1話:異世界に憧れていた。
始まります。
異世界に憧れていた。
剣と魔法と魔王と勇者、そんなよくある冒険譚に憧れていた。
初めてそれに出会ったのは中学生の頃、友人に勧められて読んだネット小説がきっかけで。
強烈に惹かれた。
鮮烈に呑まれた。
そして気がつけば俺は厨二病を拗らせ、そしてそして今に至るといったところか。
今。
つまるところ大学三年生である、現在。
年齢は22歳。
22歳にして、現役厨二病。
いや違う。弁明させてほしい。俺は別に自作魔法の詠唱とか魔法陣の作成とか独自言語の開発とかそういう痛いことをやっている訳ではないし、自分のそれが厨二病的夢見がち妄想でしかないことをきちんと理解している上での厨二病なので、見方によってはなんか、こう、あれだ、そう、あれ、うん、まあ……さておき。
さておけ。
とまあ、つまりなんだ、異世界に憧れていた俺は、だから日々異世界のことを妄想して、小説を読んで妄想を補完して、日常の節々でことあるごとに妄想を補完してと厨二病と上手く付き合いながら生きてきた訳だが……そんなある日、遭遇してしまった。
それは猫だった。
目を引くような美しさもない、そんじょそこらに有り触れたノラキャット。
が。
今まさに、死にかけていた。
もはやおなじみのトラックに轢かれんとするその瞬間だった。
待ちに待った瞬間だと思った。
そこで飛び出して猫を助けて死ねば、きっと俺は異世界に行けると。
そんなことを本気で思っていた。
そんなことを思う程度に余裕があった。
特段鍛えているなどということもないが十分に間に合うだろう距離だった。
だが俺は動けなかった。
なんということはない、足がすくんだというそれだけのことで。
そしてそんな俺の目前で、一人の青年が猫を助けに飛び出して―――
見た。
見てしまった。
猫を投げ出したその体勢のままトラックに激突した青年が、その時確かに光に包まれたのを。
トラックに引き摺られ、肉を引きちぎられ、血飛沫が舞う中で、確かに青年が神々しい光に包まれたのを。
その光は、ああ確かに俺に異世界というものの存在を、転生というファンタジーの実在を刻みつけた。
だから俺は絶望した。
確信したのだ。
俺は主人公にはなれないと。
だって、だっておかしいだろう。
どうして主人公というやつはあのタイミングで動けるんだ。
そんなの生物として間違っている。
自分の命よりも他人の命を優先するだなんてそんなこと、そんな、ありえない。
狂ってやがる。
狂ってやがる。
それに対して俺はどうだ。
至って普通に自己本位で、至って常識的に命だって見捨てる。
そんなやつが、そんな俗物が主人公になんてなれる訳がない。
その時の俺の感情は、たぶん嫉妬だった。
当然のように狂える主人公が。
当然のように主役たる主人公が。
憎くて憎くて、仕方がない。
俺には到底なれないような、そんな頭のおかしいやつが殺したいほど憎らしい。
傍から見れば、血濡れで喚く俺の姿は、凄惨な事故を目前で目撃したことに狂った哀れな通行人に見えたのだろう。
もちろんそんな訳がない。
凄惨な事故?
