出逢い
「……で? なんにする?」
「はい?」
間の抜けた返事に、バーテンダーは大げさに両腕を広げた。
「あのなぁ、ここはバーだぜ。そして、にいさんは自分の足で入ってきたんだ。なんにも注文しないってこたぁないだろう」
自分の足でという部分に、反論したい衝動が湧き出た。しかし、これ以上ややこしい展開にはしたくなかったので、素直に注文することにした。
「あの……、メニューは?」
「ここには、そんな洒落たもん置いてないよ。この中から好きなの選びな。食いもんを所望なら言ってくれ。大抵のもんなら作れるつもりだ」
「そうですか……。じゃあ、オレン……」
「オレン?」
「あ、いや、ちょっと待ってください」
状況を理解しようと頭をフル回転させているせいか、妙な計算が働いた。
ここは酒場だ。しかも、客層はお世辞にも品がいいとは言えない。こんなところでオレンジジュースなど頼もうものなら、柄の悪い連中が寄ってきて「おいおい、ここはいつから託児所になったんだ」なんて絡まれるに決まっている。
考えで出した結果は、堂々と酒を注文し、それは置いておくだけで飲まない、だった。
「……じゃあ、その、マスターの後ろに置いてあるやつを一杯」
「ん? どれだ?」
「それです。その透明のヤツ」
それを選んだのに、特に理由はなかった。強いて言うなら、透明だからミネラルウォーターを連想したといったところか。
バーテンダーは口をへの字に曲げ、光来を見つめた。和やかに話し掛けてくれていたバーテンダーとの間の空気が、少しだけ濁ったように感じられたのは気のせいか。
「へえ……、人は見掛けに寄らないって言うけどね……」
言いながら、グラスを置き、光来が指差したボトルに入っていた液体を注いでくれた。グラスは猪口よりも一回り大きくし、背を伸ばしたような形をしていた。
なんだ。妙に小さい器だな……。
覗き込むように見つめると、グラスの周りの空気が揺らめいていた。
なんじゃ、こりゃぁ!
声を出さないで叫んだ。
アルコールが蒸発して、背景が歪んでるじゃないか。度数いくつだよ!? ムリムリムリムリムリ! こんなの飲んだら、体中の血液が沸騰しちまうっ!
「おい、こいつ、スーアサイドなんか頼みやがったぜ」
背後から、いきなりガラが悪い声がした。振り向くと、頭がトカゲっぽい獣人が二人立っていた。光来が異質すぎて、今まで遠目で様子を覗っていたらしいが、バーテンダーと普通に会話していたので、与し易いと踏んだようだ。
「おい、早いとこ飲んでくれよ。スーアサイド、つまり、自殺って意味だ。そいつを飲んでるやつ、今まで見たことないんだ。ぜひとも、見てみたいぜ」
そいつの挑発的な目で、絡まれているのだと分かった。不思議なもので、頭がトカゲだというのに、不良とかチンピラが醸し出すのと同じ匂いがした。胸の辺りに重石を乗せられたような、なんとも嫌な感覚が襲い、手を当ててもいないのに心臓の鼓動音がはっきり聞こえた。
「早く飲まないと蒸発してなくなっちまうぜ」
うなじがピリピリと刺激された。
「なあ、俺たちの期待を裏切らないよなぁ」
額がうっすらと汗ばんだ。
「おい、なんとか言えよ。俺たちの高揚感をどうしてくれんだよ」
ちくしょう。見ず知らずの俺にちょっかい出して、なんか楽しいのか。いいから、ほっといてくれよ。
熱い屈辱が蓄積されていった。しかし、言い返そうなどとは微塵も思わなかった。原因は決して恐怖だけではない。
子供の頃から思っていた事だが、自分には闘争心というものが決定的に欠落しているのだ。心の中には、爆発を待つ圧力釜みたいな高まりを確かに感じるのだが、本当に破裂させたことなど、ただの一度もない。その時はひたすら耐え忍んで、後日、想像の中だけで、相手を徹底的に叩きのめす。いつの間にか身に着けていた処世術だ。
おかげで、大きな争いに発展したことは一度もないが、必ず、悶えるような惨めな感情が付いて回る。
飲んでやる。一気に飲んで、気を失うなりゲロを吐くなりすれば、満足するだろう。こんなわけの分からない環境に放り込まれてまで、後ろ向きな対処法しか頭に浮かばない。くそっ、なんだってこんなめに……。
そろそろとした動作で手を上げたが、グラスを掴む前に、横からさっと伸びた手に奪われた。えっ? と思う間もなく、取り上げられたグラスは、かっと一気に飲み干された。
うそだろ?




