モディキャラ小説を書いてみようか。
どうもこんにちは、来夢 頼人です。
いや、こういう思いつきのエッセイはね、ペンネーム変えないと恥ずかしくて公開できないですよ、はい。
「〜みようか。」というタイトルですがね、私は書く予定はない。今のところは。
ただ、こういうのどうだろうって思いついたので、とりあえずその形だけを記してみることにしたのです。
そして、私はこういうことに詳しくはないので、もしかしたら同じようなことを言っている人が世の中にはいるかもしれません。まあ、所詮は人間ですからね、似たようなことを言っている人はいるでしょう、はい。
でもまあ、あえて調査をせず、思ったままに書いてみますね……。
私は以前、映像のシナリオ講座みたいなものを受講したことがありまして、そのとき、人物の設定、俗にいうキャラクターが大事だっていうのを学んだのですよ(いや、「キャラクター」ってカタカナで書くと俗っぽいですが、れっきとした英単語なわけでありまして、本来は俗語ではないのですが……)。
わかりやすくいうと、
「どこにでもいる普通の高校生」なんて設定じゃ、お話にならないじゃないか。キャラクター同士の利害関係やら何やらでストーリーが生まれてくるんだから、もっとしっかりキャラクターを作らないと。
はい、まあもっともなことですね。
多くの場合、特に主人公に何か特徴だったり光るものがないとお話になっていかないですものね。というか実際、どんな人間にだってそういうものはあるわけで……と、なんかこういう話をしていると、私が以前、宗教観などがわからなくて読むのを投げ出してしまった『カラマーゾフの兄弟』の前書きを思い出します、はい。
それと、伊坂幸太郎原作の映画『グラスホッパー』を観て、「主人公が何もしてないじゃん」って突っ込む人もいるけれど、あれはだって、彼一人が主人公じゃないじゃん。彼は単に巻き込まれた一般人であって、観客にとってはそういう視点が必要で、主人公というとむしろ山田氏や浅野氏の演ずる殺し屋たちのほうが……、それに、何も成せなくても充分魅力ある人物じゃん……、なんて言っても、ご存知ない方には胡椒の丸吞みですね、はい、ごめんなさい。
ま、何が言いたいかっていうと、「キャラクターが大事だぜよ」ってこと。これが前提。
で、ここからが絵郎による……じゃなかった、頼人による思いつきの提案? みたいなものでありまして……。
モディリアーニって画家がいるでしょ。……。
……ええ、いるんですよ、モディリアーニ。モジリアニという表記もありますがね。エコール・ド・パリの画家ですね。ほら、猫と一緒のレオナール藤田なんかも活躍していたエコール・ド・パリ。私は愛猫家の友人に、藤田の猫の絵のポストカードをプレゼントしたことがありますよ、はい。
で、その藤田……ではなく、モディリアーニの描く絵って、特徴的で、みんなどこか、おんなじような感じがするでしょ? するんですよ、ええ。アーモンド型の目ってよく言われますね。それと、面長だったり、首が長くて、ヴィーナスみたいに傾げられていたり。どこか陰があって、哀愁漂うなんともいえない人間味。
魅力的なんですけどね、その、魅力的かどうかっていうのはおいておいて、非常に様式的でもあるわけなんです。普遍的な人間。どこにでもいる……という表現はちょっと違うかもしれないですが、どんな人間でもうちに秘めているような、共通した何かが前面に出ているんですよね、モデルの個性というよりも。
そこで私は閃いた。これって、小説(あるいはシナリオ)でもできるんじゃないか、と。
つまり、それぞれ個性を持っているはずの登場人物を、あえてみんな一様に、同じように描くんです。個性的な性格描写を避けて、みんなおんなじように描くんです。
もちろんそれは、個々の性格を考えなくていい、というわけではない。そんなことでは、「どこにでもいる普通の高校生」が主人公の冴えないお話になってしまう。登場人物個々のキャラクター造形をしっかりと練ったうえで、あえて普遍性をデフォルメして、個性を覆い隠すって寸法なわけです。これこそ、頼人の名付けた「モディキャラ小説」。
……なんて、ここまで書いてみて、やっぱりこういう考え方は誰でも思いつくようなもので、すでに唱えている人が大勢いそうな気がしてきた。モディリアーニって結構有名ですし……。有名なんですよ、ええ。
でも、なろうの作家さんたちにとっては、そんなに耳慣れた創作論ではないかもしれません。現に私が「ユリイカッ」って感じなのですから。……私が鈍いだけ?
まあ、そんなこともあって、なんとなあく恥ずかしいので、今回は檸檬 絵郎ではなく、来夢 頼人なのでした。
……そういや、ライムライトの「ライム」って、「石灰」って意味なんですってね。スペル同じだけど……、シトラスのライムじゃないんだ……。