九条任子
九条兼実の政治的な立場は危ういものとなっていた。
その兼実が権勢保持のため、望みを託したのが、中宮、任子の出産であった。
ー もし、皇子ご誕生となれば、后妃の中で最も身分高き中宮が産んだ男子。その男子が立太子して次代の天皇となることが確約されるは必然。
理屈の上からもこれを阻止するは困難。
建久六年(1195)八月十二日。中宮、任子は女児を出産する。昇子内親王である。
同年十二月、土御門通親の養女、在子が、男子、為仁親王を出産する。
のちの土御門天皇である。
任子が、皇子を産まなかったこと、さらには在子が皇子を産んだことにより、兼実の権勢保持は困難になった。
兼実は、朝廷内で浮き上がった存在となっていたし、翌建久七年には十七歳となる、自らが積極的に政治に関与することを望むようになっていた後鳥羽天皇との対立も広がっていた。
建久七年(1196)十一月二十五日、九条兼実は、関白の地位を追われた。
その二日前、任子もまた内裏を退去させられた。
父が失脚したとしても、後鳥羽天皇が望めば、任子は内裏にとどまれたであろう。
後鳥羽は、それを望まなかった。
関白の座を追われた九条兼実は、館で、十六歳の時から続けている日記「玉葉」を手に取った。
ー さて、何を書くかな。
ー 権力か。私はそれを失ったのだな。
憤りはあった。しかし、やはりこうなったか、とも思う。
ー 私はこれからも生きていく。私はこれからの日々、どんなことを思うことになるのだろう。
ー 私は心に浮かぶあれやこれやを、そして、これからも動いていくであろう、この世のあれやこれやをただ書いていこう。
兼実の傍らには、やはり内裏を追われた任子がいた。
任子の産んだ昇子内親王は、故後白河法皇の異母妹で、生涯未婚だった八条院の養女となった。
八条院は、このとき六十歳である。
任子は、内親王の母であることも許されなかったのである。