「the end of」
朝、それは目覚めの時間だ。
重い瞼を開きながら一日の始まりに陰鬱とした愚痴を啄ばむ。この悪あがきのような行動を誰もが一度はしたことがあるのではないだろうか。
「ううん、朝か……」
少し大きめのベッド、机の上に置かれた無機質な筐体に、ちまちまと集めていた玩具が並べられたディスプレイ。その向かいには集めに集めた本がしまわれている本棚が屹立していた。
もはや見慣れた自室を見回し、壮介は頭を搔いた。
「……そっか、もう夏休みに入ったんだっけ」
こんなことなら起きて損をしたと思わず顔をしかめたかと思うと、もう一度布団へと潜り込めるということに気づき頰を緩める。
息を吐き再び眠りへと向かおうと再びベッドに横たわると、壮介の部屋の扉が音を立てて開いた。
「おはよ……、ってあれ、今日は早いね。 どしたの?」
開かれたドアからひょこりと半身を出し、妹ーー浮月はこちらを不思議そうに見る。
朝方だからか普段よりテンションの低いのだろうか、気怠げな声が耳に残る。
「浮月、せっかく来てくれたところ悪いけどお兄ちゃん休みの日はゆっくり寝る派なんだ……」
布団の中から顔だけを出しつつ口を開く。先日の件をまだしっかりと謝っていなかったので、どことなく後ろめたさを感じるが、彼女の様子を見るにもう気にしていないのだろうか。そう思いつつもかけ布団の中に潜り込む。
「ぅえ? 何言ってんの? 夏休みはまだ1週間後だよ。 いくら起きたくないからってダメダメ、布団剥ぐよ……?」
「……? いやいや妹よ、お兄ちゃんは騙されないぞ。ほら、文明の叡智スマートフォンを見るがいい」
思ったものと毛色の違う返答に淡い疑問を浮かべつつも、薄い液晶を妹へと向ける。最先端のからくり仕掛けに裏付けされた日付表示には、流石の彼女も打ち勝てないだろう。
しかしそう思っていた壮介に帰ってきたのは、想像とは違い呆れの入混じった返答であった。
「七月十六日って書いてあるけど……ほらぁ、寝ぼけてないで用意して」
「へ? そんなはずは――」
冗談とも思えないトーンでそう返され、壮介は自らのスマホを確認する。
すると目に入ってきたのは、壮介の思った通りの八月真っ最中ではなく、紛れも無い七月の並びだった。
「あれ? ……あれっ!? 」
「にいちゃ……お兄ちゃん、だいじょぶ? なんか嫌な事でもあった?」
冗談ではなく本当に布団を剥ぎ取ろうと近くまで来ていた浮月が、その身を屈ませてそう言った。ちょうど横たわった壮介と目線の合う高さに居座るふたしずくの黒い瞳には、壮介の間抜けな顔が映りこんでいる。
「い、いや、そっか、まだ夏休み前だよな。うん。 ……なんか、寝ぼけてたみたいだ」
「ならいいんだけど…… あ、お弁当は昨日の夜に作っといたから冷蔵庫。朝ごはんよろしくね、お兄ちゃん」
「はいさい」
「はいはいでーびるでーびる」
そう言ってひらひらと手を振りながら廊下へと消えていく我が妹。
「なんか、頭痛い」
どこか釈然としない壮介であったが、何度見ても変わらない画面に疑問符を浮かべながら、いわれた通り朝の支度へと動き出した。
▽▽▽▽
放課後の廊下を一人静かに歩く。
朝の奇妙な目覚めから時は過ぎ、いつも通りといえる学校生活を終えたころには、太陽はその輝かんばかりの気勢をしぼませていた。時刻は四の針を回る頃だ。
「こんちはーー」
迷路じみた校舎の果て、少し古ぼけた引き戸を開けると、部屋の中へと声をかける。鼻腔をくすぐる紙の香りに、少しばかり涼し気な空気が頬を撫でた。いつの間に飾ったのか一つ吊るされていた風鈴が小さく揺れる。
戸の向こう側には、背の低い円形のテーブルに身を寄せた大柄な男性がでかでかと座っており、こちらに手を挙げていた。
