前編
時代や設定にこだわりはないです。さっくり読んでいただけたらと思います。途中で少し残酷な表現があります。ご了承ください。
博士と呼ばれる男の父は、大変な変わり者だったという。
その技術は百年先のものだと言われ、彼の作るものは誰もマネができない至高の財産だった。
ただし彼は変人で、一年のうち364日は完璧なセキュリティを備えた自身の家に引きこもり、一年に一度本当に気が向いたときに、ふらっと現れて街に自分の作ったものをおいていったという。
そんな父が昔住んでいたという家の権利を貰えたのは、父とそっくりな性格に生まれた博士が、同じように奇異な目で見られた研究者であることと、何があるかわからない家を管理できる人間が他にいなかったから、である。
博士は眼前に聳え立つ建物を見据えた。
丸い形の建物は、父が構築した技術の壁―今や高給取りならば憧れる、錆びることがなくセキュリティ機能まで備えた壁―でコーティングされ、作られてかれこれ三十年以上経つというのに外観は綺麗なままである。
博士はこの家に足を踏み入れるのは初めてであった。正直父の顔など記憶に危ういほどだし、博士の世話は全てアンドロイドがしてくれた。そのアンドロイドは、三年前、機能停止してしまい、二度と博士の名を呼ばなくなったのだが。
「さてと」
大きな鞄を引きずり、博士は新しい家の道を進む。
瓶底メガネに病弱なくらい白い肌をした博士は、雑然とした庭の邪魔な植物たちをよけて進んでいく。
庭を抜ければ建物にはすぐに行きつけた。壁に線が入っているここが、恐らく扉のはずである。
博士は顎を一撫ですると、迷うことなく手を伸ばし、ぺたぺたと壁を触りだした。
途端にビィン!と音がして、赤いレーザー光線が建物から飛び出す。三十年前と言えど、父の作った技術は恐ろしいもので、博士の白衣の端は焦げて散り散りになってしまった。
博士は表情を崩さなかったが、困ったように自らの緑色の髪をわしわしと撫でた。
暫くぼーっと立っていた博士であったが、ぴんと閃いたらしく、ごそごそと鞄から小さな虫を取り出す。博士の掌に乗せられた小さな虫は艶々と輝いて、まるで本物のようだが博士が作ったロボットであった。虫は緑の羽を広げると、壁に向かって飛んでいき、ぺたり、と張り付いた。
その途端虫から展開された緑の膜が家を包み、壁から発射された赤いレーザーがその中で暴れ狂った。
虫はびぃびぃと耳障りな音を立て、建物の周囲は緑と赤の色で目が痛くなるほどであったが、ほどなくして勝敗は虫に軍配があがった。中のレーザー光線が終わりを告げたのである。
しかし虫は焦げたような色合いになり、力尽きたように地面にぽとりと落ちた。博士はその虫を両手ですくい上げる。
現代社会では機械に生活の全てが補われている。だから一般の人にとって人型以外の機械は使い捨ても当り前であったが、アンドロイドに育てられた博士にとっては特に機械は身近なものであったし、特に自分で作ったものとなれば愛着も一塩であった。
虫を丁寧にハンカチでくるむと、博士は立ち上がる。扉に近づけば、扉はぷしゅっと音を立てて博士の目の前から消えた。
どうやら無事入ることができるようだと博士は歩を進めた。
部屋の中は、さすがに埃がかぶっていた。
何年も掃除されていなければ、いくら建物が丈夫だろうとこうなってしまう。
博士は掃除が基本的に嫌いであったから、顔を顰めてとりあえずと見つけた寝室に荷物を放り込み、家の探索を始めた。
キッチン、リビングに寝室が二つと書斎が一つ。あるはずの研究室を探して、博士は部屋をうろうろしていた。
博士もこれでも優秀な研究者だ。天才と言われた父の研究室は、やはり楽しみであった。
中々見つからないなと思っていたところに、壁に同化するかのように作られた扉を廊下で発見する。その扉も触った途端に赤い光線を発することを察していた博士は、またもや虫を使ってそこを開ける。目の前に開いた扉の奥から薄暗い階段が現れたが、博士は頓着せずにさっさと階段をおりていく。
暫く下りれば、ぼんやりと光る場所が見えてきた。
