溺れる月
新月(月齢0)
海から吹きつける風に押され、雨戸がガタガタと大きな音を立てる。
その音で目を覚ますと、時間はもう八時半をまわっていた。
騒々しい雨戸を開けると、薄暗く、湿った九月の空が顔を出した。
ここの所、雨が長く続いていたが、今日はまだ大丈夫な様だ。
だけど、帰り道で降られるかもしれないしな、と昨日の晩に用意した荷物と一緒に、折畳傘をバッグの中にしまった。
階段を降りる途中で、階下から味噌汁の匂いがして、気分が悪くなった。胃がキュウっと絞まった様に気持ち悪い。
思わず口元を押さえ、踊り場の壁に寄りかかると、古くなった砂壁がざらざらと床に落ちた。
台所に下りると、あや子叔母さんが食卓で新聞を読んでいた。
その横には、一人分の朝食が用意されている。
そして、それらの食器には丁寧にラップが掛けられていて、憂鬱になった。
僕に気付くと、叔母さんは新聞を畳んでコップにオレンジジュースを注いだ。
にっこりと微笑む。笑うと、叔母さんはとても若く見える。
「おはよう。早く食べないと遅れちゃうよ。」
おはようございます。と挨拶を返し、僕は促されるがままに食卓に着いた。
ご飯と味噌汁と焼き魚と少量のサラダ。
そんな朝食が、今の僕には苦痛でしかたなかった。
いただきます。と小さな声で言い、ご飯を口にしたが、まるでティッシュを噛んでいる様に味が無く、飲み込めない。
それなのに唾液だけがたくさん出る。
できるだけたくさんの食べ物を、入るだけ口に詰め込んで、オレンジジュースで胃に流す。そんなことを五回も繰り返すと、朝食が終わった。
胃の中が、さっき食べた物が燃えているかの様に熱い。
吐き出したい。
出来るだけ早く。
そんな思いに取り付かれる。
靴を履いて、玄関から出て行こうとした所を叔母さんに呼び止められた。
「ヒロくん、これお小遣い。」
そう言うと、僕の手に五千円札を握らせた。
僕が躊躇していると、叔母さんは
「いいのよ。お姉ちゃんからお金貰ってるんだから。帰りに好きな物でも買ってきて。」と笑った。
小さく「ありがとうございます。」とお辞儀をして玄関を出ると、後ろから「行ってらっしゃい。」と元気な声が聞こえた。
キリキリと痛み出した胃をおさえながら海沿いの道を歩く。湿気った風が身体を包み込んでいく。
海の匂い。いや、港の匂いだろうか。
甘いような香ばしいような、そしてちょっと生臭いような。
この町独特の匂いが、僕は未だに好きになれない。
この匂いを意識してしまうと、胃が拒否反応を起こしてしまう。
鼻と口を覆うように、駅まで小走りをする。
しかし、やはり耐え切れずに駅のトイレで吐いた。
涙と鼻水と汗と。顔中の穴から汁が噴き出す。
背中はずっとぞくぞくと寒い。
まるで貧血を起こした時のように、周りが薄暗く、僕の周りだけがゆれている感覚。
壁との距離感が掴めない。
胃液と一緒に朝食が、いや、朝食だったものが便器の中に音を立てて落ちていく。
全てが、薄茶色のどろどろしたものになりかけているのに、サラダに入っていたプチトマトの皮だけが赤くぬめぬめと光っていた。
吐くという行為は、かなりの体力を消費する。
昔、何かで赤ん坊の泣き方は吐くことと同じ位疲れると聞いたことがある。
赤ん坊は、文字の通り命がけで泣いているのだ。死なない為に。
やはり、僕の「吐く」行為も赤ん坊の「泣く」ことと同じだ。僕も、命がけで吐く。
死なない為に。
トイレの中は、小便臭く、ゴミがあちこちに落ちてひどく汚かった。
個室の中で、壁にもたれ掛かって息を整える。
しゃがみ込んでいたせいか、少し頭に血が上った様で、鼻の奥にツンとした不快感があった。
鼻血が出そうな感覚に似ている。
口の中は酸っぱく、気持ちが悪かったけれど、胃の痛みは消えていた。
病院の待合室では、いつもヘッドホンで音楽を聴きながら待つ。
中学の入学祝に買ってもらったIPodに、耳がすっぽり収まる大きめのヘッドホン。
一度、診察を待っている時に横に座ったおじさんが、待合室の誰にというわけでもなく、一人でぶつぶつと喋っていた。
「聞こえてきちゃうんですよ。世界が終わる音がね。こう、「ごぉぉぉぉぉっ」て。なんだか私の頭を包むようにしてね。その音が聞こえるのが怖いんです。」
怖かった。
話の内容がというわけではなく、「崩壊」というものを目の当たりにした気がしたのだ。
それ以来、ヘッドホンは僕の自己防衛手段だ。
看護師さんもそれを知っていて、順番が来ると肩を叩いてくれる。
長椅子の一番端に座り、少し大きめの音で音楽を聴く。そして、音漏れをしないようにヘッドホンを押さえると、頭を抱えた人のようになる。
その日は、クラプトンの一番新しいCDを聴きながら、廊下の反対側の壁に付いている非常口への案内表示をずっと見つめていた。
あの緑色ってきれいだなと見るたび思う。
小学校の理科の時間に、光に透かして見たホウセンカの茎みたいだ。
ああ、そういえばよく理科の授業で朝顔の種を蒔いたっけ。
診察は、いつも通りに終わった。
「症状はどう」
「変わらないです」
「身体はしんどくないかい」
「いつも通りです」
