【終末ワイン】 フェイクワイン (29,000字)
需要もないままにシリーズ12作目です。
寿命。人の命の長さ。それを人は知る事が無い。知る事が出来ない。知らないからこそ、明日を未来を信じ、生きていく。自分が明日、死ぬという事がわかっていたら? 死ぬ事が決まっていたとしたら、人はどういう行動を取るだろうか。
6月30日 厚生労働省終末管理局
月末の今日、1カ月毎に実行される『終末通知』の葉書を作成するプログラムが起動した。今月は、9001通の通知葉書が作成された。作成された終末通知葉書は、管理局職員により機械的に郵送の手続きが粛々と行われた。
◇
厚生労働省に於いてシステムエンジニアとして働いていた男性がいた。その男性は『終末通知』に関連するシステムの保守も担当していた。
その男性には悪意は無かった。事の重大さの認識が乏しかっただけだった。
単なる悪戯、冗談のつもりで、とある人物に『終末通知』が届くようプログラムを改ざんしてしまった。その人物のマイナンバーをプログラムに直接記載するという分かりやすい改ざんを行った。
その人物のマイナンバーを知ったのは偶然であった。
プログラムのテストは、本番運用されているデータベースをテスト環境に丸ごとコピーし、そのデータを利用して行う。コピーする際、データの中には名前を含む個人情報が多数入っている事から、名前は勿論、住所、生年月日、電話番号等を不特定の文字に置換するというマスキングを施す。この措置により見た目には個人の特定は出来なくなる。本番運用されているアプリケーションを使用して個人情報を閲覧しようとすれば閲覧ログが残るし、そもそも男性には閲覧権限もない。本番データを直接見ようとするには申請も必要になるが、申請する理由が見つからない。そもそも誰か特定の人物の情報を見ようと言う意識も無かった。
単なる直感だった。テストを行っている時に偶然気付いた。マスキングが施され傍目には分からないその名前と住所の文字列を見て何かを感じた。そしてそのデータの人物が中学生時代の同級生だとピンと来た。瞬間、すっかり忘れていた中学生時代を思い出すと共に、その名前の人物が自分をいじめていた人物である事を思いだした。
悪意という気持ちでは無かった。昔、自分をいじめていた人物に対する「自分が命を握っている」とでも言う様な、小さな優越感のつもりだった。
改ざんしたプログラムは、テスト日程の関係で2週間後にも再度改修する予定だった。それまでの2週間、その人物の運命を自分が握るという小さな優越感を満たすつもりで改ざんした。プログラムを改修した際、男性以外の複数の人間によるテストが実施されたが、改修したロジックを直接目視にて確認する訳では無かった為に見逃された。
2週間後、予定通りに男性が改ざんしたプログラムの再改修作業を行った。テストも無事に行われた。そして無事に本番環境へ反映された。そして月末、改修された『終末通知』の作成プログラムが無事に起動した。
翌朝、男性は厚生労働省に出勤する為、駅のホームで電車を待つ人々の列に並んでいた。何をするでもなく、何を考えるでもなく、列に並ぶ人々の頭越しに、ホームから見える青空を見上げながら電車が来るのを待っていた。
何か切っ掛けがあったわけでもない。ただ、ハッと思い出した。とある人物に対する「悪戯のプログラムロジック」を外すのを忘れていた事を。
昨日、終末通知を発行するプログラムが起動した。現時点、すでに『終末通知』が発行され、郵送されているはずである。男性はようやく事の重大さに気づいたが、時既に遅かった。
男性は発作的にホームに列を成す人々を掻き分け、衝動的に、突発的に、ホームに滑り込んできた電車に勢いよく飛び込んだ。電車を待っていたホームに並ぶ多数の人達は、目の前で起こった突然の惨状に阿鼻叫喚した。
当然、遺書の様な物も無く、突然、男性はこの世から消え去った。
男性が自殺した事に対して遺族は「過労ではないのか、職場内でのいじめの様な物があったのではないか」と厚生労働省に怒鳴り込んで来た為、内部調査が行われたが、実務においては残業も少なく、職場環境にも問題が無いと結論付けた。
男性がプログラムを改ざんした事は誰も気づかなかった。改ざんをするとは露程にも思ってもいなかった。改ざんした事で、本来、通知対象で無い人間に『終末通知』が発行されたなど誰も知らない。プログラムが改ざんされていた事が発覚するのは数年後だった。
◇
東野いずるは高校時代に流血を伴う傷害事件を起こし、その場で現行犯逮捕された後に傷害事件として立件された。その後の裁判の際、東野の弁護を請け負った弁護士が有能だったのか否かはともかく「傷害罪」ではなく「過失傷害罪」に留まり、東野は罰金刑のみで即時釈放された。
元々暴力的な性格で、いままでも警察に捕まらないのが不思議だったと周囲からは思われていた。過失扱いになったとはいえ、一度は逮捕されるといった事件を起こした訳ではあるが、それを反省する事は無く、その後も暴力的な性格は治らなかった。
逮捕された事を切っ掛けに高校を中退し、24歳の現在、パチンコで生計を立てている。生計を立てるとは言っても実家で母親と2人暮しであり、主な生活費は母親に頼っており、裕福とは言えないその生活を、母親は必死の思いでパートとして働きながら支えていた。その様な環境に於いて、東野は成人してからも事件と呼べるような事象を起こしてはいたが、うまく立ち回り、事件になる事はなかった。
短髪に恰幅の言い体躯。上下黒のジャージに金色のネックレスにブレスレット。薄めの色のサングラスと言った様相の東野に、恐らく殆どの人は好意を持って近寄らないであろうその姿で、毎日の様にパチスロに通っては小銭を稼いでいる。あくまでも小銭であり、稼いだそのお金はパチスロ代に酒や煙草にと消えていく。友人や知人に万単位の借金もしている。なかなか返さない事もあって、借してくれる物は既におらず、あからさまに避けられてもいる。そもそも東野を友人と思っている人間はほぼ居ない。そんな状況もあり、最近になって返すあてもないままに消費者金融にまでお金を借りる至っていた。
働くのが面倒臭い。汗水流して必死の思いでつまらない仕事に励み、それの対価として少ない金を貰って生きながらえるなんて馬鹿らしい。朝早く起きて満員電車に押し込むように乗り込み仕事場に行くという生活をしている人間が馬鹿みたいに見える。将来なんてどうでもいい。
いっそのこと強盗行脚でもして稼ぎながら暮らすかなと、東野は本気で考える。そんな日々を送っていた。そんな東野に『終末通知』が届いた。最初にその葉書に気づいたのは東野と暮らす母親であった。
母親は安堵した。
もうすぐ息子がこの世から居なくなる。自分を「ババア」と呼ぶ息子がいなくなる。自分を殴る息子がいなくなる。これでようやく自分の人生に平和が訪れる。
家庭内暴力は日常だった。
警察にも言えない。その後の報復の方が怖い。仮に逮捕されたとして、刑務所に行く事になったとしても数年で出所してくる。その際の報復の方が怖い。警察は逮捕する事は出来ても助けてくれる訳で無い。
近所の人にも暴言は日常茶飯事で「息子さんを何とかしてくれ」と何度頼まれた事か。今はなんとか暴言と迷惑行為といった程度で済んではいるが、いつ流血を伴う事件に発展するかと気が気でない。
そんな日々に、今はじっと耐えるしかないと思いながら生きてきた。息子を殺そうと思った事もあった。だが失敗した後の方が怖い。自殺を考えた事もあったが出来なかった。だがそんな日々も終わる。我慢してきた甲斐があった。
そんな「自分の息子が死ぬ事を喜んでいる」と、そんな風に思っている事が周囲にばれたら、人は自分の事を『鬼』と呼ぶのだろうか。だが、この境遇は言葉で伝わる物では無い。話し合えば良いと言われた事もある。その多くが「警察に相談しろ」だった。それが何になるのか。相談した事もあるが執行猶予つきの暴行罪がいいところだろうと言われた。自分で立ち向かう事が出来る人など稀であろう。ほとんどの人は泣き寝入りをしているに違いない。私だけが特別では無い。
だが本当に良かった。息子はもうじき、この世から居なくなるのだ。
母親は終末通知の葉書を手に、心底安堵し笑みを浮かべた。
平日の正午。東野は金が尽きたという理由でパチンコを終えると、見た目にもボロく、消音器に穴が開いている為に煩いエンジン音を常時奏でるスクーターで帰宅した。相当な築年数を経た木造平屋建てのその家に母親は居なかったが、東野は「パートの仕事にでも出かけているのだろう」と思って何ら不審に思わなかった。
