幽霊の拳
どうやら僕は、死んでしまったらしい。
というのも、今、僕の目の前にあるものが何よりの証拠だ。
それが三六〇度、どの角度から見ても、僕、中井元の死体に他ならないからである。
生まれてから十七年と少し。
物心ついたときから毎日、毎朝、毎晩、一日に何度も、飽きるほど鏡で目にしたその姿、形を間違えるはずがなかった。
そして、僕は幽霊になってしまったようだった。
つい数分前、生前の僕は校舎三階の、自分の教室の窓辺にいた。
校舎の西側で、一番日当たりのいい教室だ。今は昼時だから、直射日光で窓際はとても眩しい。僕はそこから転落した。
今はこんなにも冷静でいるが、実は数分前、死んだ直後はひどく取り乱していた。けれど、今は一周まわって、落ち着いてしまっている。
僕の死体は人だかりの中心にあった。
必死に教師達が、野次馬と化した生徒達を散らしている。片や、養護教諭が僕の死体に蘇生を施していた。
それでも散らない野次馬達の視線に幽霊になったコッチの僕まで恥ずかしくなった。
中には携帯で写真を撮るやつまでいた。
お前、それSNSに上げたら通報されて垢BANだからな。
養護教諭は必死に僕の胸部を圧迫していた。
ちょっと追加で肋骨何本か逝ってませんか。
しかし、僕は既に幽霊になってしまったようだし、僕の死体からは赤黒い血がドクドク流れ出て、コンクリートに広がっていた。
もう僕は助からない。そう思い、僕は天を仰いだ。
ふと、教室の窓が目に入った。そこにも、僕の死体を見ようと、身を乗り出すいくつかの顔があった。
あまりしゃべったことはないが、同じクラスの奴らのよく見知った顔があった。
その中に僕はとても不愉快なものを見つけた。
似合いもしないのに、大人ぶってワックスをつけたベタベタの髪に、汚いにきび面のやつ。
小さなたれ目に逆らい、吊り上げるように剃られた眉のやつ。
しゃくれた顎に、太い眉。眉間にしわを寄せてはいるが、実は可愛らしい目をしたやつ。
僕はそのいかにも、なヤンキー像を真似た三人の生徒を睨んだ。
自分たちのしていたことを忘れたのか、顔面蒼白になっている。
その隣では小太りな男子生徒が、曇った眼鏡の下で、両目を擦っていた。
それから数時間、僕はやることなく、学校内をさまよっていた。
それでわかったことといえば、空中に浮いてみたり、壁をすり抜けてみたり、とよく聞く幽霊の特権が、僕には全く備わっていなかった。
出来ることといえば物に触れることくらい。
生身の人間に触れることは当たり前のように出来なかった。
誰かの目の前に立ってみても、目が合うことはない。なんだか、幽霊というよりも、行動が制限された、いわゆる透明人間に近い気がした。
僕の死体は既に、到着した救急隊員の手により、近くの病院に搬送された。今頃、死亡がしっかりと確認され、母親あたりが僕の死体と面会していることだろう。
先日、近くで事故があり、興味本位で野次馬をしていたが、まさか僕がされる側になるとは思っても見なかった。
「おい、どうだ。幽霊ライフは味わっているのか、少年」
突然、背後から男の声がした。僕は慌てて振り返った。
そこには、しっかりと僕と目を合わせることが出来る人物が宙に浮いていた。
背格好は僕とそれほど変わらず、僕と同じ、黒い学ランを上下きっちり着こなしている。
しかし、その顔はかなり女性的だ。それに、目鼻立ちがはっきりした上で、とても整っている。
声は男性のものに聞こえるのだが、おかげで、目の前にいるこの人物の性別が全くわからない。
この美人は一体何者なのか。
「もしかして、オレが見えないのか?」
少し不機嫌そうな声で、その人は言った。
「いや、見えてます。すみません」
