故郷へ
そこは一つの世界だった。
光が燦々と降り注ぎ、視界の限りに咲き乱れる鮮やかな花々の甘い香りが、二人の鎧やローブに染み付いた血糊の臭いを掻き消した。世界を縦断する小川には一つだけ橋が架かっており、ホービー達は怪しみ、戸惑いながらそれを進んだ。
やがて野晒しの──だが全く傷みの無い──小さな円卓が現れ、彼のシルクハットの男が豪奢な椅子に座って紅茶を飲んでいた。
「ようやく辿りつきましたね。おめでとう。私が皇神です。まあお座り下さい」
意味が全く解らないホービーはどういう事だと吼えて椅子を蹴り飛ばした。
「それを説明する為には、一つ約束をしても貰わねばなりません」
「約束?」
二人の声がハーモニーを奏でる。
「ええ。貴方がたが知りたがっているこの世界の真理、そして……」
男が手を軽く打ち鳴らすと、その背後に扉が現れた。周りには壁などは無く中空に扉だけが直立している。
「この扉の向こう側。これがどこへ通じているのか。それらを教える事は可能です。しかし、それを知った者はこの扉の向こう側へ行って貰います。一度この扉を潜ったなら、二度とはこちらへ戻る事はできません。この条件はこの世界の理なのです。手を離した林檎が地面へ向かうのと同じように、止められない事なのです。……ホービーさん、貴方は私を倒してでも一方的に話を聞き出そうと思っているかもしれませんが、それは不可能ですのでご忠告しておきます」
図星を突かれ、ホービーはたじろいだ。どうするべきかコーティーに振り返ると、彼女は真直ぐな決意の眼差しをホービーに向けていた。
「オーケー。話してくれ。僕達は元々覚悟の上でここへ来たんだ。戻れない事なんて承知の上さ」
ぶっきらぼうに言い捨ててホービーは蹴り飛ばした椅子を戻して腰掛けた。コーティもそれに倣う。
「端的に話せば、これはゲームだったのです」
「ゲーム?」
「そう。世界中を旅しながら仲間と交流するゲームです。本当の貴方達は外の世界──現実世界──でサーバと脳を直接繋いで夢を見ているに過ぎません。そして私はこのゲームの創造主であり管理者なのです」
「じゃあアナタも外の世界の住人なのね」
「そういう事です。プレイヤーではありませんけどね。プレイヤーは各地の施設に用意されたサーバに繋がるポッドの中で眠りに着いています。この作られた世界に来る前に現実の記憶を施設へ預け、このゲームを終了するとその記憶を戻されます。あの扉がログアウトの為のゲートです」
男は背後の扉を指差してから、紅茶を含んだ。
「じゃあ突然目の前から人が消えてしまうのは」
「個人的な事情で強制ログアウトされた方々です」
「じゃああの透明な壁は」
「判定です。あの先はテクスチャを貼っているだけで実際には地形データは存在しません。……この先、拡張マップが実装されて行けるようになる事はあるかもしれませんがね」
ホービーは落胆し、全てを理解したコーティーは満足していた。
二人は取り決め通りにこのゲーム「ネクストゲート」からログアウトしなければならなかった。それはネクストゲートの参加者全てがログインする前に承諾した規約で定められいた。
ホービーは男に土下座してログアウトを一日待って貰い、楽園でコーティとの最後の夜を過ごした。男は翌日また来ますと言い残して扉と共に消えた。
ホービーはそれまでも何度かあったようにコーティと肌を重ね、想いをぶつけ合った。ホービーはまるで明日が無いかのように、ただ必死に動いた。
「絶対に迎えに行くよ。そしてあっちで一緒になろう。いくつ歳が離れていても構わない。ゲームの中だって、僕らは一緒にやってこれたんだ。きっと大丈夫さ。そうだ、このゲームを作った会社に入社して、このゲームのアクセス履歴を見ればいいんだ。そうすればコーティーの個人情報が掴める筈さ」
眠る前、いい考えだとばかりにホービーは語ったが、コーティはぼんやりと首を縦に振るばかりだった。
「ホービー。どんないい思い出も──例えそれが現実の思い出だとしても──後になって振りかえれば、それは全てファンタジーなのよ。もう、その頃には戻れないの。例えば、すごく好きな人が居ても、時間が経って再会すればもうそれは別人なの。二人の間の、お互いが知らない時間が、二人を他人にしてしまうのよ……」
横たわったまま身じろぎもせず、かつてホービーだった少年は暗闇を眺めていた。やがて光が射し込み、彫りの深い顔が現れたが、彼はシルクハットでも黒のスーツでもなかった。
少年は天を仰いだまま、社員タグを着けた安いビジネススーツの男に向かって合わない靴の話をしたが、男は何故今そんな話をするのかと訊き、不安そうに「安心して下さい、あなたが今どこにいるか教えます」と諭した。
「わかっています」ホービーは囁き声で言い、泣きながら息を吸い込んだ。
「帰ったんだ!」
そう叫び、気を失った。