博士もどこか足早く階段を降り切れば、そこら中に溢れる棚と機械の残骸。何台ものパソコンと、積み上がるファイル。
足元を見れば、現在ではあまり使われないコードと呼ばれるものがまるで血管のごとく床に張り巡らされていた。そのコードの視線を辿れば、壁から張り出した丸い物体に繋がっている。
「なんだ、これは」
博士はまたもやぺたぺたとその球体を触るが、ひんやりとしたそれは何の反応も示さない。
博士が視線を移せば、横に取り付けられた制御装置のようなものを発見する。博士が流石に若干の警戒心を抱きながら近づくと、突然機械が作動した。驚く博士の目の前に、制御装置と思しき機械は文字を映し出す。博士は眼前に点滅する文字を目で追った。
「set up...CHITOSE?」
博士がその文字を読んだ途端、球体に繋がれていたコードが大音量を立てて外れていく。
さすが博士も心臓を跳ねあがらせ、一歩後ろにのけぞった。
球体から外れたコードから飛び出した液体が博士の体にかかり、白衣が青に染まっていく。しかし目の前で起きているその事象は、博士の目をくぎ付けにしていた。
全てのコードが球体から離れた途端、パシュン!と音が響き、球体から黒の色が剥がれるように消え始めたのである。
「な、んだ?」
流石の博士も驚きに目を見開き、球体を凝視する。その内にも黒はどんどん剥げ、中から澄んだ美しい水色が溢れだす。余りの眩しさに、博士は右手を目の前に翳した。
全てが剥がれ終わった時、球体の中には、女がいた。
博士は何度か目を瞬かせ、目の前の光景を疑うように見た。培養液と思われる液の中に女は裸のまま丸まって浮かんでいたのである。
「…」
呆然とその光景を眺めていた博士だったが、再び横の制御装置が動きだしたことで、慌ててそちらに目を向けた。制御装置に浮かんだ文字に、博士は怪訝な顔をした。
「ワタシノダイジナチトセヲタノム…?」
バシャ!と水が床を叩く音が聞こえ、慌てて後ろを振り返ると、ずるりと膜を突き破るように女の体が球体から出てくるところであった。
「?!」
このままでは女は頭から床に落ちると気付いた博士は慌てて走り出した。手を必死で伸ばし、球体から落ちてきた女の体をなんとか抱きとめる。
しかし基本的にもやしに近い博士の体では、女の体を支えきれず足ががくんと曲がった。そのまま博士はべちゃりと無様に培養液の水たまりに尻餅をついた。
博士は痛みに呻きながらも、腕の中の存在を認め、かちんと固まった。
博士はもういい大人であったが、周囲から変人と認められていた。故に女の影など、今までちらともなかった。なのにいきなり全裸の女性を腕に抱えるとは、刺激が強すぎるのである。
「ん…」
小さく声を漏らした女の瞼が震え、ゆっくりとその目が開くまで、博士は呆然とその顔を見ていた。
体も顔も、平凡な女であった。珍しくもない黒髪に、茶色の瞳はきっと群衆に紛れれば見つけることは難しい。
その瞳が開き、視線を彷徨わせた後、博士を凝視した。
「…あなた、誰?」
まだ翳むのだろう目を凝らし、女が博士の顔を見つめる。
「私は、博士だ」
「…博士?」
怪訝そうに眉を顰め博士を見つめていた女だったが、何やらじろじろと博士の髪やら肌やらを見つめ、はっとしたように目を見開いた。
「今…今は何年なの」
「…西暦X987年だ」
「そう…」
博士の返事を聞いて、女は博士から視線を外し、何かを見つけようとしているように遠くに目をやった。
「じゃああの人、もういないんだね」
そう呟き、女は悲しそうに目を伏せた。その様子に博士は言葉に困りながらも、口を動かす。
「…君は、ちとせというのか」
「なんで私の名前…」
「父の残したデータがあった」
「…そう。そうだよ、私が千歳」
「お前はなんなんだ」
博士の問いに、千歳はゆらりと顔をあげた。
「…私は千歳。千の時を生きるロボットよ。そう名付けられて、私は作られた」
***
博士が千歳を目覚めさせた翌日から、二人はお互いなし崩し的に同居生活を始めた。
