静寂の中で
静寂が訪れた。さすがに人通りが少なくなってきたので、あちこち歩き回るのを止め、偶然見つけた納屋に身を隠した。近くで果物屋を営んでいる家庭があるのだろう、中は様々な果実が保管されており、甘い香りで満たされていた。緩衝材に使うのか、角には藁が山と積まれていた。持ち主は不用心な性格らしく、鍵は掛かっていなかったのですんなり入れた。
「どうやら、今日のワタシにはツキがあるみたいね」
「俺の方は見放されているみたいだけどね」
リムとは対照的に、光来は口を尖らせた。疲れが不機嫌を招いている。
「あっち向いてて」
「んっ、なに?」
「着替えるから、あっち向いてって言ったの」
「あ、ああ。着替えね」
光来は、なにもこんな所で着替える必要はないんじゃないかと思ったが、素直に背中を向けた。同じ部屋の中で女の子が着替えをしていると思うだけで、落ち着きがなくなってしまう。高校生にもなって、さすがに情けないかなと思った。
「もういいよ」
光来がゆっくり振り向くと、リムは酒場で出会った時と同じ格好、つまり男の格好に戻っていた。
「また変装したのか?」
「変装というより、こっちの方が動きやすいから」
「ああ、そうか。そうだな」
「まあ、派手な動きなんて、列車に飛び乗る時くらいだと思うけどね」
男装をしたリムは、普通にしゃべるだけで背徳的な色気を漂わせた。もちろん、そんなこと、わざわざ口には出さなかったが……。
二人並んで、藁を背もたれ代わりにして座った。疲労が溜まっている光来には、腰を下ろせるのがありがたかった。
「ねえ、さっきのカラクリ、もう一度聴かせて」
「いいけど、時間は大丈夫か?」
リムは懐から懐中時計を取り出した。かなり年季の入った時計で、所々に汚れが浮いている。細かい装飾が施されており、時計館に置いてあったホールクロックを思い出させた。女の子が懐中時計を使っているとは、なにか新鮮で格好よく見える。
「あと一時間以上ある。休んで英気を養いましょ」
「凝ってるデザインの時計だね」
「父の形見よ」
「え?」
「ほら、あなたは外を見張ってて。かなり駅に近づいたとは言え、油断はできないんだから」
リムはそう言うと、イヤホンを装着して目を閉じた。
親の形見か……。俺の両親ってどんな人だったんだろう。ふと、そんなことを考えてしまい、慌てて否定した。
朧気ながら、幼い頃の記憶がある。本当に、掌に載せた粉雪のように頼りない記憶だ。
俺はどこかの森の中で泣きじゃくっていた。どれくらいそうしていたかは分からない。何時間もそうしていた気もするが、ほんの数分だったかもしれない。とにかく、二人の大人に保護された。優しい言葉を投げ掛けてくれたように思うが、なにしろ記憶が曖昧で、細かいことは思い出せない。
その二人は、しばらく一緒にいてくれたが、あちこちに連れ回され、いつの間にかいなくなっていた。様々な経緯を経て、俺は孤児院に預けられた。だが、そこでも思い出は驚くほど少ない。すぐに引取人が来てくれたからだ。二人は満面の笑みで光来を迎えた。あの森で保護してくれた二人だとすぐに分かった。夢の中のような思い出だが、あの時の嬉しさだけは輪郭を失わない。それほど不安の只中にいたのだ。その二人こそ、光来を今日まで育ててくれた城戸高志と綾なのだ。
二人とその頃の話をしたことはない。しかし、なにかの拍子に、一瞬だが不安な表情を見せることがある。本当に刹那と言える一瞬なのだが、長く一緒に生活していれば、ちょっとした仕草で心の機微は分かる。不安の原因を聞いたことはないが、血の繋がりがないことに関係していると思う。それでも、俺の両親はあの二人以外にはいない。感謝してもしきれないくらいの愛情を注いでもらったのだから。
ただ、たった一つだけずっと引っ掛かっていることがある。俺の記憶は、森の中で泣いているところから始まっている。それ以前のことはなにも覚えていないのだ。もしかすると、実の親がどこかで生きているかも知れない。実の親……。今さら、どうでもいいことなのだが。
「そろそろ出る準備をしましょう」
はっと我に返った。いつの間にかもの思いに耽っていたようだ。リムから返してもらったスマホで時間を確認した。二十三時四十分。やはり自分がいた世界とは、ほとんど時差はない。つまり、一時間が六十分という概念も同じということだ。
それにしても、音楽を聞きながらリラックスしていたと思っていたのに、こんなに正確に時間の経過を意識していたとは……。改めて、リム・フォスターという女の子は、常に緊張を纏っているのだと思い知った。
「聞いたことのない音楽ばかりで楽しかった。魔法がないなんて不便そうな世界だと思ってたけど、案外、住みやすい世界なのかもね」
「んー。地域によるかな。未だに戦争しているような国だってあるし。貧富の差が大きなところだってあるし」
「そうなんだ。どこも似たようなものなのかもね」
「でも、少なくとも俺がいた街はいいところだよ。今度、遊びに来なよ」
「行けるならね」
リムはくすっと笑って立ち上がり、納屋から出た。
「……行けるさ。俺は絶対に帰るんだ」
光来も続いて立ち上がった。