東野は「小腹が減ったな」と独り言を口にするとキッチンの冷蔵庫へと向かった。そのキッチンに置いてあるテーブルに1枚の紙が置いてあるのが目に留まり、東野は母親が書いたメモかと思い無造作に手に取った。
東野が手に取った紙は葉書だった。宛先には自分の名前『東野いずる様』と書いてあり、その左横には目を引く赤字で『終末通知』と記載されていた。
東野はすぐに気付いた。その葉書が意味するもの。この葉書は自分宛の「死亡予告」の葉書である事を。
そんな手紙に東野は瞬時に激昂するとキッチンで暴れ始めた。食器棚をひっくり返し、目に着く食器や調理器具を壁に床にと渾身の力を込めて叩きつけた。
母親はこんな風に激昂するであろう息子を見越して、遠くに住む親族の墓参りと称して、東野がパチンコに行っている隙に泊まりがけで外出していた。
息を切らす程に、ひとしきりキッチンで暴れた東野はふと思い出した。自宅から数キロの場所にある「終末ケアセンター」という建物。誰かは覚えていないが、その建物が終末通知に関する某かを行う建物であると聞いた記憶がある。東野はスクーターに跨ると、煩いエンジン音を周囲にまき散らしながら終末ケアセンターへと向かった。
10分程スクーターを走らせ終末ケアセンターへと到着した東野は、スクーターを玄関の真正面に停めた。玄関前は駐車禁止であるが、そんな事はお構いなしにスクーターを停めると、玄関口への数段の階段を駆け足で昇って行った。
そして全面ガラスの玄関口までやってくると、両引き戸の自動ドアがゆっくりと開き始めた。東野は自動ドアがゆっくりと開く事にすらイラつき、ドアをこじ開けるようにして建物の中へと駆けこんだ。
中へ入ったその場所から約10メートルほど離れた正面の上部に「受付」と書かれたブースが東野の目に留まった。横幅約5メートルといった素っ気無いそのブースには、制服と思しき明るいグレーのブラウスに濃いグレーのリボンタイといった装いの2人の女性が座っていた。
2人の女性は玄関口の東野に気付くと、座ったままの姿勢で東野に向かって軽く頭を下げた。東野はそれに応える事無く、肩で風を切るように、周囲を威圧するかのように、2人の女性が座る受付へと早足で向かった。受付前までやってきた東野に対し、2人の女性は「いらっしゃいませ」等と声をかけるでもなく、ほんの少し口角をあげた表情で以って東野を迎えた。
「おいっ! なんだよこの葉書はよう! なんで俺宛にこんな葉書が届いてんだよ! ふざけんじゃねえぞ! おいっ! 責任者だせ!」
と、東野が受付に座る2人の女性に向かって怒鳴ると「何かありましたか?」とふいに後ろから声を掛けられた。気付くと、東野の後ろには目深に帽子を被った2人の警備員が立っていて、その内の1人が抑揚無く落ち着いた低めの声で東野の背中越しに聞いた。
「な、何かじゃねえよ! 何で俺にこんな葉書が届いてんだよ!」
見るからに屈強そうな警備員2人の姿に一瞬気圧されたが、東野は怯むこと無く警備員に向かって怒鳴った。
「何でも何も、あなたに終末通知が届いたという事は、そう言う事ですよね?」
冷めた目で東野を見つめる警備員のそんな言葉に、更に東野が言い返そうとした時、東野は背後から声を掛けられた。
「こんにちは。終末通知の件でいらっしゃった方と言う事でよろしいですか?」
東野が声が聞こえた方に振り返ると、そこには銀縁眼鏡をかけ、ネクタイまでキッチリ締めたスーツ姿の、見るからに公務員という感じの1人の男性が立っていた。東野は少しトーンを落として「誰だよ、おまえは」と、その男性に質問した。
「あ、申し遅れました。私はこういう者です」
男性は東野に向かって一礼した後、スーツの内側ポケットから一枚の名刺を取りだすと、恭しく名刺を両手で差出した。東野はイラつきながらも差し出された名刺を片手で引き千切るかのようにして受けとった。
「私、ここの終末ケアセンターの職員でカウンセラーをしております『井上正継』と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
「……で、そのイノウエさんが何か用かよ」
「いえいえ、あなた様が終末通知を受け取ってこちらにお越し頂いたのですよね?」
「……まあ、そうだよ。じゃあテメェに言えば良いって事か?」
「何か仰りたい事、話したい事があるという事ですかね? そうですね。私がお聞きします。では、お手数ですが、こちらの方へ来て頂けますか?」
井上はそう言って、部屋に入った正面が広大な庭を望む全面透明ガラス、残り3面の入口扉を含む壁全面が曇りガラスという、秘匿性も遮音性も感じない10畳程の広さの中に、銀色に鈍く輝くステンレスで出来た長方形のテーブルと、そのテーブルを挟んで3つづつの計6つのステンレス製の椅子が置いてあるという質素で簡素な打合せルームへと東野を案内した。部屋に入り所在なさげにしていた東野に向かって「お好きな場所にお座りください」と、井上が声を掛けると、東野は不貞腐れた顔をしながら一番近い椅子にドカッと腰掛け、それを見届けた井上は東野の向かいの椅子へと腰かけた。
「では最初に顔写真付きの身分証明書となる物と、終末通知の葉書をご確認させて頂いて宜しいでしょうか? 万が一にも別人の方と言う事が無いように、確認が必須となっておりますので」
東野は手に握りしめていた終末通知の葉書と、ポケットに入れていた財布を手に取りその中から免許証を取り出すと、井上の方へ向けてテーブルの上に無言で放り投げた。
乱暴に差し出された終末通知の葉書と免許証を前に、井上が「拝見させて頂きます」と一言いって手に取り目視で確認すると、持参していたタブレット端末のカメラで、終末通知の葉書の見開いたページの中に記載されているバーコードを読み取った。
そして「確認致しました。有難う御座います。それではこちらの施設他について説明させて頂きます」と、笑顔でそう言って、終末通知の葉書と免許証を東野に丁寧に返した。
東野の無礼とも言える振る舞いに一切の関心を示さず、井上は柔和な表情のままに持参していたタブレット端末を東野に向けて見せた。井上が見せるタブレット端末に表示されていたのはグラフデータであり、井上はそのタブレットを東野に見えるように傾けながら説明を始めた。
「この終末通知を受け取った方の中で、実に2割近くが悲観して飛び降り等の自殺をしてしまうようです。1割位の方は自暴自棄になり事件を起こすという事例もあるようです。又1割近くの方はこの葉書が届かないか見ていないかのようです。
それ以外の方の多くが、とりあえず終末ケアセンターにお越し頂いて、私達職員とお話させて頂いております。お話をさせて頂いた内訳では、40代位までの方で奥様や小さいお子様がいらっしゃる方は、終末日近くまでご夫婦で過ごし、直近にこちらの施設にきて安楽死を望まれる方が多いですね。ご高齢のご夫婦の方ですと、ご自宅で最期を迎えたいと仰る方が多いですね。
単身者の男性の場合、年齢関係無く、早急に安楽死を選択する方が多いですね。女性の場合ですと、ぎりぎりまで旅行や食事等を経験した後に安楽死をするという傾向でしょうか。それ以外で言えば、経済的に厳しい方は早めに安楽死なさる傾向にありますかね」
東野は不貞腐れた様子ではあったが、とりあえずは黙って井上の滑舌の良い淡々とした説明を聞いていた。
「終末通知を受領されている段階で、クレジットカード等の信用取引は出来なくなっておりますのでご注意ください。今後は現金取引のみとなります。口座引き落としのカードでしたらご利用なれます」
「……別にカードなんて大そうな物なんて持ってねえからどうでもいいよ。で、結局なんなんだよ。結局、俺は死ぬのか? 死ぬしかねえって事か?」
「仰る通り、東野様がお亡くなりになるのは決まっております。因みに、その終末通知の葉書は2つ折りの葉書でして、その中には実際にお亡くなりになる日にちが記載してありますご覧頂けましたでしょうか?」
「……あ? 葉書の中?」
井上にそう言われて、東野がテーブルの上に置かれていた終末通知の葉書を手に取り良く見ると、その葉書の角が摘める様になっている事に初めて気づき、すぐにその角を摘まんで中を開いた。
『あなたの終末は 20XX年 8月12日 です』
東野の目に飛び込んで来たのは大きな文字で記載されたそんな文言で、今日が7月5日なので東野の終末日、東野の命が消える日迄、残り1か月と数日を意味する事が記されていた。
「……この日に俺は死ぬってのか?」
