2話:……知らない床だ
本日二本目。
今後こういうことはないです。
「……知らない床だ」
なんて、そんなことを言ってみる。
なんだろう、なにかとてもショッキングなことがあったはずなんだが、すっかり忘れている。河原で目覚めて、それから少しばかり発狂して走って、それから……?
ううむ、思い出そうとするとなんだか下半身がぎゅっとなるのは、いったい何故なのか。
分からない。
分からないが、とりあえずそれは考えても分からないだろうから、代わりに分かりそうなことを考えてみることにする。
ここはどこなのだろう。
知らない床の、材質は土だと分かる。そこそこ柔らかめで寝心地が案外悪くないのが腹立たしい。
いやそれ床じゃなくて地面だろうという話かもしれないが、視界には石のブロックを積んで作った壁もあってどうやら三方を囲まれているようだし、起き上がって、身体についた土を払いながら見回してみれば残り一方は鉄格子だし、床と表現した方が多分精神衛生上いいと思うのだ。ほら、地面で寝るよりは床で寝る方が字面が健康的だろう?つまりそういうことだ。
ところで。
俺の知識の中にはこんな三方を壁に囲まれ一方には鉄格子がそびえるような空間を示す言葉がそう沢山ある訳でもないのだが、果たしてそれを言葉にするべきだろうか。ここはどこなのだろうとか、なんならいっそ考えても分からないことだったら大人しく混乱もできたというのに、なんだろう、なまじ分かりやすいおかげで混乱する前に達観しているというか、なんというか。
普通に考えればアスファルト→河原→土など軽く常軌を逸しているし、今だって泣いて喚いてここから出せと暴れ回るのが人として正しい行いな気もするのだが、どうしてか心は凪いでいる。まさかこの短時間で唐突に精神力が育まれた訳ではないだろう、これはあれか、混乱しすぎて逆に落ち着くという、常々それは無理があるだろと内心ツッコんでいた謎現象がその実確固たる事実に基づいていたということなのか。
なんにせよまあ、こんな所で暴れ回れば身体中土だらけで酷いことになるだろうから、ありがたいことではあるのだが。
現に、寝ていただけでも前半身が酷いことに―――
とそこで、唐突に気がつく。
そして身体を見下ろして、それが紛れもない事実であることを確認して。
「……全裸だ!?」
あ、全然混乱できるわ。
そんなことを、どこかで他人事みたいに思った。
ついでに他人のふりもしたい所だったが、俺は俺でしかないのでそうもいかない。
そう、いつだって人は自分であることを止められないのだ……あ、哲学風味。
言うまでもなく、現実逃避だった。
「なぜ……まさかそれはもうどえらい目に……?」
俺の人生はノクターン入りか……?
などと、これもまあ現実逃避だ。
少なくとも異様な感覚みたいなものはない。いやなに、もちろん改造的な意味で。
そんな戯言が聞こえたらしい、
「ぷふっ、ははっ、はははは!」
と、そんな笑い声が聞こえてきた。
どこからかと視線を巡らせれば、ちょうど石畳の通路を挟んで向かいの……あー、個室、そう個室で、一人の人間が腹を抱えて笑い転げていた。通路に照明替わりらしい電球のような丸い灯が掛けられているとはいえ、そこまで光量がないため薄暗いのでよくは見えないが、どうも外国人風な顔をした女性らしい。いや、まだ少女か?声からして、どことなく幼さを残しているように思える。発達という点でも、まあ、なんというか、少女だし。
……。
ところで俺とは違ってボロきれのような服を身に纏っているのは男女差別だろうか、いやその点に関して文句がある訳ではないのだが、そういう配慮ができるならどうして全裸の男と女の子を向かいの部屋にしたのかと十分な説明をしてほしいところだ。いやほんとに。
とりあえず、ブツを隠すようにして縮こまって座った。
それも俺にできるせめてもの配慮だというのに、しばらくして笑いが幾分か収まった少女はそんな姿を見てまた吹き出しやがる。
「あっはははは!別にいーっていーって!そんなもん見慣れてるからさ!」
あれこれもしかして問題発言……ま、まあ小さな兄弟とか、それともお父さんっ子だとか、そういうことだろう。独房に入れられている―――ついうっかり認めてしまった―――という事実と併せて考えるとなにかとてつもなく不穏な言葉に聞こえるが、深く考えるべきではないのだ。
「い、いや、なんだ、俺の方が恥ずかしいんだ」
「おー!そっかそっか、そりゃそっか!おとうと達と一緒にしちゃいけないよな!」
わりーわりー!と少女は屈託なく笑う。
