夢と人生について
たちばな はると(17)
はじめて酩酊するかのような不安を持って、上品とはいえないネオンの紫が光る看板を見た。
そして、手を握り、覚悟を決めて、ほの暗い地下へと
橘陽斗(17)は足を進めた。
青春のスニーカーは打ちっぱなしのアスファルトにお似合いだが、その布には安いクラブのような、いやらしい紫の明かりが浮いている。
一段一段、階段を降りる度に、ゴクリと陽斗の唾を飲む音がハッキリと聞こえた。
―――こんな所に陽斗が来た理由
地下をおりる1時間程前
誰もいなくなった教室で、担任と陽斗は座ってお互いに窓を見ていた。
「ねぇ、先生。文系、理系を決めんのってそんなに大切なの?」
「『10代のうちにやりたいこと』ってないといけないの? 」
「そんなことはないさ、もちろん」
「(嘘つき)」
こうやってどの生徒にも、進路相談をしていること位分からないほど、陽斗は子どもではない。
でもたしかに、17歳という年齢に相応しく、不満を心に隠せるほど、大人でもなかった。
内容はごくありきたりな進路相談であった。
2年を前に文系か理系かを決める進路希望表、それを陽斗は白紙で出していた。
陽斗には、やりたいことがあった。ただ、それだけで生きていける程の自信もなかったのだった。
第一志望は歌うこと。
願わくば、好きな歌だけを歌って生きていくこと。
――吉野 陽斗は ネットの中で歌って、アーティスト活動をしている「HAruTo」いわゆる、歌い手であった。
俺が成長すると共に、ネットも一緒にグンと成長した。小学校の時には当たり前にあったCDショップも、中学生になる頃には、自転車屋に変わっていた。
でも、音楽はずっと好きだったから、高校生になっても好きなアーティストはCD借りて、音楽端末に入れたりして。
その頃、動画サイトが流行りだして、ボーカロイドが流行ってて、最初はキャラクターばかりが先行していて。
どちらかというとオタクのジャンルっていう感じだったから、俺はボカロの曲を人が歌ってるのに分かりやすく
―――ハマった。
もう全盛期って頃じゃなかったけど、僕も動画で歌いはじめて。学校の合唱とかは「だせぇ」って友達と笑いあってきちんと歌わなかったのに、家では真面目に、ボカロの歌の楽譜があればいいのにとか思うぐらい、音程とか意識して歌い込んで。
その頃、声変わりも来て、「僕」というより「俺」って感じの声になりたかったけど、そこまで低くはならずに、俺の声は落ち着いた。
分かりやすく、別の人の歌い方を真似していた頃は、たくさん「○○さんの真似キモイよ」という僕からしても気持ち悪いコメントしか流れなかったのに、声が低くなって、自分の歌い方を、試行錯誤していくうちに、どんどんイケボというコメントが、ちらほらつくようになった。
その頃から、徐々に再生回数も伸びて、僕は分かりやすく歌うことに熱中した。
今では歌の動画を上げれば、何万と再生回数がつくようになった。
でも、それだけじゃ足りない…。
って分かってる。
再生回数を稼げるだけじゃ、意味ないこと位、自分でも分かってる…。ただ、歌うだけで生きていけるほどこの世界は甘くはないことを知っている。
歌い手だけを集めたライブにもよく行っていた。
けれど今でも第一線で活躍している人だって、いつかは聞かれなくなる。
その盛り上がりと、盛り下がりを間近で陽斗は見てきたのだった。
野球部の声だけが響く夕日を眺めていると、教師は言った。
「なぁ、吉野、試しに俺の進路を決めたヤツに会ってみないか?」
そんなわけで、陽斗は地下の紫にきらめくネオンの扉の前にいた。
扉には―YUMEKA―と書かれている。
ふん、夢か…どうせ、そいつが良いやつで、人を導く事に憧れたーとかそんな感じだろ。
俺にもそんな方向に行って欲しいのかね、あの教師は。
そんなことを考えながら、意外と軽く扉が開く。
扉というより、ドアが開いた瞬間、ピュアを売りにしてそうな女優さんのような香りがした。
ん?多分
いや、女の子の部屋の香りだろうか。
なんだろ、洗剤とかそこら辺のフローラル?な香り。
紫の照明と花の香り、たくさんのビーカーや丸フラスコに蒸留装置。一種の研究室のような…しかし、周りにはキラキラと光るフェンスのような物まである。
いわゆる、女子からすると映える場所…なのだろう。
そういう、アトラクション…?