「何もしなければ、その日が東野様のこの世における終末日と言う事です」
「何もしなければ? って事は何かすれば伸びたりするって事か?」
「あ、申し訳ございません。言葉足らずでした。何もしなければ、その日が終末日となりますが、安楽死という選択肢があります。当然、今すぐでもいいですが、終末日を早める事が出来ます。という事です」
「はあ? 安楽死だあ? 早く死ねる事に何の意味があるってんだ? テメエはふざけてんのか? 俺を馬鹿にしてんのか?」
「いえいえ。安楽死を選択するというのは、確実に苦しみなく眠るように最期を迎える事が出来ますよ、という事です。終末通知に書いてある終末日まで生きる事も可能ですが、その際は、苦しみもがくという最後かもしれません。寝ている間に一切苦しみなく亡くなるのかもしれませんが、安楽死を選択する事で確実に、無痛で、お亡くなりになる事ができますよ、という事です。あくまでも東野様が選択する事です」
「苦しいとか、痛えとかが嫌だからって、早く死のうって奴がいるってのかよ?」
「はい、多いですよ。先程もタブレットで説明差し上げたとおり、こちらにいらっしゃる方の大半は安楽死を希望しますよ」
東野は先程の井上に説明をちゃんとは聞いていなかった。聞く気も無かった。
「何で急いで死ななきゃならねえんだ? そいつらアホだろ」
「終末日は決まっておりますが、未練が無くなったらとか、ご家族ご親族が揃った日とか、そういう事で決めている人も多いですし、ご自分でお亡くなりになるタイミングを計れるというのが、こちらで提供する安楽死のメリットでしょうかね」
東野には理解出来なかった。死にたくないと足掻くならまだしも死に急ぐ理由があるのだろうか。何かに追われているならまだしも、ギリギリまで足掻く物だと思っていた。自分は借金を抱える身であり、その借金も返す当てがないという日々を送ってはいるが、死にたいと言う事を考えた事は無い。踏み倒して逃げまくって違法な手段を用いてでも金を得ながら生きていこうという事ばかり考えていた。死ぬと言う選択肢など考えた事も無かった。故に早く死のうなどという人が多いという井上の説明に理解が出来なかった。
「それに『終末通知』以外でも、ご病気による終末ケアという事での安楽死というのも存在しますしね」
「……まあそれは分かった。で、安楽死? そりゃどんな方法なんだよ? 合法的に首でも吊れるってのか?」
「いえいえ、そんな方法じゃありませんよ。一言で言ってしまえば、服毒になります」
井上の返答に東野はギョッした。真顔で毒という言葉を放つ井上に目を見開いた。
「はあ? 服毒? 毒を飲んで死ぬってのか? お前マジで言ってんの?」
「あっ、毒を服用するといっても、マンガみたいなドクロマークのついた瓶の毒を飲んで、苦しみもがいて亡くなるという事ではありませんよ? 苦しかったら安楽死になりませんしね。では、少々お待ち頂けますか?」
井上はそう言って席を立ち、1人部屋を出ていくと建物の奥の方に消えていった。
数分後、片手でも持てそうな程の大きさの木箱を手に、井上が打合せルームへと戻って来た。井上は木箱をテーブルの上に置きつつ椅子に座ると、東野に対して木箱の中が見えるよう傾け「こちらは終末ワインと呼ばれる物です」と言って見せた。
井上が持って来た木箱は高級そうではあるものの、使い古された感じの残る長さ30センチ程の蓋の無い木箱。その箱の中には、中身が入っていない事が傍目で分かる、薄茶色で細長い凝った意匠のある瓶が、青いサテン生地のクッションの上で横になっていた。
それを見せられた東野は「ワイン? それがどうした?」と、不機嫌さを隠さずに井上に訪ねた。
「こちらが安楽死の為の飲料です。終末通知を受け取った方が、自ら終末を迎える為に用意された劇薬です。厳重に管理が必要なため、終末ケアセンターでしか提供が出来ません。承諾書に東野様の自筆による署名を頂いた後、当ケアセンター内、且つ職員立会いの下で服用頂けます。といってもこれ自体はサンプルですけどね。本物は本番に時に提供させて頂きます」
「……それ飲んだら、死ぬのかよ?」
柔和な表情で説明する井上に対し、東野は怪訝そうに聞いた。
「はい、仰るとおりです。安楽死が目的でありますので一切苦しむ事無く、お亡くなりになる事が出来ます。服用直後から強烈な睡魔が襲ってきます。そのまま眠りにおち、徐々に呼吸数が落ち、長くても30分以内に呼吸が完全停止します。こちらを飲まれた方のほとんどが、良いお顔で亡くなっていかれました。ただ解毒剤も無く、即効性がある物ですので、服用後は後戻りは出来ませんけどね」
その後東野は、当然匿名ではあるものの、自分以外の終末通知を受け取った人達の話も井上から聞かされた。というより一方的に井上が話し続けた。
「何か質問等あれば何でも聞いてください」と、ひとしきり話を終えた井上が笑顔で言った。
「……ん? ああ、もういいよ」と、東野は久しぶりに長々と人と話したせいか、真面目な話を長々と聞かされたせいか、少し疲れている様子を見せていた。
「ご納得いきませんか? 他の皆さんは納得した上で、残りの時間を大切に使ってる人が多いですよ」
「はあ? 納得なんて出来る訳ねえだろ。死ぬんだぞ? お前じゃなく、俺が死ぬんだぞ? 納得なんて出来る訳ねえだろが? 他の奴の事なんて知るかよ。他の奴がどういう気持ちなんて知った事か」
「ですね。東野様の仰る通りですね。失礼致しました」
東野は、井上の話を聞いているうちに、全てがどうでも良くなってきていた。
同情して欲しいとは思わない。同情する発言をされようものなら暴れてしまいそうだ。母親や友人知人から疎まれているのは察している。何となくではあるが、その原因が自分にあるのだろうとは思っている。かといって悪い事をしているという認識は無い。あと1カ月と少しあるとはいえ、生きながらえた所で何がどうなる訳では無い。何を改めるでもない。自分がもうすぐ死ぬという事を知った友人や知人の中でそれを悲しむ奴はいないだろう。現に母親は自分がこんな状態である事を知っているにも拘らず、遠戚の墓参りに行ってしまった。恐らくそれは口実だろう。自分と居たくないという意思の表れである事は容易に推測できる。今の自分は誰にも必要とされない。むしろ疎まれている。漠然とではあるものの、その原因は自分にある気はするが、かといって何が悪いのかは分からない。
東野は目を瞑り俯くと、両手で頭を掻き毟った。そんな東野を井上は無表情で見ていた。
「はあ……なんだかなあ……ああ、もう、くっそっ! じゃあ、もういいよ。その終末なんちゃらって飲み物、とっとと寄こせよ」
「今ですか? 今日、安楽死されると仰っているんですか?」
「あ? 駄目なのか?」
「いえ、別に問題ありませんが、東野様はまだ終末日まで1カ月と少しありますし、何かやり残した事などが無いか、もう1度ゆっくりお考えになってからでも遅くは無いと思います。終末は逃げませんし」
「良いって言ってんだろうがっ! やり残したことなんか何もねえよっ! 借金のあてもねえしよ……。ん? どうせ死ぬなら適当に金借りまくって、あの世に逃げりゃいいだけか。最後に良い思いをするのもありだな。うんうん、どうせ死ぬなら好き勝手に派手に暴れてみ――――」
「東野様、そういう事を仰られると、私共としましては、何らかの対応をしなければなりませんので、行動に移されるのは勿論ですが、口にする事もお気をつけ下さい」
東野の言葉を遮った井上の言葉に、東野は反射的に激昂し、勢いよく立ちあがった。
「ああ? テメエには関係ねえだろ! いちいち口出すんじゃねぇよっ!」
そう東野が怒鳴った途端、東野と井上がいる打合せルームのガラス扉が音も無くスッと開き、1人の屈強そうな警備員が部屋の中へと入って来ると同時に「何かありましたか?」と、部屋全体に響き渡る低めの声でそう聞くと、井上が「大丈夫ですよ」と笑顔で警備員に返した。その言葉を聞いた警備員は、目深に被った帽子の影からギラリと光る目を一瞬東野の方へ向けると、静かに打合せルームを後にした。
曇りガラスで囲われた打合せルームは、遮音性も低い事に加え、警備員が随時打合せルーム付近に於いても警備しているという体制でもある事から、東野の様に大声を出すような人物がいると即座に警備員が駆けつけるといった状況であった。
打合せルームの中、曇りガラス越しに見る向こうの廊下には、先の警備員が近くに位置している事が見て取れた。それは東野を威圧するかのようでもあり、何かあれば即座に駆けつけるぞという意志表示であると東野には思えた。