「よう壮介、待ってたぜ」
「……相変わらずミスマッチっすね、やっさん」
ここは、壮介の所属する文芸部の部室である。
この学校の体育の教師でもある顧問のやっさん。その無骨な手には、その容貌とは似ても似つかない可愛らしく印刷された仮想の美少女たち……有り体に言えばアニメのファンブックが握られていた。
「おいおい壮介よ……忘れたのか? 昨日も言っただろうがここは文芸部、紳士淑女たちが本と触れ合う憩いの場だぜ? 」
向けられた視線に余裕綽々と言い放ち、同時にシュバッっともう片方の手がポーズを決める。その動きは何故か中々に堂に入ったものである。
「たった一人の淑女が辞めちゃいそうなんでやめてください」
「にはは、まあ、取り敢えず上がれよ」
かわいらしいイラストの描かれた冊子を片手によくもこう雰囲気を出せるものだ。そう感心しながら靴を脱ぐ。なぜかこの部室は入り口から一段上がると畳という謎の構造をしていたが、慣れた今では安心感さえ湧いてくるのだから不思議なものである。
「これ、生徒に見せていい物なんですかね」
机の上にはコップに注がれた麦茶、それに何枚もの資料が置かれていた。普段は何事も几帳面にこなす彼なので、こんなにも散らばった机上は割と珍しい。
「お? あー、すまんな散らかってて。 麦茶飲むか?」
「飲みますけども」
部の居城のすみにある小さな流し台、その傍に設置された食器棚から名前付きのコップを取りつつ、そう答える。
ふと額から流れた汗をぬぐった。
そろそろ本格的に夏に入ったのか、じっとりとした暑さが肌につく。風に揺られて鳴る風鈴の涼にも限界が近づいていた。
とぽぽぽっ――。
これまた部屋の隅に取り付けられた小型の冷蔵庫から取り出された麦茶が、コップに跳ね返り小さく音を鳴らす。
しばらくぶりの音色を耳にしながら、壮介は額に浮かんだ汗を拭った。
「おっと、いっけね注ぎすぎた。すまん壮介、零さんように飲んでくれ」
「ぶっ! 表面張力使わないでくださいよ! 盛りこぼしじゃないんですから ……ありがとうございます」
注がれた琥珀色の液体を喉へと運ぶ。冷たく澄み切った麦茶。それが喉を支配してゆく感覚が心地よく広がっていった。
「うぐぐぐぐ……」
ゴクゴクと麦茶に喉を鳴らす壮介。すると目の前で、体育教師が呻き声と共に伸びをする。
「それにしても暑っちいよなぁ最近、もうすっかり夏だなこりゃ」
「今日学校来る時にもう既に暑かったですもん、日本はもう南国ですよ、南国」
「にははっ、違いねぇ。そういや、壮介お前あのニュース見たか? 日本に熱帯魚が〜云々の」
「あ〜、知ってます知ってます。放された観賞魚達が野生化したんでしたっけ? そのうちピラニアでも出るんじゃないですか」
壮介は知っていた。
こないだチラリとつまみ見たネットニュースの記事を思い出し、手のひらで魚の真似をして見せる。
「生態系まで熱帯かよってな……それが冗談に聞こえねぇから面白え話だぜ、まったく」
パタパタとうちわを手に取り扇ぎ始める彼、やっさんはそう言って天井を仰ぎ見る。開けっ放しの窓から風が吹き込み――チリンと風鈴の音が鳴り響いた。
「時に……壮介よ」
「……なんですか?」
テーブルの向かいに座り直した壮介は、手慰みに戸棚の本を手に取りながら呼びかけに応える。
「この本なんだがよ、やべぇんだ」
そう言って彼が取り出した薄めの本を、訝しみつつ手に受ける。
「? ……ぶっ!!」
ちょうど麦茶を口に含んでいた壮介は、そのまま手触りのいいブックカバーに包まれたその本をめくり、中身を確認する。
冷静でいられたのはそこまでで、次の瞬間には口の中のものを噴き出していた。