今日も今日とて千歳がご飯を作る横で、博士は電子板を叩いてニュースをチェックする。博士は電子板見るふりをしながら、キッチンの前で何やらごそごそと片づけをしているらしい千歳をちらりと見た。
千歳は、博士の父が作ったロボットだった。
千歳はロボットにしてはかなり精密なつくりになっていて、完璧に『人』の見た目をしていた。博士を育てたアンドロイドは見た目も人間には見えない、やはり機械なのだと分かるようなものであったが、千歳はそれと比べるまでもない。
今まで見たこともない『型』である千歳は、父と共に長年この家に住んでいたという。
しかし父が死ぬ時に、強制的に眠らされた、というのが彼女の言い分であった。そして、ずっと住んでいたこの家から出ていくつもりはないと言う。
しかし博士もここに住むことが決まっている。博士とて他に行ける場所などないのだ。
よって、同じ家に博士と女型ロボットの同居は、避けられない決定事項であった。
そうして始まった千歳との生活は、博士にとって不思議なものだった。千歳は驚くことに、家事は全てできた。元々他人と生活することになれていない博士に、千歳は何度もキレた。
「ご飯作ったらさっさときなさいよ!冷めるでしょうが!」
「僕は研究がしたい」
「飯食えって言ってるのよ!さっさとでてこい!」
父の残したデータを研究したい博士は、寝食を忘れて研究室に籠ることもざらだった。
最初はそれに対しても知らぬ存ぜぬで自らの生活リズムを守っていた千歳であったが、ある日研究室からでてきた博士が、化学薬品や埃にまみれて臭く汚い状況だったことに彼女はキレた。
彼が歩くたびに、千歳が綺麗にした部屋が汚くなったのである。挙句の果てにやつれはて、そのままリビングで倒れそうになった博士の首根っこを掴むと、千歳はカッと目を見開いた。
「いい大人が!!自分の管理もできないの?!」
そう叫ぶと博士を風呂に突っ込み、ついでにさっぱりしてそのままベットに倒れこもうとした博士を捕まえて、何にも食べておらず弱り切った胃におかゆを流し込んだ。
ロボットの彼女の腕力に、もやしの博士が敵うことはありえず、彼は抵抗むなしく千歳から説教を受けることになった。
それから一日三食胃に流し込まれるようになった博士は、がりがりだった体に少し肉が付いた。部屋から出ないので、病人の様に白い肌は変わらずだったが。
食事の準備を終えた千歳が今日出してきた料理はシチューであった。博士は食べることに執着がないため、すぐに飲めるスープやシチューといったものが食卓に並ぶことも多い。
シチューを淡々と流し込む博士を、肘をついてみていた千歳がふと言葉を発した。
「博士、そのメガネなんとかならない?ナノマシン治療でもしてあげようか」
「いい」
「なんで。今時そんなメガネ流行らないことぐらい、私にもわかるよ」
千歳は博士がこの家に持ち込んだ最新型のコンピューターの一台を分捕り、しょっちゅういじっていたため、最近の流行というものにも詳しくなりつつあった。
博士の研究は今、父の残した文献を読み解くことにあったが、もうしばらくしたらそのコンピューターを取り返さねばならない。代わりのコンピューターを買ってやろうかと最近博士は思案していた。
しかし今の千歳の台詞に博士は大いに顔を顰めた。
「いいといっている。このメガネは外さない、ほっといてくれ」
「何よ、親切でいってるのに」
そこではたと博士は口を噤み、シチューを流し込んでいた手を止めた。
「君は、ロボットなわけだが」
「…そうだね」
唐突に博士が研究の話をしだすことにもなれつつあった千歳は、若干の不満も覚えつつも返事をした。
「今日調べていた父の資料によると、君の体には特殊なナノマシンが流れているらしいな」
「うん。博士の父様が作った、ナノマシンよ。人類が百年以上かけて作ると言われるレベルのものらしいね」
当時千歳に父はそういったのだろうか。少なくともこのナノマシンのデータは世に出回っていないものだから、データのことを知っているのは博士だけだろう。
しかし数少ないデータを見ても、その三十年前に作られ、千歳の身体に埋め込まれたナノマシンが異常な性能を備えていることは、博士にはわかっていた。
