君に恋した瞬間が忘れられない。
君に恋した瞬間が忘れられない。
それはある暑い暑い夏の夕方。
夕焼けよりも目を奪われた。
君以外は見えなくなった。
波音さえも音を失った。
その瞬間に恋をした。
一目惚れであった。
海風に流れる髪。
髪を抑える手。
小さな横顔。
細い体躯。
白い肌。
眼鏡。
唇。
一目惚れは脳の錯覚……ただ性的に興奮しただけというけれど、その瞬間は僕にはそれが信じられなかった。
「あ、あの……!」
上擦った声で、彼女に声をかけた。
以前に告白されて付き合った恋は、そう長くは続かなかった。
僕はただただ永遠が欲しかった。
「なぁに? ぼく……」
彼女は目をまん丸くしてこちらを覗き込む。
「ぼくじゃないです!」
違う、そうじゃない。
思わず反射的に答えていた。
たしかに僕は小学校でも背は小さかった。
前習えは、腰に手を当てたことしかない。
このままではまずいと思い、僕は必死に言い訳をした。
「背はすぐ伸びますから!」
だから違うそうじゃない。
一般に男子の二次成長期は11歳から18歳の間だ。
二次成長は、子供がモテる大人に化ける可能性を残している。
かく言うぼくも、元カノに身長を抜かされたことで失恋した去年の夏から、嫌いな牛乳をいつも残さずに飲んでいた。
当人としては思わず必死に答えたものの、彼女は口元を押さえて微笑んだ。
「ふふ、ごめんね。すごく目を丸くしてたから、かわいくて」
反対に彼女の背は高かった。
この近くの高校、セーラー服という制服に身を包んだ彼女は、ただただ美しかった。
絵になるとは、きっと彼女のことだ。
一方、男にとって『容姿が可愛い』はある種の侮辱だ。
男子たるもの強く賢く在らねばならない。
進歩を重ねてきた現代において、人類最強の武器はお金であることを僕は母から産まれてくるよりも前から知っていた。
でも今はそれが武器になるなら、それでも良かった。
「好きです。一目惚れです。キープでも良いから付き合ってください!」
一言目から言い終わりに掛けて、初めの大事なことは小さく、後半にかけて大きな声で、たっぷり抑揚を付けて叫んだ。
これを支離滅裂と言うなら笑ってくれ。
僕の敬愛するダイ〇さんは、ファーストインプレッションのおよそ1分53秒以内で相手に強烈な印象を与え、さらに笑顔にすることの大切さを教えてくれた。
彼女の驚く顔が変化していくのを僕の視力2.0(先生はこれ以上測ってくれない)の目が克明に捉えた。
それをアスリートがZONEに入るかのように、彼女以外の周りの景色をピンボケさせて、スローモーションで魅せていた。
「ふふっ……キープって。ふっ、ふふふ……」
僕は見事に笑顔を勝ち取る。
思わずガッツポーズをして、彼女の周りを飛び回り、再び「好き!」と言いそうになるのを必死で堪えた。
僕はただただ、やんわりとした笑顔を向けて、ただただ彼女の続く言葉を待った。
「いいよ。キープしてあげる。でも付き合ったらキープじゃないよね?」
やったぜ。
そうお腹の底から叫びそうになるのを必死で堪えた。
心の底から疼くような、期待を理性でねじ伏せ、極めて紳士的な言葉で先を繋いだ。
「はい! それでもいいです! 連絡先の交換と、たまに手を繋いでデートしてくれたら満足です!」
彼女は目線を逸らして人差し指を立てると、その指を唇に当てて考える。
視線を右に向ける仕草は嘘を吐こうとしている証拠。
そして、唇に指を当てる仕草は欲求不満の証拠であると、僕と違いパリピで浮気性で実によくモテる人間としてクズな部類の父の――その蔵書である心理学の本には書いてあった。
「うーん、付き合う前から、手を繋ぐのは無しかなぁ」
「はい! それでもいいです!」
僕は元気よく、夕暮れの見える喫茶店を指差した。
「まずはそこのお洒落なカフェで、一杯だけデートしてください! 僕が奢りますから!」
貯めに貯めた僕のお年玉が火を吹くぜ。
お尻のポケットに入った財布を撫でた。
「ふふ……いいよ。一杯だけね」
夕陽を見て、「風が気持ちいいから、テラス席がいいな」と言う彼女に、僕は「分かります」と同意してからハンカチを渡した。
「ありがとう」
そう言う彼女の左手を、僕は手首を引いて歩き始めた。
後ろを振り向かずに歩き続ける。
ハンカチを使う彼女の顔は見なかった。
「夕陽が綺麗ですね」
そう言って、彼女に僕が好きな事を伝えた。
僕はつい先程、彼女が左手の薬指にはめていた指輪を海に向かって投げ捨てるのを見ていた。
その姿に魅せられた。
その横顔に、眼鏡の奥で細めた目から、宝石のしずくを溢れせたくはなかった。
一般に恋の思い出は、
男性は別のフォルダ保存
女性は上書き保存
と言われている。
ならば僕が上書きしてみせよう。
僕はもう、決して彼女を泣かせたりはしない。
十五年後の今日、同じ場所で僕に指輪をはめられた君は、あの日よりも美しい笑顔で涙をこぼした。
僕は今日、この日、この時、この瞬間を――
「――君を愛したことを忘れないよ」