僕は反射的にそう答えた。実際、僕の視界はその性別不明の美人に占領されていた。
「なんだ、なら早く返事してくれよ」
数秒前とは打って変わり、明らかに声のトーンが高くなった。
「はい。すみません。」
「いや、いいよ。オレが見えてるなら問題ない」
「すみません」
「すみませんが口癖なのか?」
性別不明の美人は眉をひそめた。その表情もまるで、モデルや女優のものに思えた。
「いや、そういうわけじゃ。すみません。あれ」
「やっぱり口癖じゃないか」
性別不明の美人は僕を指さしながら、意地悪そうに口角を上げた。
「そうかもしれません」
僕は早々に白旗を上げた。
「だよなあ。ところで少年、死んだばかりだろ」
不意に一発食らった気分だった。目の前の性別不明の美人が、僕と同じく幽霊。
もしくは、そういった存在が見える人物では、と思っていたのだが、ストレートパンチにも程がある。
「オレは紅。おっと、これは生前のあだ名であって、偽名ではないから、本名を聞くのは野暮だぞ」
「生前、ということはあなたも」
「そ、幽霊ってことだ。しかも、かなりベテランのな」
「ベテラン……」
「だからオレのことは紅先輩って読んでいいぞ。はい、返事」
幽霊にベテランだなんて妙だが、今後どうすればよいか検討もつかないため、この紅という人に教えを請うしかなさそうだ。少し変わった人のようだが、悪い人ではないのだろう。
「わかりました、紅先輩」
「おう。わからないことがあれば、この紅先輩に何でも聞いてくれたまえ!」
紅先輩はいかにも満足そうな表情をし、どん、と胸をこぶしでひと叩きした。
「それじゃあ、ひとつ」
「なになに」
「紅先輩、男と女どっちですか」
教室は静まり返っていた。
数時間前まで、生前僕が使っていた机は、異様なまでに綺麗になっている。
誰かが磨いたのだろう。その上には花瓶が置かれ、ご丁寧に花が挿してあった。
しかし、この花瓶は一週間ほど前から、毎朝、僕の机の上に置かれていたものだ。それに、机だって、今朝も落書きがされ、中にはゴミが詰められていた。
「こりゃひでえや」
先輩は頭を抱える仕草をし、オーバーなリアクションをとった。確かにひどい。
彼らは、いじめが行われていたこと、見てみぬ振りをした自分達の罪を、大人の目から、隠すことを優先したのだ。
先輩は「どっこいしょ」とおやじくさい掛け声と共に僕の机に腰掛けた。
やはり、僕らのことは誰にも見えていないようだ。紅先輩曰く、僕は今、生身の人間と、他の幽霊との、ラジオのチャンネル、いわば周波数のようなものが、少しずれた存在になったらしい。
だから、物であれば触れることが出来る。しかし、僕の体が火葬されてしまえばおしまい。他の幽霊と同じになる。
そのあとにどうなるかは、先輩にもわからないらしい。
「なあ、少年」
「はい」
「少年がいじめられていたのは、コレを見れば明らかだが」
紅先輩が机の花瓶を指さした。
「なぜ、死んだんだ」
またもストレートパンチ。さっきが右なら、今度は左か。次はジャブが飛んできそうだ。
「なぜ、と言われても、実はそこが曖昧なんです。ただ、自殺じゃないです」
困ったことに、なぜ自分が死んでしまったのか、本当にわからなかった。
「なら、少年が死んだ理由を探ろう」
「それ、面白いですか」
「単純に知りたいだけさ」
先輩は真剣な表情でこちらを見つめた。これで彼が女性だったのならば、僕はきっとドキドキしたことだろう。しかし、すぐに先輩はにやり、とまた意地悪そうに口角を上げた。
「ひょっとして怖い?」
「そんなわけ」