「ああ、そうらしいな。ナノマシンの資料はあまり残っていなかったからな、これから研究する」
「ふぅん、頑張れー」
「あと君、父のナノマシンの基礎データよれば―不死身となっていたが?」
「…私のナノマシンには、自己修復能力がついてる。だからこんな風に私の体が傷ついても―」
そういうと、千歳は包丁を握り、自分の指を迷いなく切り落とした。止める間もない早技に唖然とする博士の目の前で、切り落とされた筈の指が分解され、千歳の指先に集まっていく。
数秒の間に、千歳の指は元に戻っていた。感触を確かめるように千歳はぐっぐっと手を握り、博士の目の前に手をかざした。
傷一つ残っていない、手だった。
「不死身、ということはそういうことか」
「…そうね。私だって、私の殺し方なんて知らないよ」
「後は何ができるんだ?」
「…博士それでも科学者なの?自分で考えれば?」
「それもそうだ。無粋な事を聞いたな」
博士はがたりと席を立ち上がり、つかつかと千歳の傍による。
怪訝そうに顔を顰める千歳の手を取ると、至極真面目な顔でその手に顔を近づけた。先程の指を確認するかのように、右手でその指をなぞりながら、博士は呟いた。
「君のことがもっと知りたい」
これからもっと精進することにしようと博士は薄く笑った。
その直後、博士は千歳の「変態!」の声と共に、床にたたきつけられることになる。
その時やや千歳の耳が赤く染まっていたことを、博士は知らない。
***
ある日のことである。
今日も今日とて、博士は地下室に籠って研究をしていた。
研究の成果として、千歳の身体に複数のナノマシンが流れていることを博士はつきとめていた。
と、同時に千歳が人間と同じように食べることもできるし、排泄することができることもわかっていた。勿論することができるだけであって、食べなければその機能が働くことはない。
博士が研究成果を千歳に確認すると、乙女としては知られたくないことだったと彼女は何やら頬を膨らませていたが、抵抗して身体を分解されるよりましかなと呟いていた。
博士は千歳のことを知りたいと言いながら、千歳の身体から多少のナノマシンを摂取した以外は、未だこれといって何のアクションも千歳に対しては行っていなかった。
千歳の言う分解など、考えてもいなかった。
博士自身父の残したデータの解析に忙しくしていたこともあり、そしてどこかで千歳に触れるのを恐れているようにも感じていたからであった。
千歳にとって博士は自分を作った父の息子であったが、他人であった。
ただ同居しているだけの他人。博士は父と、顔を見る限り似ていないと思う。
父はもっと無精ひげが濃く、がっちりとした顎と以外にも研究者っぽくない、いいがたいをしていたのである。
比べて博士は線が細い。しかも眼鏡で殆ど顔の半分が隠れている。その時代外れの瓶底眼鏡を外させようとしたところ、大変な抵抗にあったので千歳はまだ博士の顔の全貌を拝めていない。
力なら恐らく千歳の方が上であるが、腕が外れんばかりに振りまわし千歳から逃げようとする博士を見ると、そんな気も失せた。
博士が研究にその時間をつぎ込む中、目下最近の千歳の趣味は荒れ果てた庭を改造することであった。
家の中はもともと住んでいたこともあり、既に綺麗に片づけている。後は博士の散らかす癖さえ直せばばっちりである。
博士の方は追々矯正していくとして、今日は博士にゴリ押しして作らせた電動の草刈り機を二台持って、千歳は庭に挑もうとしていた。
まあるい形をした草刈り機を下に置き、千歳は少し離れてスイッチを入れる。ウィンと音がして、少しだけ草刈り機が宙に浮かび、千歳が指を振るとその通りに動き始めた。
すぱすぱすぱっと草を刈っていく草刈り機を尻目に、千歳は次の機械を取り出す。切った草を回収し、ついでに草のお手入れもしてくれるという機械である。
これも研究を優先したいと嫌がる博士に作らせたものであった。
お手入れくんと勝手に名付けたその機械は四角い形をしている。お手入れ君を庭に置き、スイッチを入れれば草刈り機の後を追って、庭をならしはじめた。