「東野さん。これは警告と受け取って是非お聞きください。ここは公共施設であり、私は地方公務員ですので、私に対する暴行暴言は公務執行妨害の対象となります。東野さんの行為が妨害と認められる場合、警備員により即時拘束されます。また私共が『危険性有り』と判断した場合にも拘束する事が可能です。勿論、それらは合法です。そして、この建物で拘束されたら2度とこの建物から出る事は不可能であると申し上げておきます。あ、失礼しました、訂正します。この建物で拘束されたら、もう生きてこの建物から出る事は不可能です。終末日を迎えた後、遺体となった状態で出る事になりますので、くれぐれもご注意ください。ご理解頂けたら、どうぞお座り下さい」
井上のその言葉に、東野は再び激昂すると共に椅子から立ち上がり「ああ! てめぇはぶっ殺されてぇのかっ!」と、東野が言葉を発すると同時に曇りガラス越しに警備員が動くのが見えた。曇りガラス越しではあるものの、その姿に本気の様子が伺え、無言の威圧がひしひしと伝わってくる。緩い姿勢で立ってはいたが、瞬時に部屋へと侵入し自分を拘束できる態勢を整えているように東野には思えた。東野は顔を真っ赤に歯を食いしばりながら、それ以上の言葉を飲み込み、大人しく椅子に座った。
「……もういいよ。……どうせ俺なんて生きてる価値なんか無い人間だしよ」
そんな不貞腐れた様子の東野の姿を前にした井上は、持参しているタブレットに目を落とした。タブレットの画面には東野個人に関する情報が表示されている。
自治体からの住居に関する情報として、東野は世帯主を母親とした家で母親との2人暮らし。生まれてからずっと同じ家で過ごしている。
国税庁よりの情報もあるが、納税実績は見当たらず、理由としては「未収入の為」とある。就職は勿論、アルバイトすらした形跡もない。
年金機構よりの情報として、収入が無い為に国民年金は免除されている。
国民健康保険に関する情報もあるが、これは支払われているようだった。とはいっても、社員としてどこかの組織に属していない東野は国民健康保険に加入する義務が生じるが、国民健康保険は個人に支払い義務があるのでは無く、世帯主に支払い義務がある為、恐らく母親が支払っている事が推測できた。小さい頃に歯科の受診、あとは風邪らしき症状で数回受療した形跡がある位で、傷病には縁が無い健康そのものに見えた。
警察庁よりの賞罰に関する情報としては、高校生の頃に過失傷害の前科があり罰金刑が処されていた。
職業欄もあるが「未調査」と表示されている。
井上は、これらの情報より、親子関係が上手く行っているかまでは分からないが、東野が母親に頼った生活をしているのだろうと推測した。
井上は思う。東野はまだ24歳と若く、健康その物であるにも拘わらず、諸々の意味で「勿体ないな」と。
「まあ、絶対にと言う訳ではありませんが、人の価値なんていうのは、客観的に勝手に決められる物であり、主観的に言う事では無いと思いますよ?」
「はあ? 何言ってんだが全然分かんねえよ。もう良いから、とっとと持って来いよ」
「『持って来い』というのは終末ワインの事でしょうか?」
「それ以外に何があるってんだよっ!」
「再度申し上げますが、一旦ご帰宅なされるつもりはありませんか? ご家族親族、友人知人へのご挨拶なり、旅行なり、食事なりと何か最後にしたい事は御座いませんか? 未練は一切ないという事で宜しいでしょうか?」
「未練はあるに決まってんだろっ! けど死ぬって決まってんだろ? 金も無けりゃ友人なんて別にいねえよ。家族なんて家にはババアが1人いるが、息子がこんな状態だって知ってる癖に、どっかに行っちまったよ。もうやる事なんて何もねえよ。出来る事なんてねえよ。せいぜい『借金返せ』って言われる位しか、する事なんかねえよ」
過去にも終末ケアセンターを訪れたその日に安楽死を実施した人は存在したが、そういった人達は不貞腐れたり、感情的になったりした状態で判断している事が多い。井上はその度、落ち着かせるように宥め、一旦帰宅させるように努めた。だが東野のように頑として聞かない人もいる。井上は、言うべき事は言った。こうなっては仕方ない。あくまでも本人の意思として尊重する。今までも東野の様な人物が居なかった訳で無いと、半ば諦めるかのように自分に言い聞かせた。
「左様でございますか。分かりました。では繰り返しの確認になりますが、東野様の御希望通り、本日、安楽死を行うという事でよろしいですね?」
「しつけえよっ!」
「失礼いたしました。では準備いたしますので、少々お待ち下さい」
井上はそう言って、東野1人を部屋に残し、建物の奥の方へ去っていった。
井上は終末ワインが保管されている『劇物収納庫』の扉のすぐ横の壁にある電子錠に、自分の首にネックストラップで吊り下げている職員証を兼ねるIDカードをかざし、更に顔認証を使って解錠した。ガチャリと重く響く解錠の音を聞くと、おもむろに鋼鉄製の重厚な扉を開けようとしたその時、背後から声を掛けられた。
「今日も安楽死される方がいるんですね」
井上が振り返ると、そこには終末ケアセンター内でパート清掃員として働いている山崎たづ子が、両手でモップを持ちながら柔和な表情で立っていた。清掃員として青と白のボーダーのシャツに青いズボンという制服を着用し、更に清掃員全員が被る鍔の付いた青い帽子の下には、見事なまでに真っ白な短めの頭髪が見えた。理由について聞いた事は無いが、齢80を超えても尚働いている山崎に対し、井上は敬意を持って応対する。
「ああ、山崎さん。お疲れ様です。ええ、そうです。今日も、といっても毎日のように安楽死をなされる方はいますけどね」
「そうですね。ほんと悲しい事ですね」
「ええ。悲しいですね。でも安楽死を選択出来るという事は、良い事でもあるとも思います」
「そうですね。選択出来るのは良い事ですね。今日、安楽死されるのは先程大きな声を出していらしゃった方ですか?」
「ああ、聞こえました? ええ、そうなんです。今日初めてここに来て、そのまま安楽死を望まれたんです。一旦ご自宅に戻って残りの時間を少しでも悔いの無いように過ごされてはと進言したのですが、感情的になってしまっているようで、お聞き届け頂けないようでしてね」
「そうですか……アタタタっ」
山崎は右ひざを抱えるようにしてその場にしゃがみ込んだ。
「どうしました山崎さん? どっか痛いんですか? 誰か呼びましょうか?」
「いえいえ、大丈夫です。心配なさらないでください。ちょっと最近、関節のアチコチが痛くなってきてね。もう体が限界なのかしらね」
心配した井上が山崎に近づくと、湿布特有の強い匂いを感じた。山崎のシャツの袖口から覗く手首には湿布が貼ってあるのが見えた。とはいえ、実際には手首以外のあちこちに湿布が貼られている様子が窺えた。
「掃除も大変でしょ? ここって結構でかい建物ですもんね。たまには休んだらいかがですか?」
「こんな年寄りが休んだら仕事無くなっちゃいますし、パートで雇って頂いているので休むとそのままお給金に響くしね。そうそう休む訳にも行かないんですよ」
「……そうですか。ではお大事に」
「はい。有難う御座います。井上さんも体に気をつけて頑張ってくださいね」
井上は少し自己嫌悪になった。山崎はすでに高齢である。高齢の人が働くというのはそれなりの理由がある。簡単に『休んだらいかがですか』という言い方はあまり良くなかったなと反省し、踵を返して劇物収納庫の扉をギギギギギっと耳障りな音を立てながら開いた。上司に相談してはいるが、なかなか改修されないその扉、開けるのにも閉めるのにも力を必要とするその扉に「とっとと自動で開閉出来るようにしろよ」と心の中で罵った。
井上を待っている間、東野は打合せルームのすぐ横に広がる庭を、壁一面の透明なガラス越しに見ていた。不貞腐れた顔で見るその広い庭には、3階にも届きそうな高い木が奥が見通せない程に沢山植えられ、一面芝生の地面には多くのベンチとイスがテーブルとセットで置いてあった。東野は不貞腐れながらも落ち着いて庭を見てはいたが、何か切っ掛けがあった訳でもなく、急激に感情が昂ぶっていった。
「ったく、何で俺が死なねえといけんねえんだ? くそがっ! ふざけんじゃねえよっ!」
東野は勢いよく椅子から立ち上がると、椅子を蹴飛ばしステンレス製の大きい机を力任せにひっくり返した。そして蹴飛ばし倒れた椅子を窓に叩きつけた。
ガンッ! ガタンッ! ガラガラっ!