冗談だと笑う先輩の肩を「ふざけないでください」と叩く。先輩は「決まりだ」と嬉しそうに笑い、握りこぶしをどん、と僕の胸に押し当てた。その拍子に僕の体がよろけ、手が机の花瓶に当たってしまった。
「あ」という情けない僕の声と共に、花瓶は床に落ち、大きな音を立てた。安物の花瓶は砕け、水と、花が床に散乱した。
「やっべ」
先輩が僕の机から飛び降りた。
こちらに視線が集まるのを感じた。顔を上げると、教室中の目が、僕へと向いている。しかし、その視線は僕を通り過ぎ、落ちた花瓶へと注がれていた。
青ざめたいくつもの顔が、恐怖する視線が、花瓶へと注がれていた。
放課後。僕らは、生徒がいなくなった無人の教室で、窓辺に立った。
先輩は顎に手を当て、真剣な表情で何かを考える素振りをする。さながら、美少年探偵が主人公の、ドラマや映画のワンシーンのようだ。
「死ぬ直前、ここで何してた?」
「昼休み、弁当食べる前にトイレに行こうとして、席を立ったら、村瀬たちに絡まれたんですよ」
「村瀬?」
「教室にいた、ザ・ヤンキーっていう格好した馬鹿っぽい三人」
「あれか」
先輩が思い出した、と手で膝を叩く。この人はいちいち、おやじくさいというか、リアクションが大きい。
「にきび面のやつがリーダー格の村瀬。細眉たれ目は長野。しゃくれ顎が山口です」
「ちゃんと学校には来るんだな」
「むしろ、ここしか威張れる場所がないんですよ」
「なるほど」
僕は窓の縁を右手でさすりながら続けた。
「あいつら、僕を捕まえて、言ったんです。お前が教室にいると目障りだ。今すぐ、そこから飛び降りて消えろ」
「ほう」
「まあ、普通に拒否したんですけどね」
先輩を真似て、大きなリアクションをとる。胸の前で腕をクロスさせてバツマークを作ってみせた。
「でも、村瀬はそれが余計気に入らなかったみたいで、僕を突き飛ばした」
「それで少年は落ちたのか?」
「いや、その時は窓まで距離があって。僕はよろけて、こう、窓辺に寄りかかる状態になったんです」
「なんだ、まだ落ちないのか」
「まだですよ。それで落ちてたら、どう考えても村瀬が犯人でしょう」
「そうか」
「それで、村瀬は教室にいたやつらに声をかけた」
「こいつがいなくなったほうがいいよな?ってか」
「まさにそれです」
僕は大きく頷く。
村瀬は僕のことを指さし、教室にいた連中に同意を求めた。長野と山口は腕を組んで、村瀬の後ろにぴったりくっついていた。
他の生徒達は、顔を見合わせ、「お前が答えろよ」と回答権を譲り合っていた。またそれにイラついたのか、村瀬は一人の生徒を指名した。
「指名されたのは亮太だった。亮太は僕の一番の友達です」
「ふーん」
「村瀬は亮太に、同意を強要した。おい、飯田。どうなんだ、答えろって」
「それで」
「亮太は同意したんです。うん、と一言だけ」
今、僕の顔はきっと、苦いものを口にしたような、そんな表情をしていただろう。
「まあ、同意しなきゃ、また亮太がいじめられるから」
「また?」
「元々、村瀬たちがいじめてたのは亮太の方なんですよ。体系もちょっとぽっちゃりしてて、良いやつなんですど。ちょっと鈍くさいんだと思います」
「典型的ないじめられっこだな」
「そうなのかな。それで、僕も亮太が無理やり言わされてるっていうのは、もちろんわかってたんですけど。ああ、そうなのかって、妙に気分が落ち込んで」
「おう」
「気づいたら死んでました」
「はあ?」
先輩はがくりと、これまた大げさにこけてみせた。
「じゃあ、少年は自殺でもないし、村瀬とかいうやつに押されたわけでもなく、なぜか落ちたっていうのか」
「みたいです」
「みたいですって……」
僕の死体は仰向けになっていた。教室の窓は少し高い位置にある。背の低い僕は、少し持ち上げられて後される形でなければ、あの状態にはならない。