「夜は眠れるかい」
「はい」
「じゃあ、いつもと同じ薬でいいね。今度は一週間後に診察に来てください。」
「はい。ありがとうございました」
一時間以上待って、三分の診察。
これで何がわかるのだろうといつも不思議に思う。
けれど、先生はカルテにいつも何らかの文章を書き加えている様だ。
あのカルテにどんなことが書いてあるのかは、大体予測できる。
小田 裕人 十五歳
中学校教師の父と小学校教師の母と三人家族。
地元である、東京の中学校に通っていたが、友人の自殺未遂によるショックから登校拒否。
身体的な症状としては、拒食、嘔吐、不安症状。
地元の病院を何院か受診。
中学卒業後、母親の希望で彼女の実家に預けられ、来院。
薬物療法と、対人関係療法を用いた治療を継続して行う。
きっと、こんな所だろう。宗太の自殺未遂についてはもっと詳しく書かれているかもしれないし、それに僕が関わっていたことも、もしかしたら先生はわかっているのかもしれない。
ただ、先生の診察でも、臨床心理士とのカウンセリングでも、僕は本心を詳しく伝えたことはなかった。
毎回処方される、両手いっぱいの抗精神薬も、クローゼットの中に隠していた。
僕の身体を心配してくれる両親や、叔母さんたちの手前、病院にはきちんと通っている。
だけど、僕は、病気を治したくなんかなかった。
吐くこと。
泣くこと。
息苦しくなること。
眠れない夜の長いこと。
ご飯が食べられないこと。
気が狂いそうになるのが怖いこと。
生きているのが苦しいと思うこと。
いっそ、自殺してしまいたいと思うほど辛いこと。
それが僕への罰だ。
月齢三
風凛の甲高い音が夢の中で響いて、目を覚ます。
急にじーわじーわとうるさい蝉の声が耳を付く。
まるで突然チューナーが合ったラジオみたいに。
薄手のサマードレスという涼しい格好で寝たのに、身体中がじっとりと汗ばんでいる。
昼食の後、テレビを見ながら少し横になったら、眠ってしまっていた。
後片付けも、夕食の用意も、洗濯物を取り込むのも、お風呂掃除もしていない。
今日は、おばあちゃんが旅行に行っていていないから、大変なのに。
慌てて、起きあがる。
よかった。まだ、日は高い。
お父さんが帰ってくるまでには、全ての家事を終えられそうだ。
ふと、足の親指と人差し指の間に違和感を覚えて、眠い目でそっちを見ると、朝顔の蔦が絡まりついていた。
春の頃に添え木をし忘れた朝顔は、夏になると、すごい勢いで横に伸びた。
まるで植木鉢から太い毛糸が伸びているようだ。
そんな状態でも、六月くらいからたくさんの花を付けた。
もう小さな緑色の桃のような種子が、あちこちに付いている。
花の色は、淡いピンクだった。
小学校の理科の時間に植えた朝顔の種を収穫して、毎年少しずつ蒔いていたけれど、今年は種の収穫はせずに枯らしてしまうつもりだ。
あたしは、絡みついた蔦をそっとはずして立ち上がった。枯らしてしまうものでも、最後だと思うと愛しい。
そして、風鈴を、吊ってあったカーテンレールから外すと、おばあちゃんの部屋のたんすにしまった。樟脳の匂いが、ツンと鼻をつく。
おばあちゃんの部屋は、日が入らないせいか、汗をかいた身体には少し肌寒い。
夏はもう終わったんだなぁ。
そうだよ。
もう秋だよ。
誕生日が来るよ。
一六回目の誕生日だよ。
待ちに待った。
ハッピーバースデイ。
おめでとう。
雫、おめでとう。
じゅうろくさいだよ。おめでとう。
頭の中で、一斉に小さな声が喋る。
その声を、聞かないように、身体をぎゅっと強張らせ、自分で肩を抱く。
腕に付いた、無数の切り傷から、今は目を背けたくて、天井の染みをずっと見つめていた。
月齢七 1
毎週水曜日は病院に行く。
中学校の頃からずっとだ。だからもう三年になる。
海沿いの道を歩いて十五分の市立病院。
普段はなんでも無い距離が、今はとても遠い。
目を開けているのが辛くて、ガードレールを手探りで伝って歩く。
道路下の海岸から聞こえる、小さな子供の声が心臓に響く。その度、心臓はどくどくと激しく波打って、傷口から血が滴るのが、朦朧とした意識の中でもはっきりわかる。
一瞬、このまま死んじゃえないだろうかと考えたが、たかが静脈一本切ったくらいで死ねるわけがない。
ああ、気持ち悪い。口の中が乾く。美味しいオレンジジュースが飲みたいなぁ。
どす黒い血の痕を道路に染み込ませながら歩く。
だるくて眠くて。あたしは嫌々通った中学校の保健室を思い出していた。
ママがいなくなって、あたしは少しの間、口がきけなくなった。小さい頃、あたしが泣くとママが怒ったから。
小学校の高学年になると、自分の髪の毛をカッターで切った。ママと同じ、栗色の髪が嫌いだったから。
中学生になったあたしは、今度は同じカッターで自分の腕を切った。自分のことが、嫌いだったから。
あたしなんか痛い思いをすればいい。あたしなんか死んじゃえばいい。
こんな子いらない。そう思ったんだよね? ママ。
でも、あたしだって、あたしなんかいらない。
ゴミの日にポイって捨てられたら楽なのにね。
なんであたし、生きてるんだろう?