そんな大きな音を奏でながら椅子が窓へと叩きつけられたが、窓ガラスは強化ガラス製で有り、罅ひとつ入らなかった。その大きな音を聞いて、すぐさま警備員が東野1人が残る打合せルームへと入ってき。同時に、近くでその音を聞いた他の職員もやってきた。その音は劇物収納庫で終末ワインを準備していた井上の耳にも届く程の大きさで、何の音かと、何事かと、もしかしたら東野が何かやらかしたのかとすぐに思い至り、すぐさま劇物収納庫を出ると、音のした方へと向かった。
井上が東野1人が居た打合せルームまでやってくると、既に東野は警備員2人の手によって床に押さえつけられていた。井上は案の定、音の原因が東野だった事に嘆息した。
「離せよっ! オラーっ! ふざけんじゃねえよっ! どけよコラッ!」
2人の警備員に押さえつけられ、顔を真っ赤にしながら怒声を張り上げ続ける東野の傍に、井上はしゃがみ込んだ。
「東野さん。先程『警告』しましたよね? この行動はその警告を受けた上での行動と受け取って宜しいですか? どうですか?」
「ああっ! 警告だあ? 知らねえよ、そんなものっ! いいから離せよっ! ぶっ殺すぞっ!」
諭すように話しかける井上に対し、東野は更に激昂した。
「本当に良いですか? 拘束しますよ? 私の判断で拘束されますよ? この建物の地下に拘束されて、もう外には出られないんですよ? 本当に良いんですか? まあこれから安楽死しようとしている東野さんには関係ないかもしれませんがね」
「――――くっそっ! もう良いから、とっとと殺せよっ!」
その言葉を最後に、東野は全身の力を抜き、瞬時に真っ赤になっていた顔色が元へと戻って行く。その姿を見た井上は、東野がようやく観念したように見えた。
井上は転がった椅子とひっくり返った机を元の位置に戻すと、警備員に指示して東野を椅子に座らせた。東野はグッタリとして、まるで人形のように警備員に椅子に座らせられた。
「では改めて終末ワインを持ってきますので、くれぐれも大人しくお待ちください」
そう言って井上は、再び劇物収納庫へと戻って行った。
暫くして、東野1人が残る打合せルームへと、コロコロと軽い音を立てるキャスター付きのワゴンと共に井上が戻ってきた。
暫くして、コロコロと軽い音を立てるキャスター付きのワゴンと共に井上が戻ってきた。
井上が押してきたそのワゴンの上には、一見ブランド品に見える焦げ茶色をメインに金色の装飾が施された万年筆。バインダーに挟まれたA4書類。そして先程サンプルとして東野が見たのよりも少し幅のある、使い古された感じの残る高級そうな木箱が乗せられていた。
その木箱の中には、今度は赤いサテン生地のクッションの上に、シャンパングラスと呼ばれる細長いグラスと、終末ワインが横に寝かされていた。サンプルの時には空だった細長い薄茶色の意匠のある瓶には、どす黒く見える液体が入り、スクリューキャップできっちりと封じられていた。
東野は「その程度の荷物なら手で持って来られんだろ? わざわざワゴンで運ぶなんて馬鹿じゃねぇの?」と、心の中で毒づいた。
「では、参りましょうか?」
「あ? 行くってどこへ? ここで飲むんじゃねえのかよ?」
「ここでも構いませんが、あちらの庭でゆっくりとお飲み頂く事をお勧めしております」
「はあ? んなものどこで飲んだって変わんねえよ。いいからとっととワインを寄こせよ」
東野のその言葉に井上は「ではその前にこちらをお願いできますか?」と、ワゴンの上のバインダーに挟まれた書類と万年筆を手に取ると、テーブルの上、東野の前へと置いた。
「終末ワインを提供するにあたって承諾書に署名が必要となります。こちらが承諾書の書類になりますので、ご確認頂けますか? 質問や疑問があれば仰って下さい。ご確認頂き、問題等無ければ、こちらにご署名なさって下さい。ご署名なさって頂いた後、こちらの終末ワインを提供致します」
【終末ワイン摂取承諾書】
このワインを摂取すると、直ちに安楽死を迎える事になります。
あなたがそれを望むのであれば、下記に自筆でご署名をお願いします。
そんな短い文面の承諾書で、いちばん下に署名欄。東野は承諾書を手に取り目を通した。短い文書なので確認する事も特に無く、目の前に置かれた万年筆を手に取りキャップを外すと、署名欄に自分の名前をサッと書き入れ、署名を終えた承諾書と万年筆をテーブルに「ほらよ」と言って放り投げた。
井上は書類を手に取り、名前が正しく記載されている事を確認した後、担当者欄に自らの名前を署名した。
「確認致しました。ありがとうございました。それと御遺体の引き取りは、お母様で宜しいんでしょうか?」
「ああ。ウチのババアに引き取って貰ってくれ」
「承知致しました」
「因みにウチのババアが引き取りを拒んだらどうなるんだ?」
「ああ、それはですね、遺族がいない、遺体の引き取り手がいない場合には行政負担で火葬、納骨まで行います。納骨場所については各自治体が所有している共同の無縁墓地に葬られる事になります。戒名とかは無く、いわゆる行旅死亡人と似た扱いになり、官報にも掲載されます」
「ふ~ん。ま、死んだ後の事なんて知ったこっちゃねえけどよ」
井上は承諾書と万年筆をワゴンの上に戻すと、細長いワイングラスをテーブルの上、東野の目の前に置いた。そして終末ワインのボトルを手に取り、スクリューキャップの栓を開けようとした。その瞬間、違和感を感じキャップを開ける手を止めた。
それを目に留めた東野が「ああ、じれってえなあ。とっとと寄こせよ」と言いながら終末ワインのボトルを井上から引き千切るように奪った。そしてそのままキャップを開け、一切の躊躇無く、そのまま一気に飲み干した。
「ちょっと――」と、井上は制止しようとはしたが、東野は既に全量飲み干し、空になった終末ワインのボトルとキャップを床へと放り投げた。ボトルはガラス製でもあったために甲高い音を立てて転がった。井上はボトルが割れると思って一瞬焦ったが、運よく割れなかった。
「ったく、最後なんだからもうちっと旨いワインでも用意しとけよ」
「美味しく無かったですか? 味については評判は良いんですがね。勿論、私は味見した事は無いですけど」
井上はそんなこの場にそぐわない冗談めいた事を言いながら、東野が床に放り投げたボトルとキャップを注意深く拾う。ワインは少量であれば皮膚に触れても大丈夫な物ではあるが劇薬である事は間違いなく、皮膚から取り込まれる事も無い訳では無いので、ハンカチを使って注意深く拾い上げると、キャップを閉め、木箱の中へと戻した。
東野は「味見はした事無い」という井上の言葉は冗談のつもりかと思ったが、この期に及んでの下らない冗談に無反応を貫いた。
東野が終末ワインを服用してから1分程が経過した。東野は窓の外を眺めながら「なあ、あとどれくらいで俺は死ぬんだ?」と、井上に呟くように聞いた。
「そうですね。即効性のある物なのですが、東野様は効き目が遅い感じですね。でももう直だと思いますので、そのままお待ちください」
それから5分が過ぎた。未だ元気な東野の姿に、井上も流石に効き目が遅いと感じていた。
「おい、まだかよっ! 一体いつまで待ってりゃいいんだ!」
「う~ん、そうですね。確かに遅い気がしますね。東野様が特殊な体質なのかもしれませんね。もう少々お待ち下さい」
井上はそう言って席を立つと、自分が所属するカウンセリング課の部屋へと急ぎ戻った。その間、東野は1人打合せルームに残されていた。先程の事もあり、本来であれば警備員が打合せルーム内に残って東野を監視するという状況ではあったが、終末ワインを服用した直後と言う事もあり、且つ東野の最後の刻と言う事もあり、警備員に監視されるような最後は東野にとって良い気はしないだろうとの井上の判断であった。
「下田課長、今私が担当している方は、ワイン服用後5分以上経過しても全く亡くなる気配がないんですけど、大丈夫ですかね?」
カウンセリング課に戻った井上は、上司である課長の下田重久に報告を兼ねて心配そうに尋ねた。
「ん? 大丈夫って何が?」
「いや、なかなか死なないんですがって事ですけど……」
「ああ、そう言う事? まあ、即効性があるって言っても、最長で30分掛かったって事例も過去にはあるから、もう少し様子見てからで良いんじゃないの?」
別に珍しい事じゃないよと、そう軽く下田に言われ、井上は訝しみながらも東野の元へと戻ったが、打合せルームに1人残る東野は、まだまだ元気な様子が伺え、亡くなるという微塵の気配すら見せてはいなかった。今の状況は井上とって初めての経験だった。これまでに関わった人達は全員5分以内には亡くなっていた事からも、井上の心配は続いていた。
「おい、マジで、どれくらい待たせるんだよ」
「最長で30分掛かったという過去の事例もありますので、申し訳ありませんが、もう少しお待ち下さい」
それから10分が経過し、20分が経過し、そして30分が経過した。
「てめえ、いい加減にしろよ? こっちは死ぬって決めたんだぞ? なのに何で俺は生きてるんだよっ! お前ら全員で俺を馬鹿にしてんのかっ!」
全く亡くなる気配の無い東野の姿に、いよいよ井上は焦り出した。この状況に井上の上司である課長の下田も、厚労省本省へと電話で事の次第を報告するに至っているが「劇物に対する耐性がある人間がこの世に存在する訳が無い」という返答しか得られず、どう対応すればいいのか判断出来ずにいた。
「止めた」
「はい?」
「もう止めだ」
「止めるというのはどういう事ですか?」