「なんだここ?」
映える場所しかない…むしろ、見るところしかない場所の、その奥から声がした。
「いらっしゃイ」
挨拶を返した店の主は、片方の髪を剃りあげて、もう片方は紫の髪を目を隠すように、垂らしている。
目の色は緑で…首に木の枝みたいなバキバキしたタトゥーしてる…
骨格からしっかりとした男であることは肩から、分かる。がしかし、突拍子もない格好に陽斗は驚いて、言葉を発せないでいると
「いらっしゃいませ。ようこそ僕の城へ。橘 陽斗クン」
花とフローラルな香りに一番似合わない店主らしき人物が話しかけてきた。
そこかしこに生けてある花は、ビーカーや丸フラスコ、試験管に無造作に飾られており、どことなく実験室の雰囲気があるが、紫の間接照明と花の香りが、どうもちぐはぐだ。
「あ、あの…進路の先生から、紹介されて…」
「うん、聞いてるよ。良かったら座っテ」
「って…えと、どこに座ればいいですかね?」
「あー…そうだな。丸いイスがどこかにあるはずだよ?どこかに」
目を凝らしてイスを探すが、どう見てもないので、低めのローテブルに腰をかける。
「あの、進路の先生にここに来いって言われて…」
「知ってるヨ」
にこやかに微笑みながら、花をビーカーに生ける
その姿がカッコイイなと思った
花の匂いに慣れたと思ったら、今度はどこからか、プーんという羽音が聞こえだした。
「なんか、虫がいるみたいですね。ここ。」
「気づいた?」
「そうだ、陽斗くん、人を一番、殺してるのって何だか知ってるかい」
「 蚊なんだよ。」
そういうと、、まるで自分がなにかに表彰されたかのように喜んで口角をあげ、微笑んだ。
「じゃあ二問目。人を精神的に殺してるのはなんだと思う?」
「現実…とか?ですかね」
「ふふっ、いい所つくねぇ。確かにそれも正解かも。」
どこから出てきたのか分からない1匹の蚊は、店主の指を這い、行ったり来たりを繰り返し、血を吸い始める。
「でもね僕が考えるのは『 夢 』」
―――夢ですか…。
「現実もある意味、夢を見てしまうからこそ、そのギャップに辛くなってしまうわけでしょう?」
まぁ確かに。
いまいち納得してない様子で陽斗は目を逸らした。逸らした先には薄く、淡く光る蚊帳の外を飛び回る無数の蚊がいる。
「あ…の蚊ってそんなに、何匹も吸われても痒くなったりしないんですか?」
陽斗は、当たり前のことを聞いた。
「実はね、僕の蚊はね、吸うところをじっと見つめていると痒くないんだよ。」
「…そうなんですか…??」
こんな大量の蚊のいる中で、生活出来るやつの言うことは、信用ならんとばかりに陽斗は、顔を歪めながら答えた。
「僕はさ思ったんだ。これはキスマークだって」
何一つ信用出来ないような店主の顔が、にやりとどこか嬉しそうに笑ったのだった。
そして店主の男は、ゆっくりと恋人との惚気話をするように自分の過去を語りだした。
『僕は、こんななりだけど、東京生まれじゃないし、どちらかというと、和歌山の山深い所で育ってね。
だから実は、童貞を捨てたのも東京に出てきてからなんだ。
…どうでもいいんだけど。
彼女が出来たこともあったんだけど、し終わった後に窓開けて、タバコ吸ってたらさ、その女の人に
「キスマークもつけてくれないの?」
って言われちゃって。
僕、キスマークの存在なんて全然知らなかったんだよね。それを話したら女の人が、僕に
「してあげる」って付けてくれたんだけど、何でこんなマーク付けられて嬉しいのか、全く分からなくてさ。
ある日、別の女の子に聞いたんだよね。
さすがにその場でこれなんの意味があるのって聞く勇気なくて。『キスマークって付けられたいもの?』って、そしたらその子の回答が驚いたことにさ
体育の時に「彼氏につけられちゃった」って言うのが女の子の中で流行ってるって。
その言葉があまりに驚きすぎたから、別の女の人にも、聞いてみたんだけどさ、
独占欲や、支配欲を感じられるし、確かに他の人へのマウンティングにもなるかもねって言われて。
その時、気づいちゃったんだよね。
あぁ、僕には今まで女の人に対して支配したいとか独占したいとかも思わなかったんだって。
そこまでの欲もなかったし、
愛もきっとなかったんだよね。
でもある時さ、真夏の蒸し暑くて、寝れなくて、とりあえずお酒飲んだら寝られるかと思った日があってさ、
家で飲んでたら、部屋に蚊が入ってきてさ、首元にとまって、叩くのも面倒くさかったから、そのまま鏡越しで見てたんだけど、
そしたらその子の必死に血を吸ってるところが、初めてキスマークを付けてくれた女の人と被って見えてきてさ、それが、その時と違って、すごく愛おしいの。
一生懸命皮膚に伸ばしてる細長い脚とか、ずっとひくひくしているお腹とか見続けちゃって。
だんだん黒と白のしましまのお腹が赤い俺の血で膨れてくるの。
でも、血を吸い終わったら、すぐどっか行っちゃって。無性に寂しくて。少し経ったら、その子が吸ってくれたところが赤く腫れてきて、少し痒くて
僕、あぁ一生じゃないけど、期間限定で肌に残って、これこそがキスマークじゃないのかなって考えちゃって。
もうそれから一日中、蚊達のことばっかり考えてる。』
「夢ってさ、よく、体のいい妄想とか言われるけど、僕はとても『真面目な嘘』だと思うんだよね。
夢には本当の夢が隠れている。君は自分らしく歌いたいって思っているけど、その夢の隠れた夢はなんだろう。
この子達がヒントをくれるかも」
「この子達?」
なんの事だと思って、口に出した途端に、目の前がクラクラして
―――僕は意識を失った