飛行機とマイナス妄想癖
耳にイヤフォンを押し込んで、三角マークをタップするだけで少し落ち着く気がした。
激しいギターと無茶苦茶なドラム、指がおかしいんじゃないかというくらいに速いベースの運び。それらは全て俺のリラックスの為に鳴らされる。
足元は小刻みに振動している。きっとこの下にはエンジンがある。
どんどん加速していく機体、ガタつく周囲。このまま壊れてしまわないかと酷く不安を感じる。
嫌な浮遊感を感じれば、後部にあった赤ちゃんの泣き声は次第に小さくなってきた。
機体は斜めに傾き、自分の体も背凭れに押さえつけられる。
耳が詰まる感覚。肺が少しだけ圧迫されている気がする。
耳が痛い。心なしか足も浮腫んでいるような。
ああ、怖い。嫌な妄想だけがパン生地みたいに膨らんでいく。そのまま破裂してしまいそうだ。
飛行機に乗る前。俺は酷く落ち着きがなかった。
同じ便に乗る人間に死相が出ていないか(死相なんて見てわかるわけがないのに)、子供や赤ちゃんが嫌々をしていないか(腹が減ってるだけかもしれないのに)、天気の変化が怖くてケータイを何度も開いたり(今日はずっと晴れているのに)しては、キョロキョロと辺りを伺って妄想を育てた。
そんなにしょっちゅう飛行機が落ちるわけがない。日本の技術を甘く見るなよ。
そして妹よ、「今日落ちそうじゃない?」とか俺に聞くのではない。神のみが知ることを俺に聞いて不安を煽るな。お前だけが落ちるがいい。
落ちるという単語を連呼するのはとても不吉な気がする。もう止めよう。
そうだ。楽しい事を考えよう。
今年もパイナップルが豊作だとか、雪景色の中で散歩する動物園のペンギンだとか。
小説の構成についてでもいい。今度の修学旅行の事だとか……。
そう思っていた矢先、目の前の老人(確か老人だった)が背凭れをさげてきた。
マジで巫山戯んな、俺のテリトリーが狭まるだろ。今すぐにあげろ。
まあ、そんな願い届く訳がない。こういう奴は結局、着陸までそのままの傾きにしておくんだ。後ろの人間の迷惑も考えやがれ。
目の前の席を蹴ってやりたい衝動に駆られるが、それは人道的でない。いつか不幸になれ。飲み物をひっくり返して恥をかけ。
アルバムも中盤に差し掛かり、バラードが耳元で流れ始める。
何気なく顔を上げると液晶テレビが目に入った。他愛の無いニュースが表示されている。もっと気の利いたものは流せないのか。
つまらない。つまらない。
何かしていないと、恐怖で気が狂れてしまいそうだ。
おもむろに雑誌を取り出しては(これは前の席のポケットに入っている)パラパラと目を通す。
これもダメだ。行きの便で読んだ物と内容が大差ない。
バックやネックレスなんて買う気は起きないし、かといってカップヌードルを箱買いする気も無いし、まずそんな金もない。
今はどのへんだ?どこを飛んでいる?海の上か?