「死ぬのを止めた」
「いや、お待ち下さい」
「だってよ、死なねえんだろ? ならやってらんねえよ」
「……」
「理由は知らねえけど、今ここでは死ないんだろ? けど、終末日とやらには死ぬんだろ? ならもう帰るわ。じゃあな」
「もう少しお待ち頂けませんか? もしかしたら本当に特殊な体質なのかもしれませんし」
「もういいって言ってんだろうが。それとも拘束するのか? あ?」
ここに来た当初とは違い、至極落ち着いた様子の東野はそう最後に言い残し、静かに打合せルームから出ていった。そしてそのまま終末ケアセンターの玄関へと向かった。その東野の後を追うようにして、井上も打合せルームから出ていった。
暴力を振るうでも無く、器物を破損するでも無く、暴言を吐くでも無いこの状況で、東野を拘束するという選択肢は無く、井上には帰るという東野を止める術が見つからなかった。
玄関から外へと出た東野は、玄関正面に停めてあった自分のスクーターに、さも自然に跨った。
「ちょっと、東野さん、飲酒運転になるから駄目ですよ」
「チッ! うるせえな。分かったよ。乗らねえよ。ちゃんと押せばいいんだろうが」
東野は半帽タイプのヘルメットを頭に乗せると、ぶつぶつと文句を言いながらもスクーターを手で押しながら、終末ケアセンターを後にした。そんな東野の姿を見ていた井上は「こちらから見えなくなった時点で乗るだろうな」とは思ったが、これ以上の監視は出来なかった。事実、東野は、終末ケアセンターの玄関が見えなくなった辺りでスクーターに跨り、エンジンを掛けるとすぐさまアクセルを全開にして走り出した。ある意味、死を1度経験している今の東野には道交法など知った事では無かった。例え警察に捕まった所で残るは1カ月と少しという短い人生のみ。何を気にするでもなく、恐れる事など何も無かった。
東野を見送った井上は、カウンセリング課に戻り、下田のもとへ向かった。
「下田課長、今回の東野さんの件、どうしますかね? 耐性があったという事なんですかね? もう1本飲んで貰っても良かったですかね?」
「う~ん。本省にも確認しているが、あれ1本で30人からの致死量だから『死なないはずは無い』って言われているし、そんな物を1人に2本飲ませたりしたら『非人道的な行い』って感じになっちゃう可能性もあるしな。簡単には行かない話だから、おいそれと許可出来ん。そもそも1人に1本って前提だから、2本提供するとなると、書類が大変だし……」
と、下田はお役所仕事を揶揄するかのように言って、短い溜息をついた。
「とりあえず東野さんは帰ってしまいましたけど、良かったですかね?」
「ここに留置する理由もないしな。まあ強制的に地下に拘束してもいいが……流石にそんな事は出来んだろ?」
「まあ、来た当初は多少なりとも暴れはしましたので、拘束するならするで理由は付けられましたけど……」
「そんなのは井上だって嫌だろ? 良い気はしないだろ? 多少暴れたって理由だけでそんな最後を迎えさせたら、そのうちお前自身の心が壊れちゃうぞ? まあ取りあえず、報告書を提出しろ。東野さんが飲み干したボトルは回収してあるんだろうな?」
「はい。勿論回収済みです。では後ほど報告書を提出いたします」
東野が去ってから2時間程が経過した頃、1台の銀色のセダンが終末ケアセンターに併設されている駐車場に停車した。停車したセダンから私服姿の2人の中年男性が降りてくると、終末ケアセンターの玄関口を通って中へと入って行った。
「すいません。警察の物ですが、責任者の方にお会いしたいのですが」
2人の中年男性のうちの1人が、警察手帳を見せながら受付に座る女性に言った。その数分後、受付に井上の上司の下田がやってきた。
「ご苦労様です。いま責任者のセンター長が不在でしてね。一応、私が代理と言う事で承ります」
下田はそう言いながら、自分の名刺を2人に手渡した。
「分かりました。実は我々はある事故、というか事件と言いますかね。まあ、とにかく捜査してましてね、ちょっと確認させて頂きたい事があるのですが、こんな場所ではなんですし、どこか座れる場所なんてありませんか?」
「事件……ですか? というと刑事さんって事ですか。分かりました。では、あちらに話せる場所がありますので、付いてきてください」
下田はそう言って、先程東野が利用していたのと同じ、全面ガラス張りの秘匿性も遮音性も無い打合せルームへと刑事2人を案内し、テーブルを挟んで下田と刑事2人が対面する形で椅子に腰かけた。
「で、その事件というのは何でしょうか?」
「ちょっとこちらを見て頂きたいのですが」
そう言って1人の刑事が透明なビニール袋に入った1枚の紙を下田の前に提示した。差し出されたそれを前に、下田は「触って宜しいですか?」と一声かけ、提示された物を手に取り、ビニール越しに中身を見た。
『寄る年波に勝てず、折角ケアセンターに雇って貰ったのに、こんな事をしでかし大変申し訳なく思っております。ここで働かせて貰っているうちに、ワインを飲む事で楽に死ねるという人々を見ているうちに、それが羨ましく思えてきました。最近ではいつ死ぬのだろうという事ばかり考えておりました。寝ている間に心臓が止まればいいのになと思い、もう死ぬ方が楽だと思い、それならいっその事、楽に死にたいと思いワインを盗んでしまいました。こんな事をしでかし、皆様にご迷惑がかかる事は重々承知しております。本当に申し訳ありません。ごめんなさい』
「……あの、一見すると遺書の様に見えますが、これって一体……それとワインを盗んだってのは?」
「ええ。仰る通り遺書です。『山崎たづ子』さんと言う方の遺体の傍に置いてありました」
「ヤマザキタヅコさん? ですか? あの、それでワインを盗んだというのは……どういう事でしょうか?」
「ええ、その事をお伺いしに我々はこちらにやって来たんです。山崎さんの傍には遺書と一緒に液体が入っていたと思しきビニール袋が置かれてましてね、どうやらそのビニール袋にワインが入っていたようなのです」
「ビニール袋入りのワイン?」
「ええ。で、遺書に『ワイン』と書かれていたので、我々はすぐに『安楽死で服用する終末ワインと呼ばれる液体が入っていたのでは無いか』と推察し、ビニール袋に残っていた液体を、すぐに科学鑑定をしたところ、劇物が検出されました」
「いや、ちょっと待って下さい、その劇物って――」
「はい、『終末ワイン』と全く同じ成分の液体でした」
「いやっ! ちょっと待って下さい! ひょっとして、そのワインがうちから流出した物だと言っているんですか? 厳重に管理されているんですよ? まさかウチの職員の誰かが関与しているとでも言うんですか? だいたい何故、我々の所なんですか? 他にもセンターはあるでしょ?」
「ああ、まだ言ってませんでしたか。まあ名前だけでは分からない事もあるかもしれませんね。全ての人を把握するのは至難の業ですしね。この『山崎たづ子』さんという女性は、こちらの終末ケアセンターでパート清掃員として働いてらっしゃった方なんですよ。なので我々もこちらへ直接お伺いしたんです。遺書には『盗んだ』と書いてありますから、我々もこのセンター内の誰かが関与したとは思っていないですしね。
ただ、山崎たづ子さんが入手した劇物の流出元が、ここの建物である確率は非常に高いと思っております。それらを確認しに来ました。それが事実なら業務上過失と言う事で、何らかの処分が発生する事は考えられますが、まずはその劇物をどこから入手したのかを確認させて下さい」
それから刑事2人は二手に別れ、1人はそのまま打合せルームにて終末ケアセンターの職員の事情聴取、もう1人はカウンセリング課内にあるモニタールームにて劇物収納庫付近の監視映像のチェックをする事にした。とはいえ、事情聴取は終末ケアセンターの全職員が対象では無く、終末ワインが保管されている劇物収納庫の鍵を有するのがカウンセリング課の職員のみであるという理由で、カウンセリング課の職員を主な対象に行われた。
当然、井上にも聴取が行われた。井上は数時間前に山崎と会話している。その山崎がすでに亡くなっている事に実感が湧かなかった。
「じゃあ、井上さんは山崎さんと話をしていた時、何か変わった所とか何も気づきませんでしたか?」
「……そうですね。あちこちの関節が痛いとかって言う話をしただけで、それ以外、特に気になる様子は見受けられませんでした」
そもそも井上は、パート清掃員である山崎の事をそれほど知っている訳では無かった。あくまでも施設内において時折見かける程度であり、すれ違う時には会釈程度の挨拶をする関係である。今日は会話を交わした訳ではあるが、その会話が今迄で一番長く会話したという程度の仲である。
すると、打合せルームのガラス扉が音も無くスッと開けられ、「おい、ちょっとこっち来て見てくれ」と、モニタールームで監視映像をチェックしていた刑事が井上の前に座る刑事を呼びにきた。
カウンセリング課内のモニタールームは、主に地下にある留置室や聴取室を監視している物ではあるが、センター内、特に劇物収納庫内、及びその付近についても監視カメラが多数設けられており、その映像も見る事が出来る。法的にはここまでの設備は必要とはされないが、致死薬といった劇物を取り扱う公的施設と言う事もあり、それなりに金のかかった設備だった。
刑事2人が見ている監視映像を井上達職員も一緒に見ていた。そこに映し出されていたのは、劇物収納庫の前の監視映像で、音声は無く、鮮明な映像のみの数時間前の様子であり、井上と山崎が会話している場面であった。