「なっ、ななな、なんてもん部室に持ち込んだんだああっ!」
見開きいっぱいに開かれた本のページから覗くのは、一見して分かる程に年齢層が低めの女の子達。
ある少女はステッキを持ち、またある少女は弓のような物を手に掲げている。
それぞれがメンバーカラーであろう色に染まっており、光り輝くその少女達のイラストは、確かに可愛らしいと言えた。
ある、一点を除いて。
「にはは、どうだ壮介、やっべえだろ」
そう言って得意げな表情を浮かべるやっさん。その鼻っ面に薄本が衝撃とともに叩き付けられた。
「ぶべらっ! な、何すんだよう壮介」
「何もかにもあるか! それ、薄い本じゃないですか! な、なんて物を……」
ふぅふぅと息を切らしながら声を荒げる壮介、そのまま開き続けようとした口の上に、諭すようにごつごつとした指が添えられた。
「なあ、壮介」
「……何ですか」
唐突に真剣な顔になり、なにやら話し始める彼に、疑わしいものを見るような目をして言葉の続きを促す。
「もう一度コイツをよく見てくれ」
「さっき見たじゃないですか」
そう言いつつも手に取って中を覗く。当然というべきか、そこには先程までと変わらず際どい――ところどころアウトな格好をした年若い少女達がとても可愛らしく描かれていた。
「とても……えっちです……じゃなくて! 仮にも先生なんですから、部室にr-18の物持って来るっていうことがですね……!」
「次ページ」
「え?」
「壮介、次のページだ」
「……なんですか、まったく」
パラリとページをめくって見る。そこに描かれていたのは壮介の知らないキャラクター達、薄いくせに図体だけはでかいその本の中で、やはりと言うべきか際どい格好をしてポーズを取っていた。
「なになに、グレートスケベメイド服……あ、折り目付いてる。 ……や、やっさんあんた」
若干ではない引きを込めた視線をジッとと目の前に送る。
「…………すまん、その次だ」
先ほどまで真剣にこちらを見据えていた目の前の教師は、額に手を当て、考える人のような姿勢になってしまっていた。どうやら内面に何らかのダメージを負ったようで、少し息を乱している。見せたかったのはこのページではないらしかった。
「ヘコむくらいなら最初から見せないで下さいよ、まったく……」
ペラリ、とページをめくる。
「? やっさんのおススメしてくるアニメは大体見てるはずだけど、これは知らない奴ですね……女性……? に、少年と、少女……?」
見開きいっぱいに広がるイラストは、イラストというには少々古風な、変わった絵柄で描かれていた。「うわぁ、これ印刷にお金かかってそう」そう思った壮介は紙肌を指先でつつうとなぞってみる。
「もしかして、また新しいアニメの布教ですか? 今度はまたずいぶんと風変わりなやつを――」
そういいながらもう一度手元の本に目を落とす。中央に座すように描かれているのは慈愛を抱いた優しい雰囲気の女性。そしてその傍らに眠るようにして居る二人の子供達。
そしてそれを認識した瞬間、本が――
「なっ……」
――光った。
唐突にして苛烈な無形の波。光、白く柔らかなそれはしかし、鮮烈な輝きをもってすべてを呑み込み始める。壮介も、やっさんも、そして、この部屋さえも。
白に塗りつぶされる視界。前後左右さえ分からないほどに一色に染まった世界で、手であると思しきものをめいいっぱいに伸ばす。
「やっさん! これっ! くっ! なん…… あ――黒々――木――?」
広がり続ける白光は、やがてすべてを照らしつくし、純白の世界を作り上げた。
それは何物も存在しない、無の世界。
「ッ……すまねぇ」
悔恨を含むその声だけが、そこに零れ落ちていた。