もしも、わざわざ僕が自殺をしたというなら、背面飛びで窓枠を越えたり、縁に立ち、背中から落ちるしかない。
仮に、そんなことをしたというのなら、さすがに自分で覚えているだろう。仮に都合よく忘れていたとしても、あんなに目撃者がいたのだから、その話が出回っていてもおかしくない。
僕は目撃情報がないか、学校中を歩き回った。
姿が見えないのをいいことに、普段は近寄れないようなグループのそばで聞き耳を立ててみたりした。
しかし、僕が、というか生徒が窓から転落して死んだという噂が、一瞬にして校内を駆け巡っていったのに、自殺だという話はほとんど上がらなかった。
かといって、村瀬や他の誰かが突き落とした、とかいう話もなかったのだが。
「まったくわからん」
「だから、曖昧だって言ったじゃないですか」
「そりゃそうなんだが。何かしらヒントはあると思ったんだよなあ」
「ヒントですか」
「そう、ヒント」
僕は落ちたときのことを思い出そうと、記憶の引き出しを片っ端から開けて、隅々まで覗き込んだ。落ちる時、一瞬空が見えた気がするから、背後から落ちたのは間違いない。何があったのか。
その時、僕の中でなにか引っかかるものがあった。
「あの、紅先輩」
「ん」
「気のせいかも知れないんですけど。あの時、後ろから引っ張られた気がするんです」
「引っ張られた?」
「こう、ぐいっと襟元を掴まれて後ろに投げられた感じ」
「いや、引っ張るったって窓の外だぞ。そんな、誰が三階にいる男子生徒の体を引っ張るっていう……」
そこで、先輩ははたと口をつぐんだ。
「どうかしました?」
「そうか。そういうことか」
「え、なんです」
「残念だが、少年。君は運が悪かった」
「はい?」
一体何がわかったのか。
「いいから聞いてくれ。少年は今、生き物には触ることが出来ないが、物ならいける」
「そうですね」
「一方、ベテラン幽霊のオレは、生き物も、物も触れないが、少年には触ることができる」
「そう……ですね」
たしかに僕が花瓶を落した直前、僕は先輩の肩に触れたし、先輩も僕をこぶしで突いた。
「つまり、少年は幽霊に殺された!」
先輩が目を輝かせて言い放った。
「いや、すみません。わけがわからないです」
「うーんと、ちょっとした噂だが。ああ、もちろん幽霊界隈の」
「幽霊界隈ってなんですか」
「幽霊も数がいれば自然と集まる。生きている人間と同じ。いや、今それはいい」
「すみません」
「その噂なんだがな。少年みたいに、まだ体が存在しているやつに限る話で、どうやら生きた人間を道連れにすると、奇跡的に生き返ることが出来る!そうだ」
「でもどうやって道連れにするんですか。触れないんですよ」
「そう、そこがミソ。少年は落ちる直前、亮太……だっけ」
「そうです」
「よし。それで、その亮太の言葉、というか、返答で落ち込んだって言ってたよな」
先輩はまるで、リポーターがインタビュー相手に向かって、マイクを差し出す時ように、僕に人差し指を向けた。僕も釣られて即答する。
「言いましたね」
「つまり、その時の少年には、死んでしまいたいって感情が、どっかにあったはずだ」
「否定できないです」
僕は眉をしかめた。
「だろう。それでその感情を持った人間は、こちら側に近くなる」
「周波数的なやつが?」
「そう。すると、稀にそういった人間のことを、少年のような幽霊であれば触れることが出来るそうだ」
「つまり、僕は噂を信じた幽霊に引っ張られ、道連れにされた……」
「そういうこと。ちなみに、一昨日かその前、その辺で事故があったろ」
「ありました。車同士で、男性が一人亡くなったとか」