なんだろう、今世界一安堵に包まれている人間だという自信がある。
弟か。うん。この子はきっと、いいお姉ちゃんなんだろうな……。
しみじみ。
「あ!そーだおっさん!」
感じ入っていると、少女がなにやら思いついたように手を打つ。
おっさん。
いやまあ、うん。
うん。
「おれはアノってゆーんだ!アノって呼んでくれよ!そんで、えっと、多分14歳!」
「多分」
「おう!あんま分かんないんだよなー」
「……そうか」
あっけらかんと言う少女……いや、アノからは、なんとなく深く踏み入れない気配を感じる、それはもうひしひしと。
訊いたら普通に答えそうという意味で。
というか、なんだ、やっぱりこれは―――
「ってそーじゃなくて!」
俺の思考をぶった斬るような声に意識を向ければ、アノは鉄格子に頭をねじ込むくらいの勢いで俺を見ていた。
そうして見える、そのすすなのかなんなのかで汚れた顔は、そうでなくとも恐らく美少女という訳ではないのだが、快活そうで純粋そうで、なんとなく人好きする顔立ちをしているように思える。少なくとも俺の感性と照らし合わせて、マイナス点は見当たらない。強いて言うなら見た目年齢から自称年齢を引いたらマイナスになるかもしれないが、わざわざそんなこじつけめいたことをしたところで別になにがどうということでもないだろう。
さておき。
「なーなー!おっさんも名前教えてくれよ!ダチになるにはじこしょーかいしなきゃだろ?」
「ダチになる、は?俺と?あー……アノが?」
「おう!なんかおっさんはいーやつそーだしな!あと面白れーし!な!いーだろ?」
キラキラと輝く視線を向けられると、拒むにも拒めない……いや、そもそも拒むつもりもないんだが。聞き返したのも、ちょっと驚いただけで。
俺を『いーやつ』とか、随分と人を見る目がないなとは思うが。
「俺は……ん、ちょっと待ってくれよ」
「おいおいなんだよおっさん!自分の名前忘れちまったのかー?」
馬鹿だなー!と笑うアノから、一旦意識を逸らす。
そして考える。
なんと名乗るべきだろうか。
いい加減そろそろ現実を、あまりにもファンタジックすぎる現実を見るとして、するとどうだろうこの状況、もしかするとなんだが俺、異世界に来てないか?それも言語が通じるとかいうご都合主義的異世界。
とすると正しく願ったり叶ったり、本来ならばここで喜びのひとつでも見せるべきなんだろうが、なんというか、あれだ。自分が主人公じゃないと本能レベルで確信した直後に、しかもなんの前触れもなくなんの説明もなくとなると、どうして今なんだよと恨み節をぶちまけたくなる程度にはタイミングが悪いというものだ。たまに異世界モノで、そこそこの頻度で転移者がやってくるおかげでその存在がある程度認知されている、みたいな設定のときに語られる薬にも毒にもならないような名前すら登場しないモブの極み的な気配を自分自身に感じているなど、一体ここからどうすればいいのだろうか。三日後には死んでそうなんだが。
いや。
とりあえず、これは一旦置きだ。
ここが異世界だとして。
うわ凄い字面だ。
にも関わらず胸の奥で熱く滾るはずの厨二病スピリッツが微塵も疼かない辺り俺はもうダメかもしれない。この期に及んでそんなものが疼く方がよっぽどダメかもしれないが、なんだ、俺のアイデンティティの九割はそこに依拠するところあるんだよなあ……。
さておきここが異世界だとして。
異世界というのは色々あるが、名前というものに関しても同様になんやかんやと設定があったりする。
例えば苗字を持つのは貴族だけだとか、とある名前がある言語体系においてとんでもない意味を持つだとか―――それは地球でもありそうだが―――、異世界の名前の響きが現地人にやけにウケるだとか、かつて存在した名前を呼べないほどの存在と同じ名前だとか、自己紹介するなり『あなたもしかして〇〇から来たの?』だなんて日本人ネームが一般的な国の名前を出されるだとか。
そういう常識を有さない以上、自己紹介するにしても下手に本名をフルネームでというのは少々リスクが高い行いであるように思える。少なくともアノは名前だけな訳で、それが例えばスラム街的な場所における常識だとしても、貴族のような権力を持つ相手に喧嘩売るよりは遥かにマシだろう。
しかしながら、例えば姓を持たないことがとんでもなく異常なことで、それはもうどうしようもないほどの奇異の視線を今後受けることになるとしたらどうだろう、それを避けるためにフルネームを名乗ることは、果たして受け入れられることなのだろうか?
