱が、何度でも、僕の肺を膨らませた。


 僕は、肺呼吸だから。


 そうすれば生かすことができると、あいつは知っていたのだ。


 ――けれど、それも永久ではない。

 この世に終わりのないものはない。


 僕は所詮、陸に上がったクジラなのだと、星に届かぬまま、カラカラに罅割(ひびわ)れていくのだと――。



 ――かちり。



 そんな悲観に、小さな音が亀裂(きれつ)を入れた。


 壁にかかった、小さな絡繰時計。あれから長い時を経たというのに、今も止まることなく、秒針は刻み続けていた。


 あと、三秒。心臓の表面が突っ張って痛くなるほどの、期待感だった。


 二秒。確信、あるいは、それ以前のもの。僕は吸い寄せられるように、文字盤に視線を向ける。


 一秒。何千倍にも引き伸ばされた時間の中で、流れる汗が奇妙に肌を撫でる感覚。そして。



 勿体(もったい)つけるように、鐘が鳴った。



 同時に、文字盤がゆっくりと開いていく。中から現れた、歯車仕掛けの人形は、一枚の紙片を手にしていた。


 それを確かに受け取った僕は――そこに書いてあった一文に目を通す。そして、思わず溢れる笑みを、抑えきれない。


 そうか、あいつはここにいたのだ。

 ここにいて、ずっと待っていてくれたのだ。


 憧れが夢だとするのなら、それは()めぬままでいい。知ってしまえば現実は、脳漿(のうしょう)の中ほど優しくないのだから。


 もう、僕を縛り付けていた小指の熱は霧散していた。


 だから、どこにでも行ける。この重い体を脱ぎ捨てて、約束を果たしに行ける。


 あいつに、会いに行こう。


 伝えられなかった言葉を、伝えに行こう。

 

 僕は(はり)に繋いだ縄に、手をかけた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