確かに、数日前に学校のすぐそばで緊急車両が数台止まっているのを目撃した。
ブルーシートで何かが隠され、物々しい雰囲気が漂っていた。
「多分そいつだ」
「なんでわかるんです」
「そいつにこの噂教えたの、オレなんだ」
先輩は顔の前で両手を合わせながらも、口元からチラッと舌を出していた。
「はあ?」
その時、ガラリと教室のドアが開いた。僕と先輩の視線はすぐドアの方へと向いた。
入ってきたのは小太りな男子生徒。相変わらず眼鏡が曇っている。男子生徒は僕の机の前に立つと、べしゃりと潰れるように座り込んだ。
「亮太……」
その手にはノートの切れ端のようなものが握られていた。
「元、ごめん。俺が村瀬の言いなりになったから。怒って死んじゃったんだよな」
その声は震えていて、肩が小刻みに揺れていた。僕から亮太の表情は見えなかったが、きっと泣いているのだろう。
「俺がいじめられている時、俺のことかばってくれて。そしたら、今度は元が村瀬たちにいじめられてさ。でも俺、元のこと助けてやれなかった」
「そんなの気にしてないよ」
「今日だって、俺、またいじめられるのが怖くて……村瀬に逆らえなかった」
「しょうがないって」
「だからさ、俺、お前のこと一人で逝かせないから」
そこで気がついた。亮太の手に握られた紙切れに、シャープペンで書かれた「遺書」の二文字。
「おい、少年。こいつ死ぬ気なんじゃないか」
先輩が後ろで騒ぎ立てる。
「ああ! ちょうどいいじゃん。こいつ、お前を裏切ったんだろ? お前もあの噂試してみようぜ! もし、うまくいかなくたって、友達だったんなら、仲良く幽霊ライフやっていけるって」
「うるさい!」
思わず先輩の言葉を遮るように怒鳴りつけた。先輩は目を丸くしている。こうしている間にも、亮太はうわばきの下に、紙切れの遺書を挟み、僕が落ちた窓に手をかけていた。
亮太は本当に死ぬ気なのだ。僕はどうにか、亮太の体を掴もうとした。
しかしこの手は空を掴むばかりで、亮太に触れることは叶わない。
「折角、生き返れるかもしれないチャンスなのに」
先輩は黒板に向かい、いじいじと円を描く仕草をした。そこで、僕はあるものに目が留まった。
僕はそれを掴むと、思い切り亮太の横っ面に投げた。
亮太の頬にスポンジ部分が当たり、チョークの粉が舞う。
「わっぷ」
亮太は驚いた弾みで窓から手を離し、バランスを崩して倒れた。足元に黒板消しが転がる。亮太は呆気にとられた顔で、突然黒板けしが飛んできた方向を見た。僕はすかさず、チョークを掴もうとした。
「ひっ」
突然、誰もいない教室でチョークがひとりでに落ちる。きっと亮太にはそう見えたはずだ。
「誰かいるの……?」
亮太はおどおどと周りを見渡す。
けれど、亮太の視界に僕が映ることは無い。もちろん先輩も。
僕はもうひとつ、チョークを掴もうとする。しかしうまく掴めず、また床へ落ちてしまった。
「だっ……誰! 昼間も花瓶が落ちたり……して……」
亮太が取り乱している。
「花瓶……」
僕は気に留めず、チョークを取ろうと躍起になっていた。しかし掴めない。どうして。
「元……? 元なの? もう幽霊になっちゃったの……?」
どうやら亮太は気づいたようだ。いや、単純に恐怖や罪の意識からそういう思考に至っただけかもしれない。
「元、そこにいるのか。いるんだろ?」
亮太はバタバタとこちらに走り寄ってくる。だが、当たり前のように、亮太は僕の体をすり抜けてしまった。
「あはは! こいつ馬鹿だなあ」
いつの間にか、先輩が窓の外で浮かんでいた。
「全部、紅先輩のせいですよ」
「全く、その通り。しかし、少年。君も、そこのおデブで馬鹿だ」
「だったらなんです」