左を向いて窓を覗き込んでも、広い水色の下に厚い雲があるだけだ。
それと同時に、少しだけ心臓が静かになった気がする。
この高さなら雷が落ちることも、鳥が巻き込まれることもないだろう。
ただひとつ気掛かりなのは、隕石の存在だ。
きっと奴は俺の乗る飛行機に目掛けて飛んでくる。俺を殺すつもりだ。まったく、本当に迷惑な野郎だ。
ああ、くそ。隕石のニュースも確認しておけば良かった。
何故今日落ちるのかもわからない災害にこんなに気を張らなければならないのだ。クソが。
キャビンアテンダントが台車(子供の背丈くらいあり、冷蔵庫が埋め込まれている。台上には飲み物が入ったプラスチック容器が何本もある。生憎アレの名前を俺は知らない。)を引いてこちらに近付いて来る。
プラスチックのカードを客の前に差し出しては「お飲物は何になさいますか?」と尋ねている。
これがサービスである事は昔から知っている。
前方左右の客に注文を聞き、飲み物を提供したのち、彼女と荷台?は俺の席の横についた。
「お飲物は何になさいますか?」
右側の廊下から差し出されるメニュー。
数年前はこのメニュー表は無く、口頭でメニューを言われていたことを思い出す。
初めて乗った時は(俺の記憶に残っている”初めて”である。)確か小学生ぐらいの時だった筈だ。
祖母が亡くなり、葬式の為に田舎に帰らなければいけなくなったんだっけか。
口頭でメニューを説明され、「何になさいますか?」と聞かれた暁には小さな声で「……オレンジジュース…」と言ったんだっけか。
そんなサービスがあると知らなかったから驚いたし、耳が痛いから唾を飲むので必死であったから、先の説明なんて忘れてしまった。
だから俺は好きでもないオレンジジュースなんかを頼む事になった。まあ、不味くは無かった。
メニュー表を指差しながら「スープお願いします」と告げれば、キャビンアテンダントは「はい」と返事をして、台上のキツネ色の液体の入った容器を掴む。
イヤホンを付けたままの対応にバツの悪さを感じながらも、目の前に簡易式のテーブルを出してやる。
自分が出さなければキャビンアテンダントの仕事を一つ増やしてしまうからな。
目の前の老人は相変わらず背もたれを大きく傾けているが、机は真っ直ぐに出る。やはり最近の飛行機は進化している。
感極まるが、老人よ。いい加減に背もたれを上げてくれ。圧迫感を感じて仕方がない。
目の前に色の薄い腕が割って入る。
紙コップを置く役目を果たしたその手は、また台の取っ手に添えられた。
すぐさま後ろの方で「お飲物は何になさいますか?」と聞こえる。
台は自分の真横に鎮座しているが、これも圧迫感を感じさせる。早く消えてくれ。
紙コップを掴んで口元に運ぶ。
口内で甘味と旨味の効いた液体が広がり、温かさを残したまま喉を通る。
気分はとっくに落ち着いていた。
アルバムも既に二週目に入っている。
既に子供も泣き止んでいた。きっと過去の俺よろしく、あのクソ甘いジュースを飲んでいるのだろう。
ああ、そういえば。と追想を始める。
先は小学生の頃に初めて飛行機に乗った、と言ったが訂正させて欲しい。
何故なら、それよりも前に一度だけ乗った記憶があるからだ。
いつの頃かは忘れたが、始終機内で泣いていた事だけは覚えている。
飛行機の上昇の際に気圧が変化するのだが、未発達な耳(つまり子供の耳)ではその変化に対応出来ず、耳の奥から頭にかけて激痛が起こるのだ。
それは過去の俺も例に漏れず、初めて?乗った飛行機で地獄を見た。
両親の「唾飲んで!唾!」という声も聞こえないくらいの激痛。転んだ時とは違う痛みで、不安と痛みで無様なほどに泣き喚いてしまった。
あの時にはキャビンアテンダントさんにも他の乗客にも迷惑をかけただろう。申し訳ない。
困ったキャビンアテンダントさんはカゴの中に沢山の宝石を入れて、痛みに苦しむ俺の前に差し出したんだっけ。
「あめ、美味しいよ。あげる。」
優しそうに微笑む彼女の顔はもう思い出せないが、口の中に広がった苺の味だけは今でも鮮明に思い出せる。
安っぽい味だったが、とても美味しかった。ああ。不味くは無かったさ。
父の実家が北海道にあるせいで、俺は何度も何度もこの飛行機に乗らされる羽目になった。
耳が痛くなるのを嫌がり、飛行機に乗る事すらも嫌がった俺は、両親に特殊な耳栓を買わせてしまった。…いや、でもあれはいい買い物だ。
まったく、とまでいかないが、耳の痛みは結構改善されたからだ。
確か、あの頃は飛行機自体を怖がっていなかった。むしろ好きだった。
中学生になって、高校生になって、知識は積み上がっていった。
飛行機が落ちるという事は分かっていたが、それでも怖くはなかった。「こんなに便利なものがあるなんて」と思っていた。
東京から北海道まで二時間以内に辿り着けるのだ。これほど早く便利なものはないと思っていたのだ。
しかし祖父が亡くなってから、印象が少し変わってしまった。
祖母が亡くなった時よりも死の身近さを思い知らされたのだ。
がんで亡くなった祖母と違い、祖父は急死した。元気だったのにいきなり心臓が止まり、そのままあちら側に行ってしまったのだ。
死は突然に襲ってくる。
祖父が老人だからというのもあるが…そうだ、クラスメイトが事故にあって亡くなってからも、死が怖くなったのだ。
人間なんていつ死ぬのかわからない。
交通事故、病気、海難、殺人、そして乗り物のトラブル。
いつかのニュースで「飛行機が墜落、死者は120人。」なんて悍ましい報道を聞いてしまってから、飛行機は恐怖対象に変わったのだ。
空から落ちる。落ちる。
なんて恐ろしいことなんだろう…!