月齢七 2
「遠町 雫」という、彼女に会ったのは、今日が初めてじゃなかった。
前に一度、廊下の長椅子で見かけたことがあった。
水色のワンピースから、細く伸びた腕にたくさんの切り傷があったのが印象的だった。
ああ、リストカットってやつだ。
テレビの特集で何度か見たことがあったが、実際に見るのは初めてだった。
真っ白い腕に赤茶色い線が何本もある。手首から、肩まで。
古いのもまだじゅくじゅくしていそうに新しい傷もあった。
「雫ちゃん。」
看護師にそう呼ばれて、それまで居眠りしていた彼女が目を開け、診察室の中に入っていく。
その時に見えた、二の腕に刻まれた小さな三日月に釘付けになった。
リストカットをする女の子。シズク。その鮮烈なイメージは、僕のブラックボックスにしっかりメモリーされた。
だから、病院の階段でうずくまっていた彼女を、迷うことなくここまでおぶって来れたのだ。
精神科の受付に着くと、あの時の看護師が慌てて出てきた。
「雫ちゃん! どうしたの! 」
僕の肩から、看護師が二人掛かりで雫を抱え降ろすと、一旦長椅子の上に寝かせる。
左手首から流れ出た血は白いスカートを真っ赤に染めてなお流れ続ける。
対照的に、彼女は「血の気が引く」というのだろうか。人形のように真っ白い顔をしていた。
看護師が、頬を軽く叩いて、彼女の名前を呼ぶ。
「雫ちゃん」
その声で、彼女が目をつぶったまま、口を開いた。
「あのね。怖いの。怖いから切ったの。あたし、もうすぐで十六歳になるでしょう? だから切ったの。」
そう言うと、彼女のつぶったままの目から、たくさんの涙が零れ落ちた。
「そう。もう大丈夫だからね。先生に、傷、縫ってもらおうね。」
看護師が手を握ると、安心したのか涙を拭う。
顔に柔らかいゼリーの様になった血液がくっついて、固まっていく。
やがて、廊下の向こうからストレッチャーが運ばれてきて、雫を連れていった。
「裕人君、ありがとうね。服、汚れちゃってごめんね。」
僕の首筋で固まった雫の血を、年配の看護師が拭いてくれる。
アルコールが、すっと僕の身体の温度で蒸発していく。
今日の診察の会計を終えて廊下に出ると、雫がさっきの看護婦に何かを訴えている声が聞こえた。
「いい、ひとりで帰れるから大丈夫。」
「でも、帰り道でまた倒れたら大変よ。ね、お家の人に迎えに来てもらおうね。」
「だめ! 家には連絡しないで。あたしひとりで帰れるから。」
諭す看護師の声も雫には届かず、彼女は「いやいや」とかぶりを振ってその手を振り払う。
「あたし、大丈夫だから。」
雫は、そう言うと、彼女をきっと見据え、立ち上がって歩き出してしまった。
看護師が慌てて後を追うが、お構い無しで歩いて行ってしまう。
日のあたる廊下に伸びる小さな影。
その肩が、小さくて、彼女が何だか消えてしまいそうに見えた。
僕は、看護師に「送って行きます。」と告げると、何かにはじかれた様にその後を追いかけた。
月齢七 3
海に下って行くように見える。と、ふいに彼女が言った。
「この坂って、まっすぐ海に下って行くみたいに見えるよね。」
一歩一歩、ふらつきそうになるのを、支えてやりながら歩く。
「まるで吸い込まれて行くみたいじゃない? 」
エレベーターで彼女に追いつき、家まで送ることを告げると、はじめは驚いていたが、「じゃあ、海まで一緒に行こうよ」と逆に彼女に誘われた。
病院から、海沿いの国道に降りて行く道は結構な傾斜になっている。
さっきから、その坂を上って来る人が、不躾に彼女の傷を目で追うのが耐えられず、羽織っていたパーカを肩に掛けてやる。
紺色だからさっきの血は目立たないし、今の状態よりはましだろう。
彼女の傷は、包帯を巻かれた左の手首だけではなくて、それはもう、両腕の至る所にあった。
海を見下ろす堤防の上に並んで腰掛けると、
「あたし、遠町雫です。多分、同い年だと思う。」
彼女は、そう自己紹介し、僕の方を向き直って言った。
「小田裕人君でしょう? 今日は、いろいろありがとう。」
何で知ってるの。と訪ねると、
「同い年の男の子がいるって聞いたから、カルテをこっそり見ちゃった」と悪びれない様子で答えた後、大したものは見てないの。と付け足した。
潮騒の音を聞きながら、二人とも無言になる。
もともと他人との会話は得意じゃない。隣に他人がいるという事実だけで、気分が悪くなってきそうだ。沈黙に耐え切れず、当り障りのない会話が口から出かかった所で、
「拒食なの? 」
彼女が、あまりにも自然なトーンで聞くので、面食らってしまい、「そう言う訳じゃないけど… 」と言葉を濁してしまう。
「だけど、あんまり食べられない。」
「ふーん。がりがりだもんね。キミ。顔はかっこいいのに。」
「…そんなことないけど。」
照れて思わず目をそらす。
「ダイエットしなくてよくっていいね。」
「…まぁね。十五キロくらい痩せたから。」
そう呟くと、雫が悲鳴をあげた。
「ええ−っ!羨ましすぎる。絶対、手首、あたしより細いでしょう? 」
「それはわかんないけど。」
そう言って雫の方を見ると、一生懸命に包帯を外しているところだった。
さっき、せっかく傷を縫合して貰った所なのに。
驚いて、やめさせようとすると、彼女は素早く包帯を巻き取り、べりべりと血の付いたガーゼをはがすと、海に投げ捨てた。
「あーあ…」と、驚き、呆然としている僕の目の前に、まだ血が滲んでいる腕を突き出した。
「はい!どっちが細いでしょう? 」
彼女の血の付いた手首と僕の真っ白でごつごつの手首を並べた後、雫は無言になった。
そして、少しずつ話し出した。
小さくて、鈴のなるような彼女の声は、発した途端に波と一緒に海に溶けていく。
「あたしは、切っちゃうの。腕をたくさん。辛くなると何回も。」
僕は、思わず彼女の腕に見入ってしまった。
隙間が無いくらいにびっしりと引かれた、赤い線。
乾燥して茶色くなった物も、まだ、鮮やかな赤い物もある。
さっき縫ってもらった個所は、数えると十八針の縫合があった。
あまりにも真剣に見ていると、切るところ見る?とカッターを取り出し、実演してくれた。
刃先が白い素肌にあたると、その後ろから血液が滲む。まるで、絵筆で描いている様にすーっと線が引かれていく。