「でもその馬鹿さは嫌いじゃない。確かに原因はオレにもあるようだからな」
「は?」
僕は窓辺に近づいた。僕の後ろでは亮太が、僕の名前を呼んでいる。
「少年に、もう一度チャンスをやろう! これはお詫びだ。次は一度っきり、今度死んだらおしまい」
「何の話ですか?」
「まあ、黙ってなさいって」
先輩が口元に人差し指をあてる。夕日を背に、その光を通す先輩の其の姿は眩しくて、どこか神々しかった。
「……すみません」
「あの村瀬とかいうやつ、大分いきがっているようだが、一発お見舞いしたら、目も覚めるんじゃないか?」
「え? 村瀬を殴るんですか?」
「ああいう奴を一発くらい殴ってもバチは当たらない。だから、目が覚めたら、安心して左頬に渾身のストレートかましてやれ」
「それはどういう……うわっ」
僕の疑問に答えず、先輩は僕を窓の外に引きずり出した。
「これは出血大サービスだぞ! おかげでオレはまだしばらく幽霊生活だ!」
もう、僕には先輩の言っていることがわからなかった。先輩につかまれている襟元が苦しい。もう死んでしまっているのに、苦しいとか感じるんだな。
相変わらず教室では亮太が泣いていた。おい馬鹿。僕はこっちにいるんだぞ。
悪態をついた瞬間、亮太がこちらを見て、視線が合った気がした。
同時に先輩はその手を放した。一瞬で先輩の姿が遠くなる。
空の色は違うが、数時間前にも同じような景色を僕は見たことを思い出した。
「あ」
瞬きをした一瞬、最後に見えたのは、意地悪そうに口角を上げる紅先輩の整った顔だった。
気がつくと僕は教室にいた。背中に暑いくらいの日差しを浴びている。
「おい、聞いてんのか」
目の前にはあの憎たらしいにきび面。
その後ろには、細眉たれ目と、しゃくれ顎が控えていて、ニマニマと笑っていた。
僕は教室を見渡した。何人か生徒と目があった。すると、すっと目をそらす。
どうやら僕が見えているらしい。
僕はおもむろに亮太のいるほうを見た。彼は怯えた表情で僕を見つめ返した。
なんということだ、今、僕は生きているらしい。
しかもこれは僕が死ぬ直前の場面じゃないか?
「おい、中井の分際で俺を無視しようってのか!」
村瀬がわめき散らす。たかがヤンキーごっこの分際で何を威張ってるんだ。
僕は頭の中で先輩の言葉を思い出した。
もう二度も転落死を経験したんだ。
「一発くらいなら…」
「ああ?」
村瀬が威圧するような表情をした。
「死ぬより怖くない!!!!」
僕はぐっと脇とこぶしを締め、村瀬の左頬に、思いっきり渾身の右ストレートをかました。
不意を突かれた村瀬は後ろに転がる。尻餅をつき、目を見開いて、口元をわなわなと歪ませた。そ
の後ろでは、長野と山口が呆気に取られた顔をしていた。
「お、お前!中井の癖に…何しやがる!」
殴られた左頬を押さえ、まだいきがる口は止まらない。
「お前みたいなの一発くらい殴ったって、バチあたんねーって先輩が言ってたから。あと、その髪型、ベタベタで気持ちわるい。洗って来いよ」
「わ、わけわかんねーよ! なんだよコイツ! 頭おかしくなったんじゃねーの?!」
そう言い残し、村瀬は長野と山口に連れられ、教室から走り去っていく。
この直後、教室は拍手喝采の渦となり、僕はクラスメイトから褒め称えられた。
その歓声の中で「よくやった少年!」と先輩の声が聞こえた気がした。
僕は慌てて見渡したが、教室の中にも、窓の外にも先輩の姿を見つけられなかった。
村瀬を殴った右手がじんじんと痛んだ。
僕は白昼夢でも見ていたのだろうか。
だけど、もう二度も転落死する夢なんて、二度と御免だ。
大学課題の習作。
10,000字指定かつ一人称形式の小説。