羽が折れる、エンジンが壊れる、機長が操作をしくじる、電気がおかしくなる、点検ミス、エトセトラ。
可能性なんて上げるときりがない!
空を飛んでいる時点で、俺の生死はこの馬鹿でかい乗り物に預けられているのだ。
シュレーディンガーの猫の法則みたいだ。飛行機が到着するまで、俺は生きているのか死んでいるのかもわからない。
恐ろしい。それがただただ恐ろしい。
ニュースで俺の名前が読み上げられたらどうしよう、新聞に俺の名前が載ったらどうすればいい。
どうしようもない。俺はとっくに死んでいるんだ。
暗くなった機内を見上げる。
今寝れば。今寝れば死んだ事にも気付かないまま死ねる。死の恐怖に震える事もなく、夢の中で死ねる。
……それは最高だ。
再び激しく鼓動を始めた心臓を落ち着かせるように、ぬるくなったスープを胃に叩きつける。
エンジンの稼動音、雲の中を巨大な鉄の塊が通る音。それだけが機内を満たす。
不意に鼻をすする音が煩わしく耳につく。こんな時に泣くな妹よ。
耳が痛くなるなんてお前もまだまだ子供だな。だが煩いし俺の不安を煽るだけだ。お前だけが爆発しろ。
ぽぉん、と電子音。
続いてアナウンス。
どうやら後20分で着くらしい。
早く着いてくれ。俺を生かしたまま本州に辿り着いてくれ。
つーか誰か俺の座席を蹴っていないか?尻のあたりがずっとぽこぽこ跳ねているぞ。
それともエンジンが壊れたのか?それだけは勘弁してくれ、こんなに大勢で心中はしたくない。
外は真っ暗で何も見えない。
嫌な予感がしてきた。いや、違う。また嫌な妄想が始まってきた。
突如、がくんと浮遊感が身体を襲う。
胃が持ち上げられる感覚に、昼飯を吐きそうになる。
遊園地のアトラクションじゃないんだぞ。勘弁してくれ。
いいから、早く着いてくれ!
耳が詰まるたびに唾液を飲み込む。アルバムは既に三週目に入っていた。いや、下手したら四週目か…?