数分間、井上と山崎が会話をした後、井上は劇物収納庫に入った。山崎はモップを使い劇物収納庫付近の廊下の掃除を始めた。すると、井上が慌てた様子で劇物収納庫から出ていった。その時、劇物収納庫の扉は開いたままだった。山崎は井上が向かった方向を見ながらジッとしている。そして、井上が姿が見えなくなったであろう頃に、山崎が周囲を気にしながらも劇物収納庫に入ると、その数分後に出てくる映像が映っていた。
「あ……あの時、東野さんが暴れた時に扉を開けたまま行ってしまったかも……」
「かもも何も映ってるじゃねえか。井上よぉ、扉開けっぱなしで行くとかよぉ……。そもそも入ったら閉めるってルールだろ?」
下田は大きな声を出す事は無かったが、あからさまに呆れた様子だった。
「……はい。不意に声を掛けられた事で注意力散漫になったかもしれません。でも、棚からワインの本数が減っていたりすればすぐに私だって気付きますよ。棚は1本毎にパーテーション切る程に管理されてて、台帳と見比べながら毎回確認しているんですから、無ければすぐに気付きますよ。少なくとも私が東野さん用のワインを取りに行った時には、1本も減っていなかったですよ。それは間違い無いです」
「皆さん、こちらを見てください」と、刑事がそう言うと、別のカメラの視点に映像に切り替わった。
そこに映し出されたのは劇物収納庫内の映像で有り、劇物収納庫に入った山崎はズボンのポケットからビニール袋と小瓶らしき物を取り出した。そして棚にズラリ整然と並ぶ終末ワイン。1本でも欠ければ監視映像でも容易に見てとれる程に整然と並べてあったその内の1本を無造作に手に取ると、そのままキャップを開け、そのボトルの中身をまるごと持参していたビニール袋へと入れた。
ビニール袋に全量を入れ終わると、ビニール袋の口を結んで閉じ、続いて空になった終末ワインのボトルに持参していた小瓶の中の液体を丁寧に入れ始めた。そして小瓶の中身を入れ終わると、終末ワインのボトルのキャップを閉め、ボトルを棚の元の位置へと戻し、終末ワインが入ったビニール袋と持参していた小瓶をズボンのポケットへとしまい、そそくさと劇物収納庫から去って行った。
その映像を見た下田が「それで終末ワインのボトルの本数は合っていたという事か……」と小声で呟くと、井上が「あっ」と無意識に呟いた。その井上の様子に「何か気付いた事でもありましたか?」と、1人の刑事が冷めた目で井上を見ながら訪ねた。
「言われてみれば、という感じではあるんですけど、今日、安楽死する予定だった東野さんという方が、終末ワインを飲んでも亡くならずに元気な姿でお帰りになったんですけど……その時、東野さんに出したボトルのキャップを開ける時に何か違和感があったなと言う事があったような……」
「おい井上、それじゃあ東野さんが飲んだ終末ワインって……」
「そうかもしれないです。というより、そうでないと説明がつかないというか……。恐らく東野さんが服用したのは山崎さんが入れ替えた全く別の物、全く無害な飲料だったという事かと……」
「何で違和感があったのにそのままにしたんだよ? そんじょそこらの清涼飲料水じゃねえんだぞ?」
「いや、開けようとした時に違和感を感じて手を止めたら、すぐに東野さんにボトルを奪われてそのまま服用してしまったので、すぐに忘れたというか……」
「まあまあ、落ち着いて下さい。とりあえず山崎たづ子さんの服用した劇物の流出経緯は分かりました。まあ今後、過失が問われる事になるでしょうけど、皆さんが悪意を持ってなさった訳では無いという事が分かって良かったじゃないですか」
刑事は笑顔を見せながら井上と下田に向かって言った。本来であれば、上司の決裁を貰った後、職員が劇物収納庫に終末ワインを取りに行くという時点から、別の職員が監視映像でその姿を監視すると言う運用ルールでもあり、山崎の行動は即座に露見し成功するはずは無かったが、いつの間にかそのルールは有名無実化していた。ワインと書類だけをわざわざキャスター付きのワゴンで運ぶというのも、常に見える状態で運ぶ為でもある。その様子は監視カメラを通じて見える化しておくという運用ルールがある為でもある。今回の山崎の起こした事件は、知ってか知らずか、皆の気が緩んでいた隙を狙ったとも言える山崎の大胆な犯行であった。
その後も終末ケアセンターの職員に対する事情聴取は続いた。その最中、終末ケアセンターの駐車場に1台のパトカーが停車した。停車したパトカーから2人の制服警官が降りてくると、終末ケアセンターの玄関口を入って行った。
打合せルームでは、課長である下田の事情聴取が行われていた。とはいえ1人きりで部屋にいた。下田の事情聴取をする刑事はトイレに行って不在であった。とそこへ「失礼致します。下田課長、警察の方をお連れしました」と、後ろに2人の制服警官を引き連れた受付の女性がやってきた。
「失礼します。○○署の者ですが、確認させて頂きたい事がございまして、お仕事中恐れ入りますが、お邪魔させて頂きました」
「は? 刑事さんならもう来てるけど? といっても今トイレにいってますけど。もう1人は別の部屋でモニターをチェック中ですよ」
「刑事? 事故の件でですか?」
「事故? 自殺って聞いてますけど?」
制服警官と下田はキョトンとした顔でお互いが尋ね合った。
「おう、吉村巡査じゃんか。どうした? 頼んでないけど、お前ら応援か?」
トイレから戻ってきた刑事が、制服警官の背中からそう声をかけた。その言葉に制服警官が振り返る。
「あれ? 桧垣刑事じゃないですか。お疲れ様です。どうしてこちらに? ん? 応援? いえいえ、私達は交通事故の件で確認したい事があっただけなのですが、桧垣さん達は何しにここへ?」
「俺達は○○町で高齢女性が自殺した件で来たんだよ。吉村達は何しに来たんだ?」
「我々は○○町で事故を起こした人が終末通知の葉書を持っていたので、確認をしに来ただけです」
「終末通知の葉書を持っていた?」
「はい。なので距離的にここの終末ケアセンターが最寄りだと思いまして、一応、行動確認をと言う事で参りました。ちょっと飲酒も疑われているんですよ。赤信号を大胆に無視と言うか、信号が存在していないとでも言いたげに交差点に突っ込んでいったというか」
刑事と制服警官のそんなやりとりに「その葉書ありますか?」と、割って入るように下田が訪ねると「あ、こちらです。ご確認をお願い致します」と、制服警官は終末通知の葉書を下田に手渡した。下田は葉書の宛名に記載されていた名前を見るや、「ちょっと失礼」と言って、打合せルームを飛び出していった。
カウンセリング課の部屋では事情聴取を終えた井上達が何度も山崎の犯行時の監視映像を刑事と一緒に見返していた。するとそこに「おい、井上っ!」と、息を切らしながら下田が戻ってきた。
「はい? 何ですか?」
「ちょ、これ見ろよ」
井上が下田に見せられたのは終末通知の葉書。その宛先には『東野いずる様』と記載されていた。その葉書をジッと見つめる井上に向かって下田は「さっき交通事故で亡くなったらしい」と、呟くように言った。
◇
山崎の自殺に関する聴取は終了した。警察による捜査の結果、山崎は以前からワインのすり替えを計画していた様だった。
そして東野が服用した『終末ワイン』の空き瓶についても検査が行われ、中に残っていた微量のワインの成分を調べると、ただのアルコール飲料、市販のワインで有る事が判明した。
「もう何がしたいとかも無いし、そもそも体が悲鳴をあげちゃっててねえ。もう、いつ死んでも良いけどね。寝る時には『明日の朝を迎えられるのかしら』なんて、いつも思っているわよ。でも死ぬ時は楽に死にたいわねえ。ここの『終末ワイン』を売ってくれないかしらねえ。あはは」
山崎と一緒にパート清掃員として仕事をしていた同僚達から聴取した際、山崎は常日頃からそんな事を言っていたという。そんな風に、笑いながら話をしていたという事で、誰も深刻に受け留めてはいなかったという。その同僚達も皆、高齢と言える年齢の人達ばかりであり、その様な話をするのは日常茶飯事であり、休み時間にはよくする類の話でもあり、深刻な話として聞く者は誰もいなかった。
山崎は数年前に夫をこの終末ケアセンターで看取った。その後、非常勤のパート清掃員として働いていた。夫が安楽死をした場所と言う事で、特別な場所という意識もあり、ボランティアでも良いから働かせてくれという気持ちではあったが、それならという事で、非常勤のパート清掃員として雇って貰える事が出来た。
少ない年金が主な収入源であるが、パート清掃員としての収入も合わせると、贅沢が出来る程では無いが、高齢者1人が食べていくだけなら充分な状況ではあった。非常勤のパートとはいえ、働いているという事で社会の一員として見られているという自負も生まれていた。気持的には満たされていた。
しかし、寄る年波には勝てない。次第に体も弱ってくる。動く事で筋肉はそれなりに維持出来ていたが、骨や関節は徐々に悲鳴をあげ始めていった。
毎日のように安楽死で亡くなっていく人達を横目に仕事をする山崎にとって、その光景に慣れる事は無く悲しい光景ではあったものの、月日が経つにつれ、その光景は『楽に死ねる』という印象に変化し、次第に安楽死という事が『羨望』に変わっていった。
しかし安楽死が出来るのは終末通知を貰った人だけであり、ある意味で『選ばれた人』のみ。日々清掃の仕事をこなしながら『どうすれば安楽死が出来るか』『どうすれば終末ワインを飲めるか』という事ばかりを考えるようになっていった。