ううむ。
うむむむむ、としばらく悩んでから、俺は結論を出した。
「ああそうだ、思い出した思い出した。俺の名前はヒビキというんだった。22歳。よろしくな」
「ヒビキ……」
ノっといてなんだが、我ながら無理がある。
アノが笑い飛ばしてくれれば少しは救いもあるというのに、なにやら俺の名前を呟くなり俯いてしまう。戸惑いとはまた違うその様子にはてなにごとかと首を傾げていると、
「……ヒビキヒビキヒビキヒビキヒビキヒビキヒビキヒビキ―――」
などと、急に俺の名前を連呼しだした。
むしろこっちが戸惑って声をかけられずにいると、しばらくしてアノは満面に笑みを浮かべて顔を上げた。
「よし、覚えた!ヒビキ!」
「お、おう。あー、そゆことか」
なるほどあれは名前を覚えようとしていたと。
アノという名前は中々聞かない名前なのでスルッと覚えられたが、思えば同級生の名前とか微塵も覚えてない……いや微妙に覚えているのもあるが、まあほとんど覚えていないので、その行動は分からなくもない。
うんうん頷く俺へと、アノは届かない手を差し出してくる。
常識知らずな俺からすると、果たしてそれは握手なのだろうか、他のなんらかのアクションを求められるのではないか、そんな迷いが拭えないが、まあ友人のすることにいちいち目くじらも立てないだろうと、俺も手を差し出す。
差し出せば、ぎゅ、と握られるので、握り返すつもりで手を閉じる。
それからぶんぶんと上下にシェイク。
俺も真似してハンドシェイク。
触れるまでもなく通じるそれは、どうやら俺のよく知る握手と同じものらしい。
「これでダチだな!ヒビキ!」
「そうだな、アノ!」
ぶんぶん腕を振りながら笑う、少女と大学生。
……なんか勢いで誤魔化そうとしてみたが、この絵面かなり頭おかしいな。
まあこれぞ友情、こういう馬鹿みたいなノリもたまには悪くないだろう多分。対面してから10分も経過していないという点には目をつぶるとして。
「ところでアノ、まあこんなことは訊くまでもないことだとは思うんだが、それでもなんというか、一応礼儀として、お約束の一環としてぜひ訊かせてほしいんだが」
「おう!れいぎは大事だな!たとえきくまでもないことでも、ダチからの質問ならいくらでも答えてやるぞ!」
「ここってどこなんだ?」
「ろーや!」
「そうかー……」
分かり切った事実でも改めて告げられると辛いものらしい、振り返ればそこにあった現実にストレートぶち込まれた気分だ。ノックアウトされる前にまた逃げ出してみたいところだが、今更異世界より驚くべきこともそうあるまい。
「なあ、実はどうして自分が牢屋にいるのか分からないんだが、なにか知ってることはないか?」
「なんだそれ!おれが知るわけないだろ!ってかヒビキってすげー忘れっぽいんだな!」
「ああ、まあ、かもしれないな」
忘れるもなにもそもそも知らないのだが、訂正するのも面倒だろう。それに、もしかすると本当になにか理由を忘れている可能性もある。多分ないだろうが、実は異世界に来て既に一年が経過している……みたいなことも、考えられなくはない。
「あ、でもなんか言ってたかも……しゃっきん、がどうのこうのとか」
「借金?」
この世界の通貨単位をひとつも知らない俺に借金などと、そんな言葉が関係する余地などあるのか?
そんな疑問を投げかけようとして、しかし。
口を開くよりも前に、俺はその音を聞いた。
カシカシと、金属の擦れるような音。
それは少しずつ近づいてきて、しばらくしてその主が俺の目前に立った。
なるほど金属のグリーブで歩いてきたからあんな音が聞こえたらしい、それは関節や胸に金属のプロテクターを、手足にはガントレットとグリーブを装着しヘルムを被った、まったくもってファンタジー色満載な戦士風の男だった。
なんなら魔法よりファンタジーしてやがるその姿に、俺は改めてここが異世界であると実感した。
しみじみ。
アノが出したかったからというだけの理由で投獄しました(真顔)