前方にあるテレビにも暗闇が映されている。最悪だ。誰か俺に気晴らしをくれ。
キャビンアテンダント達の姿も見えない。まさか「落ちる」と確信して機長共々脱出したとかないよな?そうとなったらマジでぶち殺すぞ。
20分。20分。以外と長い数字だ。
機内モードになったケータイを見てみると残りの電池は18%。これじゃあ家に帰るまでには電源が切れてしまう。
皮肉な事に、俺の妄想は「死」と「生」の半々でぶつかり合っていた。
死ぬ妄想をしながらも生きながらえる妄想をしているのだ。
妄想したって、本当はどうなるかはわからないのに。
ふと目についたのは安全のしおり。何度も読んだせいで内容は頭に刷り込まれているが、多分役に立つことはないだろう。
海に落ちるとかは絶対ないだろうし。海上を飛ぶ時間と、陸上を飛ぶ時間だと圧倒的に後者の方が多いからだ。陸上で墜落したらもう一撃だ。マニュアルなんて役に立たない。
こんな物に平然と乗る人間の気が知れない。死ぬかもしれないのに。シュレーディンガーの猫なのに。
ああ妄想が膨らむ。どうか弾けてしまわないでくれ。その瞬間に俺は絶叫しながら席を立ち、暴れながら他人に危害を加える事になりそうだ。
気が狂れそうだ。
ガタガタと機体が振動する。
ゆっくりゆっくり下降していってるのだろう。
曲に耳を傾けられなくなってきた。下界の音だけを気にし始めてきていた。アルバムが何周したかなんて知らない。ボーカルの声すら遠くに消えていく。
ああ、殺さないでくれ。殺さないでくれ。
死に美を見出している(不謹慎極まりないとは思ってる)俺だが、きっと自分が死ぬとなると美もクソもない。
痛くて苦しくて寒くて孤独なんだろう。向こうの世界だってきっと真っ暗で何もない。天国なんてない。地獄よりも悲しい世界しかないんだ。
嫌だ。どうか俺を殺さないでくれ。
書きかけの小説もまだ終わっていない。友人達への土産を遺品にして欲しくない。
あと何分だ?何分で着く?
周囲で手鏡をしている奴は?
いない。
不自然な黒い影はいないか?
いない。
なら月と並ぶ星は?
いない。
死相、死相の浮かんでいる奴は?
いない。(というか死相なんてわからないと言ったろう。)
……落ちないか…?
また今回も無事に帰って終わるのか…?
外は真っ暗だ。ケータイの時刻は18:14を指している。
もう20分経ったろう?早く下ろしてくれないか。
いや、下ろすって言っても墜落の意じゃなくてだな。
フォォン。ガタガタ。ガタガタ。
不気味な音とともに右へ左へ体が揺れる。
ああ、マズイ、この辺りは雷や鳥の当たる位置だ。あと雨。それに竜巻。台風。ああ、あと隕石とUFOだ。
窓を見ると、下方では星が輝いていた。
白が多いが、赤や青、黄もある。
思わず機体が反転したかと勘違いした。
あれはただの光だ。都会の、点々とした、人工的な光。それが星に見えただけだ。
ここから落ちても…………いや、矢張りタダじゃすまなそうだ。
いいから早く降りてくれ。だが揺らしたら承知しない。これはスリルを楽しむ為に乗るものではないのだから。粋な計らいはしないでくれ。
ガッタンと体と機体が跳ねた。
星は大きく真横に見えた。右から左へ、流星群のように過ぎ去っていく。
目の前の老人は椅子を上げた(おせえんだよ)。
何人かの人間がシートベルトを外す音がする(早とちりをするな)。
どうやらさっきの衝撃と同時に着陸したらしい。
今は滑走路を走っているが、これならもう大丈夫だろう。
アナウンスが入る。
「只今、東京羽田空港に到着いたしました。気温は24度です。北海道よりお越しの皆様には暖かく感じるでしょう。当便をご利用くださいましてありがとうございました…シートベルトは…………」
24度。………あ、ああ、確かに機体の中も蒸し暑い気がする。
向こうは冬のような気温だったのに、こっちはまだ夏が残っているようだ…。
明かりが付き、シートベルト着用のライトが消える。
それと同時に、さっきまでの妄想も綺麗さっぱり追い払われた。
箱を開けたら猫は生きていたのだ。
まったく、俺は猫でもモルモットでもないんだから。いい加減にしてくれよな。
俺は手早くシートベルトを外し、リュックを背負って通路を歩む。
……やっぱり飛行機は便利だが好きにはなれないな。
遅れてついてくる両親と妹を尻目に、冷静さに冷え切った心臓を抱えながら、東京への一歩を踏み出した。