「辛い時に、切るとね。少しだけ気持ちが楽になるの。ちょっと痛いけどね。」
そう言って、彼女が刃物を腕から離した時、僕の中にある考えが持ち上がった。
それは、直感だったけど、多分間違ってはいないだろう。
雫は、僕と同じなんじゃないか。
僕が、吐くように、雫は腕を切ることで生きてるんだ。そうすることで生きていけるんだ。
その時、突然、音を立てて雨が降ってきて僕と雫を濡らした。
雫の腕に、赤い川ができていく。
不意に彼女が耳元で囁いた。
「あたし、もうすぐ死ぬの」
彼女の腕から流れ出た血は、雨と一緒に海へと流れて行った。
その雨は、この小さな港町に夏の終わりを告げていた。
月齢十一 1
暑いと、眠くなる。
昔からそうだった。
ダンボールの箱の中で、黄色いチェックのカーテンをじっと見ている。
身動きが取れないくらい狭い空間にあるのは、五百ミリリットルのペットボトルだけ。それも、もう三日も前に投げ入れられたものだ。
額から流れた汗が目に入り何度も瞬きをする。
暑くて、お腹が減って、ぐらぐらする視界。
近くなったり、遠くなったりと不安定な天井。
こわい。
こわいよ。
そうだ、寝ちゃおう。
寝て、忘れちゃおう。
覚えていないはずの、昔の記憶があたしの脳の中で作り出されていく。
眠いと同時に怖くて、差していたレースの日傘の柄を強く握り直すと、あたしは腕に付いた傷跡を一本一本数えていく。
その一本のかさぶたをはがすとじわりと血が滲んだ。
ああ、大丈夫だ。
あたし、まだ生きてる。
そう感じると、耳に町の音が帰ってきた。
あたしは、遠町 雫。今、この間知り合った男の子を駅で待っているところ。
知り合った? 違う。無理やり知り合いにならせたのかもしれない。
だってずっと探してたんだもの。
予定よりちょっと早かった。カルテを盗み見して名前を知って、これからだんだん仲良くなるはずだった。
だって、彼にはしてもらわなくちゃいけないことがあるんだもの。
無理やり引き込んでごめんね。
いままで、男の人って嫌な匂いがして、怖くて大嫌いだったけれど、彼は違った。
甘いいい香りがした気がしたの。
あたしと同じ。
自分を傷付けないと生きられない男の子。
あなたをずっと探してたの。
月齢十一 2
久しぶりに出かけると言うと叔母さんは喜んで、そこまで一緒に行こうと言った。
「あたしも今日、検診だから。」
駅に向かって二人で歩く。
途中で、叔母さんの荷物を代わりに持つと、
「ありがとう。ヒロ君はいい子ね。」と誉めてくれた。
母にも、そんな風に誉められたことがあまりなかったので、少し照れた。
叔母さんは、「今度こそ、子供が出来るといいな。ヒロ君みたいないい子が欲しいわ。」と小さく笑った。
あや子叔母さんは、子供が出来ない。もう、三年も不妊の治療に通っている。
こんな田舎町で、夫婦に子供が出来ないと言うのは結構な苦労の様で、僕の母のところに叔母さんが泣きながら電話をかけてきたこともあった。
駅の改札の前で雫がこっちに向かって手を振っている。
叔母さんが目を細めて、「かわいい子。今度家に連れて来てよ。」と笑い、急いで改札を抜けて行った。
あの日、あの堤防で。
雫は、見ていて欲しいと言った。
あたしは、もうすぐ自殺するから、それまで見ていて欲しい。
誰かに死ぬところを見ていて欲しい。誰の記憶にも残らない死は嫌なの。
そう、僕に懇願した。
僕は、困惑しながらも、いいよ。と言った。
彼女に宗太を重ねて見ていたのかもしれない。
どうやら彼女が死ぬまで、彼女の思い出を記憶していくのが僕の役目らしい。
彼女がそれを望むなら、できるだけ多くそばにいてやることが僕の使命なんだろう。
実の所、よく分かっていない。
ただ、僕が彼女の何かに引かれていることだけは確かだった。
今日は、雫が、灯台公園に行きたいと言うから二人でやって来た。
灯台公園というのは、僕の家の近所にある、名前の通り灯台を丘の上に臨む海浜公園だ。昼の間、灯台は一般開放されていて、夏の間は観光客も多く訪れる。
しばらく、海岸から灯台の方を見ているとふいに雫が呟く。
「あたし、ここが世界で一番好きな場所かも。ちっちゃい頃ね、一度だけ家族で来たことがあるんだ。」
僕は、ただその言葉に相槌を打つ。
「だんだん、秋の色になってきたね。」
雫が、空を仰ぎながら言う。「あたしは、夏の空の方が好き。」
なんで?と訪ねると、
「だって、海と空の境界線が無いように見えない?」と上を向いたまま答える。
「全然色が違うよ。」と反論すると、
「それは、日本の海だからよ。きっと外国のきれいな海は、同じ色に見えると思う。」と雫が呟いた。
そんなこと、考えたことが無かった。
そういえば、僕は外国の海も空も、どんな色なのか、どんな風に見えるのかなんて知らない。
突然、雫が「あっ」と小さく呟いて、空を指差した。その先には、四分の一が掛けた月が白く浮かび上がっていた。
「なんで、真昼に月が見えるのか知ってる? 」
雫が嬉しそうに僕に問い掛ける。知らないとかぶりを振ると、
「月は他の星より、全然地球に近い所で強い光を放ってるの。だから天候とか湿度とか、良い条件が揃うと太陽の光を打ち消して、真昼の月が見えるの。」
僕は、すっかり感心してしまい、感嘆の声を上げた。
昼に見える月は、月光の眩しさとはちがって、なんだか寂しげだった。
「月を見るの、好きなんだ?」
そう訪ねると、雫はかぶりを振って言う。
「ううん。空を見上げるの、癖なの。」
そういえば、気にはなっていた。
雫は、病院の待合室でも、初めて話した日も空中を見ていることが多かった。
最初は、考え事でもしているのかと思っていたが、それにしては多すぎる。
爪を噛む人なんかは割といるけれど、こんな人は初めてだ、と考えていると、雫がまるで何でもないことのように言った。
「あたしね。ママに虐待されてたの。」
そう言って、視線を降ろして僕の方を見る。まるで品定めをする様に。
この人は、どんな反応をするだろう? それを見るかのようだった。
「育児放棄っていうみたい。小さい頃、部屋の隅に置かれたダンボール箱にずっと入れられててね。泣いたりしたら怒られるでしょ。だからバカみたいに、天井を見てるしかなかった。それで、こんな癖がついちゃったみたい。」