馬鹿を言え。
あれは予定調和というのだ。
主人公が物語を始める単なるきっかけでしかない。
とはいえ考えてみれば、それでもあれは少々混乱状態にあったのだろう―――そもそも凡夫でしかない俺が死亡事故を見て落ち着いていられる訳もないのだから―――俺は、精神状態を確かめるように声をかけてくる救急隊員を押し退けて駆け出した。
酷く残酷な現実から目を逸らして家に帰ってラノベでも読みたいという一心だった。
そしてそんな風になりふり構わず走る俺が、血の撒き散らされたぬめる歩道に足を取られない訳もなく。
転んだ。
それはもう強かに。
意識がぶっ飛びくらいには強烈に。
そして。
そして壮絶な轟音と冷たい飛沫に気がついてみれば、俺は森の中にいた。
轟音の発生源は滝、飛沫がかかるほど近くにあるそれは、まあなんというか表現しにくいくらいの微妙な規模、エンゼルフォールをLV100とするならLV13くらいに収まりそうだが、滝行には少し辛いだろう。それでも間近で見れば自然の力をひしひし感じるもので、しばらく俺は状況把握をほっぽって魅入っていた。
それはたぶん、現実逃避だった。
それから俺は、自分が今森の中、というよりは、恐らく山の中、滝つぼから流れる川の始まりくらいの所で、その河原に横たわっていたことに気がついた。身体の節々が痛んでしょうがないのもそのせいなのだろうが、それにしては転んだときの頭の痛みが一切なく、こぶのようなものにもなっていないのが不思議だった。
とそこで、混乱が追いついたのだと思う。
思考がぐちゃぐちゃになって、なにやら喚きながら森の中を走り回ったのを覚えている。何度か転んだし、衣服は枝葉に掴まり随分とズタボロになっていたが、まあ混乱の極みにあったのだから仕方がない。
それにしたって、こういう場合は川に沿って移動するのがセオリーなのだろうに、たぶん滝の音やそこそこ激しい流れが怖かったのだろう、迷いなく草木生い茂る森の方へと向かったのは、まあ今思っても悪手だった。どちらにせよかもしれないが、今となって若干後悔しないでもない。もっとも俺ごとき凡人がそんな冷静な判断を下せるなんて、今も来世も思わないが。
今。
そう、今。
今というのはつまり、森在住のみんなのアイドルなクマさんに、ある日森の中で迫られている現在のことだ。
落し物を届けてくれるどころか俺の命を落し物にしてくれそうな威圧感は、こうして向かい合っているくらいならあの滝で滝行した方がまだマシだったなと思えるくらいで。足が使いものにならないので木に背を預けて座り込んでいる俺の姿は、恐らく酷く無様なものだろう。
というかこいつ、犬歯が長いな。やけに鋭いし。へし折ったら普通にナイフとして使えそうなんだが。
名付けるとすれば、サーベルベアーといったところだろうか。お前の牙が鋭くて一体どんな役割があるというんだ、大人しく蜂蜜でも啜っていろと言いたい。
「大人しく蜂蜜でも啜ってやがれ!」
言った。
が、完全に無視して依然睨まれている。
なんだろう、まさか柔軟剤の匂いに警戒している訳でもあるまい、それとも美味しくなさそうだから仕留めるのを躊躇しているのだろうか、だとすればそれは正しい判断だ。
言っておくが俺はこの方運動部というものに所属したことのないインドア派だ。それに太りにくい体質なので、美味しい要素など探しても見つからないぞクマよ。
などと思っていたら、クマが近づいてきた。
のっしのっしと近づいて、それからクマは、まるでなにかを確かめるように前足で俺の下半身を圧した。
ぐぎ。
俺の下半身はへし折れ砕けた。
「い゛っぃいいあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああぁぁぁぁぁ――――――!?!!!?!」
いたい
しぬ
なんだこれ
なんだこれ
どうしてこんなにいたいんだ
どうしてこんな
どうして
―――ぐぢ。
自分がなにかを叫んでいることが分からない。
痛いとかそういうことではなくて、ただ、壊れた感覚だけが脳をぐちゃぐちゃにミキサーした。
不意に痛みがなくなった。
熊の顔が近くにあることに気がついた。
見ている。
笑ってみた。
クマが見ている。
俺を見ている。
俺は見ている。
俺の足はクマの体重に完全に押し潰されている。
多分俺は美味しくないぞと言おうとして、声は出なかった。
自分がもう既に叫び声を上げていることが分かった。
おかしな話だ、俺はもう痛くないのに。
おかしくておかしくて、なみだがでるくらいわらってしまったらしい、しかいがぼやける。
あれでもおかしい、おれはわらってないのに。
あれ?
くまはどこにいったのだろう。
おれは、おれはどこに……?
あれ?
だいたいこんな感じです。