千歳は二台の仕事ぶりを満足そうにそれを見つめ、自分は樹の方をどうしようかと歩き出した。伸び放題の立派な樹であるが、このままでもいいかと千歳は思っていた。
下がぼうぼうと生えていたから、この庭は汚く見えただけであって樹はそのままでも味がでるのではないかと思っていたからである。
樹の調子をみようといくつか見回り、一番大きい樹に辿りつく。
家を超える高さまで育った樹であるが、これもおそらく博士の父が何かした結果であろうとおもう。樹の健康を確かめるべく千歳はくるくると樹の周りを見て周ったり葉っぱの様子をみたりしていたが特に問題はないと判断したところであった。
みぃ、と小さな声が聞こえたのは。
千歳はその声を拾い、じっと樹を見つめる。千歳の目に埋め込まれたナノマシン達が、小さな影を捉えた。
「ねこ」
驚いた声をあげたのはそこに猫がいたからだけではなくその猫が酷く傷ついていたからである。恐らく樹にのぼった後、鳥にでも襲われたのだろうか。
千歳は若干悩み、家を振りかえった。
「もやしな博士には、頼めないわよねぇ」
そう呟くと、千歳は樹に手をかけた。
すいすいと登っていく千歳に猫が怯えたように声を上げる。
「落ち着いて」
千歳が困って声をかけるが、全身の毛を逆立てた猫はずりずりと枝を移動しようとする。
ゆっくりと枝を登り、千歳がねこのいる枝についた。地面からはなかなかの距離になっている。
猫の足がじんわりと赤くなっているのをみて、千歳は目を細め、手を伸ばす。
「ほら、おいで」
しかし猫は警戒を解かず、更に下がろうとし――――傷ついた足が痛んだのか、ずるりと足を滑らせた。
「あっ!」
千歳はとっさに手を伸ばし、猫を抱きとめる。
なんとか枝を右手で掴み、ぶらんと樹にぶらさがった。
腕の中の存在は驚いたように身体をかちんと固まらせ、千歳の服に爪を立てている。
「あ―――あぶなかっ」
ほっと千歳が息を吐いた時だった。
ばきんと音がした――――
と思えば、千歳の手は折れた枝を掴んでいた。落ちる。漠然とそう思った時には、近づいてくる地面に、千歳は目をつぶった。
どすん!という衝撃が思いのほか小さく、千歳はおそるおそる目をあける。
「あ、れ」
「…全く、飯の時間になっても呼びに来ないからどうしたかと思えば木登りか」
千歳は自分の身体の下から聞こえてきた地を這うような声に、ぎょっとして振り返る。
千歳の身体の下敷きになっていたのは、研究していたと思っていた博士であった。
眼鏡はずれて、白衣は草だらけ。もやしのような身体はそれでも千歳を抱きとめようと腕を伸ばし、確かに千歳を抱きとめていた。
恥ずかしさと焦りとが入り混じって千歳は声をあげた。
「は、博士馬鹿じゃないの?!私は怪我なんてしないのに!」
以前説明したではないかという千歳に、博士は一瞬だけ眉を顰めた。
「馬鹿か」
そして博士はいつもと同じ表情で、千歳を見つめた。
「君は大事な研究対象だぞ。壊れたら困るからだ」
言われていることは最低なのに、千歳の目はどうしようもなく潤む。
博士はそんな千歳に気付いているのかいないのか、はたと動きを止めた。
「…なんだこいつは」
「樹の上にいたの」
にゃあ、と鳴く猫に、博士は盛大に顔を顰めたが身体の上から千歳をどかすと、ひょいと千歳の腕から猫を抱きあげた。
「すぐに治療する。戻るぞ」
猫は博士の腕の中で大人しくしている。撫でられて嬉しそうなほどである。
千歳は自分との差に愕然としながら、家に戻ろうとする博士を追いかけた。
「博士、ナノマシン治療嫌いじゃなかったの?」
「私とこいつは別の話だ」
むっとしたように博士は顔を顰めた。
「それに、私はナノマシン治療が嫌いなわけではない。この眼鏡も必要だからつけているのだ」
何やら拗ねたように「勘違いしないでくれ」という博士に何の必要があるやらと千歳は笑ったのだった。
二人の幸せな生活をお望みの方はここでお戻りください。
この先の二人の行方が気になる方のみ、後半をお読みください。
後半は9/20 0:00に投稿する予定です。