僕は、口を開けなかった。いや、開けたとして言葉が出てこなかっただろう。
確かに、僕が、宗太が自殺未遂したことを、ずっと抱えている様に、雫もきっと何かしら、彼女を追いこみ、彼女の身体を傷付けさせるものがあるんだろうと思っていた。
だけど、彼女の口から語られる言葉は、あまりにも僕の現実とはかけ離れていた。
「ママがね、あたしをパパとおばあちゃんのところに預けて、どこか行っちゃったのが、もう十年も前。」
僕は、自分の両親が憎いと思ったことは一度も無い。
親の愛というのを人並みに感じたこともある。教師の父と母と暮らした時間は、窮屈だったけれど、確かに幸せだった。
だからこそ、僕は苦しかったのだ。
「ママが、あたしを産んだのが十六の時。
あたし、こわいのママみたいになるのが。
だからそうなる前に。
あたしはママみたいな大人になる前に。
ママみたいな女になる前に、自分からさよならするの。この世界に。」
そう言った、彼女の瞳の色はあまりにも暗く、少し恐ろしかった。
そして、あや子叔母さんのことを思い出した。
あんなに子供を望んでいる人もいるのに。
この世界は不条理だ。
満月(月齢十五)
雫を家に連れて行くと、叔母さんは喜んでもてなしてくれた。
雫も、叔母さんのことを気に入ったようで、すぐに打ち解けると、二人で何か話しては笑い合っていた。
叔母さんは、まだ二十九歳だし、同じ女だし、何かと話すことがあるのだろう。
更に、同じミュージシャンが好きということが発覚し、二人はますます仲良くなった。きゃあきゃあ言いながらCDを掛けていたが、僕はそのミュージシャンの曲を聴いたことが無く、的外れな感想を口にしては、
「ヒロ君、あっち行ってなよ。」
「そうだよ。」と、二人から詰られた。
雫は、お姉さんができたみたい。と喜んだ。
叔母さんは、雫の傷には何も触れなかった。もしかしたら、全て分かっているのかもしれない。
それから毎日の様に、雫が家に入り浸るようになった。僕らは、まるで小さな頃の夏休みの延長の様に、一日を過ごした。
雫も僕も高校には行っていないから、一日がとても長く感じる。
朝起きて、テレビを見ていると雫がやってきて、一緒に喋ったり、散歩に出かけたり、ゲームをしたりを繰り返す。
雫は、すっかりあや子叔母さんと仲良くなって、一緒に出かけたり、お菓子を作ることまであった。
僕の拒食は治らなかったが、気分が悪くなると雫がぎゅっと手を握ってくれていた。
雫も、新しい傷を作ってやって来ることが多かった。
だけどだれもそれを咎めたりはしなかった。
僕も、雫も単調な毎日の中で、ずっと戦っているのかもしれない。
月齢一九
「ねぇ、似合う?」
雫が、紺地に色鮮やかな朝顔が描かれた浴衣の袂を持ち、くるくると回って見せる。
こんな彼女を見たのは初めてで、言葉に詰まっていると、横から叔母さんが口を挟み、
「とってもかわいい。ねぇ、ヒロ君」と、話を振る。
今日は、近くの神社で秋祭りがある。僕と雫は、一緒に出かける約束をしていた。
「あたしも行きたいけど、今日は旦那の帰りが遅いみたいだからなぁ。気を付けて行ってらっしゃい。」
そう言って叔母さんが、寂しそうに見送ってくれた。
神社へと続く参道には、人が溢れかえっていた。
人々の雑踏と一緒に間延びしたカラオケが聞こえてくる。
町内会のカラオケ大会が、特設されたステージで行われているようだ。
小さな頃に、まだ生きていた祖母に連れられて来たことがあるのを思い出した。
人ごみに当てられてか、雫の小さな手が僕のTシャツの裾をぎゅっと掴む。
その手を、ゆっくりと手繰り寄せしっかりと握った。
色とりどりの提灯が夜空を彩っている。
そんな中、雫が目を輝かせて露店をのぞく。
そして、べっこうあめ、りんごあめ、たこ焼き、ヨーヨー釣りと、雫があや子叔母さんへのお土産にと、たくさん買い込んでいく。
僕は、情けないことに人に酔ったのと、露店の食べ物の匂いで気分が悪くなってしまい、それに気付いた雫に、「もう帰ろう」と心配されてしまった。
大丈夫だからもう少し遊んで帰ろうと言うと、雫は、じゃあ最後にもう一個だけいい?と顔を明るくさせた。
雫が、真剣な面持ちで水面を見つめている。
その内、狙いが定まったらしくそうっと、紙で出来た網を水の中に入れて行く。
それを一気に持ち上げて、取れたと思った瞬間、黒の出目金が、網を破いて勢い良く水の中に戻って行く。
「あーあー。」
思わず二人同時に落胆の声を漏らす。
その時、ふいに僕の携帯電話が鳴った。東京の自宅からだった。
慌てて、通話ボタンを押すと雑踏と混じって母の声が聞こえた。
「・・・のね・・・うたくんのお母さんから・・・きてね。」所々、雑音と混じって聞き取りにくかったが、その話は僕を大きく動揺させた。
宗太が、僕に宛てて書いた手紙が見つかったらしく、それを受け取りに来て欲しいと宗太の母から連絡があったと言うのだ。
電話を切ると、ビニールの袋に入った小さな赤い金魚を持った雫が駆け寄ってきた。
「三回やっても取れなかったから、店のおじさんがくれたの」
そう言って笑ったが、やがて僕の様子に気付き顔を覗き込む。
何でも無いよ、と無理やり笑顔を作るが、きちんと作れていたのかは、いまいち自信が無い。
暗い帰り道を歩いていると「何かあったの?」と雫が心配そうに訪ねてきた。
話して楽になってしまおうか。そう思った。
だけど何から話していいのかわからず、ただ雫を見つめていた。
すると、雫が僕の手をぎゅっと握り真剣な面持ちで話す。
「いいよ、言って。あたし、ヒロ君のこと嫌いになったりしないよ。」
雫の手は暖かくて、雫に名前で呼ばれたのは初めてだと考えられる程まで、僕の心を落ちつけた。
月齢二十三
久しぶりに戻った東京は、人が多すぎて酸素が薄い気がした。
緊張感からくるのか、特急電車のトイレで何度も吐いた。
宗太が、自殺を図った直接の原因を僕は大まかにしか知らない。いや、知ろうとしなかった。
宗太とは幼なじみで、小さな頃から友達というより、兄弟のように育ってきた。
親同士も仲が良かったから、小学校の頃は学校から帰るとどちらかの家で遊ぶことが多かった。
中学二年になった頃、宗太がクラス内でいじめられているという噂を聞いた。