終末ワインが保管されている部屋は分かっている。がしかし、管理も厳重な扉の中にあり、その部屋に自分が入る事は出来ない。その資格を持っているのは一部の人達のみ。それでも何とか終末ワインが保管されている部屋に入る方法は無い物だろうかと、日々思案していた。
その部屋に入る方法は全く思い付かないが、それでも、いざという時の為に終末ワインの代替品となる市販のワインを小瓶に移し、常にポケットに忍ばせておいた。本当は終末ワインと同じボトルが用意できれば良かったが、終末ワインのボトルは、服用後の空きボトルであっても厳重に管理されており、入手する事は出来なかった。
しかしチャンスはなかなか来ない。当然であった。劇薬であり、毒薬と言って過言でない物であり、その部屋にはカウンセリング課の職員、且つ権限を有する者しか入れない。それでも常に終末ワインの代替品となるワインとビニール袋をポケットに忍ばせておいた。いつか訪れるかもしれないチャンスを逃すまいと、終末ワインが保管されている劇物収納庫付近を重点的に掃除するように行動した。
不意にチャンスが訪れた。東野が暴れた際、劇物収納庫の扉が開いたままの状態で井上がその場を離れた。山崎は井上が走り去る背中を見ながら『今しかない』と思い周囲を見まわし、誰も見ていない事を確認するとすかさず劇物収納庫に入った。
棚にズラリと置いてある中から適当に1本の終末ワインのボトルを手に取ると、すぐにキャップを開け、ビニール袋へと中身を移し入れた。全量入れ終わると、急ぎビニール袋の口を閉じ、すかさず市販のワインを入れておいた小瓶を、空になった終末ワインのボトルへと移し替え、キャップを閉め、棚の元の位置へと戻した。
空になった小瓶と一緒に、終末ワインが入ったビニール袋を慎重にポケットにしまい、劇物収納庫から急ぎ退出すると、そのまま清掃員用のロッカールームへと向かった。そして急いで私服に着替え、同僚には「体調が悪い」と言って早退した。
帰宅するやいなや山崎たづ子は遺書を書き始めた。それを書き終えると一切の躊躇無く、すぐさまビニール袋に入れた劇薬である終末ワインを一気に飲み干した。
劇物収納庫に侵入しワインを盗み、帰宅早々に服用するという電光石火とも言える素早さで、山崎たづ子はこの世を去った。
本来であればすぐに発覚する状況ではあった。実際、井上がキャップを開けようとした時に違和感を感じた。だがキャップが1度開けられているとは露程も思わず、直後に東野に奪われた事でその違和感は吹き飛んだ。
井上を含むケアセンターの職員達は、東野の騒ぎに気を取られていて、山崎の所業を見ていた者、異変に気付いた者は誰もいなかった。
東野の事故についての聴取も終了した。東野は「飲酒運転による単独事故」として処理された。
東野がスクーターで走行した経路を、警察が監視カメラや防犯カメラで解析したところ、信号無視等の各種道交法違反を繰り返しながら走行し、赤信号の交差点に一切の減速をせずに進入した所へ、青信号で侵入してきたトラックと激突した。死因はトラックとの衝突、及び、弾き飛ばされ、道路に叩き付けられた時の衝撃による内臓破裂とされ、ほぼ即死の状態だったという。
東野の運転中の精神状態も、一応、聴取された。
山崎が終末ワインのボトルの中身を市販のワインとすり替えたと言っても、ボトルの中には微量でも終末ワインの成分が残っていたであろう事から、死に至らずとも、何らかの影響を与えたのではという疑問からだった。
だが、多少残っていたとしても、入れ替えられたワインにより相当希釈された事で、それが影響したとまでは言えず、井上の目の前でワインを飲んだ事からも、あくまでも「飲酒運転による事故」という事で処理された。
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厚労省エンジニアの男性、そして母親から死を望まれた東野は、厚労省エンジニアの悪戯により、本来は終末を迎える必要が無いのにも拘わらず「終末通知」を発送された。
そして、終末ケアセンターにて終末ワインを服用の上、安楽死を実行しようとしたが、中身は山崎がすり替えたただのワインであった為に、運良く死ぬ事は回避出来たにも拘わらず、交通事故で死亡した。
全ての起因となった厚生労働省のエンジニアの男性、東野に悪戯を仕掛けた男性は理由も告げずに自殺した。そこに割って入るかのように、ワインをすり替えた山崎は『終末ワイン』を服用する事で自殺した。
絡み合っているかのようで、直接絡んでない3人がこの世を去った。
「まるで笑っているというか、安堵したような、幸せな顔に見えましたよ」
山崎の遺体の顔を見た刑事の1人が去り際に井上達にそう話した。3人の中で幸せな死を迎えられたのは山崎だけであり、それも自らが望んだ死であった。
終末ケアセンターの井上正継は、山崎の自殺は「あくまでも自殺」という事で処分が下る事は無かったが、劇物収納庫の扉を開けっ放しにするという劇物取締法における過失と、東野いずるが「飲酒運転の恐れがある」と十分に推測出来たにも拘わらず、報告義務を怠ったという理由で1か月の自宅謹慎、及び3か月の減俸と言う処分を受けた。上司である下田も「監督不行き届き」と言う事で、減俸1カ月の処分を受けた。
厚労省エンジニアの男性が組み込んだ東野に対する終末通知を作成するロジックが発覚するのは数年後の事だった。発覚した際、その対象となる東野は既に死亡しており、それも交通事故で亡くなっていたという理由で特に問題視はされなかった。
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20XX年『終末管理法』制定。
制定されると同時に、厚生労働省には『終末管理局』が新設された。新設された終末管理局の役割は、当局の管理監督の下で、個人に対して、個人の終末日、つまり亡くなる日を通知する、というのが主な役割である。しかし、あくまでも医療行為、健康診断等の膨大な身体情報を基に、本省のコンピュータシステムで計算した物で有る為、事件事故等、不測の事態で亡くなる場合には無意味である。また大病を患っている、持病がある等の場合にも無意味である。この制度は、健康体の人物を対象とした、福祉の一貫として位置づけられている。
個人に終末日を伝える方法は葉書とされた。毎月の月末日に、厚生労働省の本省に設置されているコンピュータシステムで終末日を算出し、同時に終末通知の葉書を作成する。作成後は、即刻、郵便として全国へと発送される。対象期間は、月末日から2か月以内に死亡予測が出た個人宛に発送される。
また、葉書を受領した人達に対する精神ケアの為に、各自治体には『終末ケアセンター』を設置する事も義務付けられた。終末ケアセンターの役割は、通知葉書を受領した人達へのカウンセリング、そして安楽死の実施という、2つが主な役割とされた。
安楽死の方法は飲料による服毒と定められた。安楽死が目的の為、飲む事によって苦しみを一切伴わず、且つ終末の飲料としても美味しい事も求められた。その要求に対して、飲んだ直後から急激な睡眠作用を誘導、同時に脈拍低下が始まり、数分後に完全な心停止する飲料が開発された。そしてその仕様を邪魔しない味を求めた結果、ぶどうを原料としたワインが開発された。
財政的にも公的支援が図られる事になる。終末日を迎えた時に負債があれば公費で負担する事になった。そのかわり、終末日は保険金融業界にも連携され、クレジットカードは即時利用停止となる。終末日以降はローンも組めず、銀行の現預金か、現金決済のみとされた。
終末日以降の自殺での保険金搾取も考慮し、生命保険も停止という措置がなされる。そのかわり傷病での医療費の負担は公費で全額なされる。資産の相続についても軽減措置がなされ、名義変更が必要な家や車と言った資産については、妻子を優先に自治体のシステムで、自動的に名義変更まで行われる。
遺体の引き取り先が無い、若しくは引き取りを拒否された場合には、自治体により火葬、埋葬まで行われる。その際は、自治体の共同無縁墓地へと埋葬される。これは行旅死亡人と同様の扱いである。
終末を通知された人が、自暴自棄になる事も想定され、人は勿論、社会に対して、破壊衝動に駆られる危険性を考慮の上、終末管理局にてそれらの衝動に駆られそうな危険人物の特定も行われる事になった。これも本省の最新のコンピュータシステムで、過去の実績等(事件事故等)の警察情報をデータベース化し、システムにより人物抽出される。これらを担うのは、終末管理局直轄の部門で『終管Gメン』と呼ばれた。終管Gメンは、警察庁との情報を含めた密な連携を取り、対象者の監視拘束を行う。そして一度拘束されると、終末日まで拘束される事になる。それ程の強権を発動する事に対して、賛否は拮抗しているが、終末日の通知は残りの時間を有意義に過ごすという、福祉の一貫であるにも関わらず、個人の身勝手な破壊衝動に対しては、社会の安定を第一に考え、強権を持って抑えるというものである。
終末日を知らせる葉書は『終末通知』と呼ばれた。
そして、安楽死を行う飲料は『終末ワイン』と呼んだ。
2019年 09月 11日 5版 一部改稿
2019年 08月 30日 4版 一部改稿
2019年 08月 23日 3版 誤字含む一部改稿
2019年 08月 16日 2版 誤字含む諸々改稿
2019年 03月 31日 初版