僕らは、クラスこそ違うものの、仲はよかった。宗太は、僕に悩みを打ち明けようとはしなかった。
だから、僕も今まで通り付き合ってやればいいんだと勝手に解釈していた。宗太は明るい奴だったから、事態はそんなに深刻じゃないのかもしれない。そんな風に思っていた。
しかし、僕が思っていたより世界は残酷だった。
宗太は自殺を図る前の日に、教室で殴られ、けなされ、最後はクラスのみんなが見守る中、自慰行為をさせられたと聞いた。
中学生にとって、いじめられることは自分の全てを否定されているようなものだ。
学校に居場所が無い。
それがどれだけ辛いことなのか、僕は知っている。
宗太が、学校に来なくなってからの、僕がそうだったからだ。
ただ、僕は自分から周りの人達を拒絶していたのだけれど。
宗太は、自分の部屋のカーテンレールで首を吊った。
普通は、そんな物で自殺を図ったってレールが外れ、床に尻から落ちるくらいだ。
実際、それで我に返り自殺を思い止まった人だっていると聞いた。
だけど、宗太が不運だったのは、百五十センチしかない小柄な体型だったことだ。
カーテンレールは壁から外れず、ただレールが弓の様にしなり、頚動脈を圧迫された彼は膝を床に着き、宙吊りになったまま十五分後に発見された。
息はあった。しかし、血液が流れなかった脳は確実にダメージを受けていた。
宗太は、脳麻痺の状態でずっと生き続けている。もう二年になる。
僕はあれから、一度も彼に会っていない。一度だけ、病院を訪ねたが家族以外は病室には入れなかった。
宗太の家にお見舞いに行った母は、「もう、今話しかけているのが誰かもわからないんですって。」と言って泣いた。
僕は、宗太に何もしてやれなかった。そんな思いがずっと拭い切れずにいる。
あの日に彼が家に来たと、後になって母から聞いた。
顔に大きなあざが出来ていたという。
僕は、彼に会えなかった。友達の家に行っていたのだ。普段は、そんなことめったにないのに。
一緒にいたのは、宗太と共通の友達だった。あの時、呼んでいたらと彼は悔やんでいた。
呼んでいたら、宗太は自分から死を選ぶなんてこと、しなかっただろうか?
僕は、未だにそれがわからない。
神社の石段の隅っこに座って、雫は、僕の話をただ黙って聞いていた。
そして、きっぱりと言った。
「会いに言った方がいいと思う。会うべきだよ。謝るとか、終わりにするとかそういうのじゃなくて。そうじゃないと、あなたが前に進めないじゃない。」
「あたしみたいに。」
最後は、まるで自分に語り掛けているかのようにか細く小さかった。
それでも、それは、僕を勇気付ける魔法の声。
電車の中で、迫り来る吐き気と戦いながら、何度も君の声をリピートする。
宗太の家は、僕の実家のすぐ近くにある。
家に帰らず、まっすぐ彼の家に向かった。
家に帰ったら、もう、彼の家には行けない様な気がした。
「いらっしゃい。来てくれてありがとうね。」
チャイムを鳴らすと、すぐにおばさんが出てきた。
二年ぶりに会った彼女は、少し痩せていた。
宗太の病室で会った時の様はかわいそうな位に、取り乱していたことを思い出す。
「なんだか、ずいぶん大人になったわねぇ。」
おばさんは、僕を見ると、感嘆の声を漏らした。
「ヒロ君、もともと大人っぽかったけど。だんだんお父さんに似てきた? 」
そして、節だけになった僕の手を、その柔らかくて小さな手で懸命に包む。
「…こんなに痩せちゃって。」
リビングに通されると、おばさんがお茶と一緒に一冊のマンガ本を持ってきた。
それには、見覚えがあった。二年前、宗太に貸した物だ。
「これ、ヒロくんのでしょう? 」
それを、手に取り頷くと、おばさんが、
「長いこと借りちゃってごめんね。その中に入ってたのよ。これ。」
と、黄ばんだ封筒を渡してくれた。
これが、宗太から僕あての手紙のようだ。
「読んであげて。」
緊張しながら、便箋を開く。
そこには、懐かしい宗太の字が並んでいた。
几帳面な、角張った文字。
一文字一文字を、ゆっくり目で追う。
最後は、涙が溢れて読めなかった。
嗚咽を漏らす僕の頭を、おばさんが抱きかかえてくれる。
彼女も顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
「ありがとう。ありがとうね、今日は来てくれて。」
宗太は、あの日僕にこれを渡したかったんだ。
もしかしたら、これから自分がしようとしていることを、止めてもらいたかったのかもしれない。
その時の、宗太の心中を思うと、涙が止まらなかった。
「あの頃、宗太の様子がおかしいって、わかってたの。だけど私、きっと反抗期だろうって勘違いして。あの子の笑顔を随分見ないなって思ってたのに。追い詰めてしまった。」
おばさんも目にたくさんの涙を貯めて、それをこぼさない様に必死で耐えているのがわかった。
「でもね、あの子、今は笑ってくれるのよ。たくさん。ご飯がおいしいって笑って。お父さんの顔がおもしろいって笑って。だから、おばさん、生きていけるの。」
帰りに、宗太の部屋をのぞいた。
宗太は、僕を見ると「ああー。」と大声で叫び手を挙げた。
鼻から入れられたチューブが痛々しい。
そっと手を握る。すると、赤ちゃんみたいにふくふくした手が、信じられないくらい強い力で握り返してくる。
声にならない声が、僕を見つめる目が訴えかけるものの大きさに、耐え切れずに僕はまた泣いた。
宗太、助けられなくて本当にごめん。
だけど生きててくれてありがとう。
僕に出来ることといったら、宗太が少しでも、毎日を心安らかに生きていてくれることを願うこと。
きっと、それしか出来ない。
電車の中で、宗太の手紙をもう一度開く。
「ヒロへ。
突然こんなことになってごめん。
びっくりしてるよな。
俺、実はずっと学校に行きたくなかった。(事情はもうわかってると思うけど)
相談しなくてごめん! だけど、ヒロとはずっと今までのまんまで遊びたかったからさぁ。
ヒロが、今まで通りに接してくれて本当にうれしかった。
ありがとう。ばいばい!」
便箋二枚にでかでかと書かれた手紙を、バッグにしまうことが出来なくて、駅に着くまで何度も読み返して、その度泣けてしまった。
特急はがらがらに空いていたので、僕はシートに沈み込んだまま涙を垂れ流した。
駅に着くと、ホームで雫が待っていた。
あやこ叔母さんに、帰る時間を連絡しておいたから、迎えに来てくれたのだろうか。
彼女は、腫れたまぶたの訳を何も聞かず、ただ
「おかえり。」
と言って笑った。
月齢二十六
雫の来ない日が続いていた。
あの日、駅で別れてからだから、もう六日になる。
明日が彼女の誕生日だと聞いたので、三人で外で食事をしようと計画していた。
ささやかなパーティ。
それは、僕から雫への牽制でもあった。
いつもの様に、診察を終え病院を出ると、坂の下で雫が待っていた。
笑いながら手を振っている。しかし、すぐに彼女の様子がおかしいのに気付いた。
腫れたまぶたに、かさかさのくちびる。
真青の顔。
ゴシックロリータ調の黒いレースのワンピースの袖からは、掌へと血が滴っていた。袖を捲り上げハンカチで、血を拭い取ってやる。
「雫が、黒い服を着るなんて珍しいね。」
彼女はいつも、白やピンクのフワフワしている服を着ているから、なんだか今日は別人の様に見える。
「ママが死んだの。」
雫が、小さな声で呟いた。
「だから、喪服のつもりなの。」
とりあえず、雫の手を引いて家に帰る。
その間中、電車の中でも、歩いていても雫はにこにこしていた。
しかし、家に着きあや子叔母さんが傷の手当てをしていると、雫は叔母さんにしがみ付いて泣いた。大声で、ずっと泣き続けた。
そのうち、泣き疲れて眠りそうになった雫を、僕のベッドに連れていくととたんに寝息を立てて眠ってしまった。
あや子叔母さんに事情を話すと、病院に連絡を取り、雫の家に電話を入れてくれた。 今夜は、家に泊めると伝えると、雫の祖母は、「ずっと家を出てた母親が、昨日事故で亡くなったんです。こっちもごたごたしているから、しばらく面倒見てやってくれないでしょうか。すいません。すいません。」と何度も謝り、電話を切った。
夕方、様子を見に二階へ上がると雫は起きていて、ベッドの上で毛布に包まっていた。
声を掛けると、雫は僕に向かって手招きをした。
「手、握ってて。」
言われるままに、彼女の横に寝転び、左手をつなぐ。
すると、雫がまた泣き始めた。
僕に泣き顔を見せない様に、手をつないだまま、壁の方を向いた彼女がいじらしくて、後ろからそっと抱きしめる。
雫が小さく「ありがとう。」と呟いた。彼女の身体は、柔らかくて小さかった。
「ママの思い出なんてね。ぜんぜん無いの。」
僕の腕の中でぽつりぽつりと話し出す。聞いてやる事しか出来ない自分が、小さく思えてくやしい。
「あんな人、大嫌いだった。すぐぶつし、怒るし。なんで、あたしこんな人の子供に生まれてきちゃったんだろうって。あたし、あの人の事、憎んでた。死んじゃえばいいって思ってた。」
ママが死んで、悲しいって思わないの。そう言うと、僕の方に向き直り、胸に顔を押し当てる。
「・・・だけどね。あたし、きっと、ずっと、こんなふうにママに抱きしめてもらいたかったんだぁ。」
新月(月齢二十九・五)
雫が、いなくなっているのに気付いたのは明け方だった。
腕の中に彼女の温もりがないことに気付き、ベッドから飛び起きると、机の上にメモが残されていた。
そこには小さな文字で「バイバイ」とだけ書かれていた。
走った。
ひたすら走った。
まだ薄暗い町の中を、全力疾走した。
息が上がるのも、足がもつれるのも気にならなかった。
漁港の町は、この時間から生臭い匂いがしたけれど、そんなのちっとも気にならなかった。
どうして眠ってしまったんだろう。
どうして気付かなかったんだろう。
どうして雫を救えたような気でいたんだろう。
今日は、雫の十六回目の誕生日だった。
それなのに。
頭の中に浮かぶ沢山の「どうして?」を振りきりながら、海を目指す。
雫の行く場所。
雫が死ぬために選ぶ場所。
雫が一番好きな場所。
家族で行った思い出の場所。
そんな所、あそこしかない。
灯台公園に着くと、遠くからがきん、がきんと鈍い音が響いてきた。
音のするの方を見ると、雫が灯台の入り口につけられている古い南京錠を石で叩き壊していた。
彼女の名前を叫ぶと、慌てた様子で何度も石を力任せに打ち付ける。
すると、お情け程度で付けられている鍵は簡単に破壊され、開いた扉の中に、小さな身体を滑り込ませる。
慌てて、追いかけて灯台の中に入り、彼女の名前を叫ぶ。
中は、思ったよりも冷え込んでいる。
かんかんかんかん。
ミュールを履いた足で螺旋階段を駆け上っていく音が、白い壁の中を反響して響き渡る。その足音を追いかけ、駆け上がる。時折、雫のワンピースの裾が見え隠れするものの、掴めそうで掴めない。
息が苦しい。
上手く空気が吸えない。
まるで、なにかを引きずっているように足が重い。
螺旋階段を上り、さらに上へ向かう梯子を上り、展望台に辿り着くと、雫が柵に片足を掛けていた。
視界には三百六十度のパノラマが開ける。
遠くには山。
眼下には海。
しかし、ここから落ちたら下のコンクリートにまっさかさまだ。
「雫!」
一瞬、雫の身体が強張ったが、こっちを振り向くと僕の方をにらんで叫ぶ。
「来ないで!あたしのことなんか見ないでよ!」
「何でだよ。死ぬ時は俺の前でって言ってただろう。」
柵によじ登り、片手だけ柵を掴んで立ち上がり叫ぶ。
「ずっと決めてたんだから。あたしは死ぬの。死ななきゃいけないの。」
僕も、負けない様に腹の底から声を出して叫ぶ。
「もう、お母さんは死んだんだよ!君が、苦しめられることなんてもう無いんだ!」
雫の目からたくさんの涙が頬を伝う。
「だって、あたしが誰かを愛したって、きっと傷付けちゃう。
その人も、子供も。もう嫌なの。あたしなんか死んだほうがいいの。」
だってママにも愛して貰えなかった。
最後の方は、絶叫だった。雫の身体が、ゆっくりと後ろを振り返る。
突然、眩しい光が僕と雫の間を横切った。
朝日が昇る。
その時、目がくらんだのか雫が柵の上で態勢をくずして、後ろに仰け反った。
まるで背面飛びをする様にバーを背にして。
「キャアアッ」
黒いワンピースの裾がひるがえり、履いていたミュールが飛びあがる。
僕には、その一連の出来事がスローモーションの様に見えた。
動け!
頭の中で声がする。
右足を出す。
腕を伸ばす。
まず、雫の左手を掴む。
そして、強く引っ張りながら左手で腰を抱き寄せる。
柵の上に乗せた身体を思いきり引き上げる。
自分の中にそんな力がどこにあったのか分からない。ただ、雫の身体越しに見た地面は遥かに遠く、彼女を行かせてはいけない。そう強く思った。
二人とも、展望台の冷たい床の上に重なって崩れ落ちた。
寝転がったまま、雫の両手を手繰り寄せ、ぎゅっと握り締める。
彼女はしばらく呆然としていたが、その内、その小さな手を通して、身体を震わせているのが伝わってきた。
身体を引き寄せ、胸の中に抱きしめる。
僕の腕の中にいる、雫の存在を確かめる。
「・・・死ななくてよかった。」
僕は、いつのまにか泣いていた。
その涙を、雫が自分の頬を擦り寄せ拭ってくれる。
「見て欲しくなかったの。ヒロ君には。あたしのことなんか忘れて欲しかった。」
雫も、自分の目に大粒の涙を浮かべて小さな声で少しずつ話す。
「好きになったから。」
お互いの涙が、交じり合い頬を濡らす。
「ママが死んで、あたし自由になったんだと思う。だけど、あたしは」
言葉を詰まらせる。
「あたしは、人の愛しかたがわからないの。」
そう言って、彼女は目を伏せた。
「ママだって、あたしのことを好きになってくれなかった。
ヒロ君もきっとあたしのこと、嫌になる。
あたしだって、きっとあなたのこと傷付ける。
そういうのが嫌になったの。だから、終わりにしたかったの。」
ごはんをたべることも、
はなすことも、
わらうことも、
はしることも、
ひとをすきになることも。
一つ一つ、選び出す様に呟く彼女の言葉をじっと聴いていた。
涙は、ずっと流れ続け、頬から零れ落ちたしずくがコンクリートにちいさな跡を残す。
ほっぺたにくっついた彼女の髪の毛を、そっとはがす。
「・・・それでも、雫が生きててくれて嬉しいよ。」
彼女の目を見て、ゆっくりと、そう話した。
雫の頭を抱き寄せ、そっと抱きしめる。
彼女は、しゃくりあげて泣いた。
身体の震えはもう、止まっていた。
裸足の雫と一緒に灯台を出る。
重い、鉄の扉を開け、外に出ると、朝の眩しい空気が僕達を包んだ。
扉の前に落ちていたミュールを拾い上げた雫が、「あー、壊れちゃってる。」と小さく呟く。
そんな雫に背中を向けて屈み込み、彼女に乗るように勧める。
雫が、遠慮がちに僕の首に腕をまわすのを確認してから言った。
「今度さ、一緒に買いに行こうよ。プレゼントするよ。」
背中に、
耳たぶに、
首筋に。
雫の温度を感じる。
その暖かさが僕の心臓をゆすぶる。
温もりを感じられた喜びで、涙が出そうになるのを堪えて囁く。
「お誕生日おめでとう。」
帰り道で、ふいに雫が空を見上げて呟いた。
「あ、月が見える。」
空に浮かんだ、真白い三日月は太陽の光に今にも打ち消されそうに浮かんでいた。
地球上から見たら弱々しい光。
だけど、確かに月は輝いている。
気になって、雫の二の腕を見る。
ノースリーブのワンピースから突き出た細い腕に刻まれた、三日月は少しだけ薄くなっているような気がした。
それが、僕らの長い夏休みの終わりだ。
エピローグ
秋の終わりの夕方、雫と庭にチューリップの球根を植えていると、あや子叔母さんがどたどたと走ってきて、満面の笑みを浮かべながら言った。「子供ができたみたいなの!」
僕と雫は、しばらく呆然としていたが、事態を飲みこむと「おめでとう!」「よかったね!」と言い合った。叔母さんが鞄から取り出した胎児の写真を見せてもらうと、まだ小さな塊でしかなかったが、それは確かに生きているのだ。
「ここにいるのね。」
雫が、まだ何も変化の無い、叔母さんのお腹をさすり、耳を近づけた。
「心臓の音が聞こえるかな?」
まだ、聞こえないわよぉ。一ヶ月目だもの。叔母さんが、そう言って雫の髪をなでる。
「でもね。雫ちゃんと同じ、女の子なんだって。」
それを聞いた雫が、少し間を置くと叔母さんの顔を覗き込んで言った。
「可愛がってあげてね。」
「うん。」
「ぶったり、しないでね。」
「うん。」
「愛してあげてね。」
「うん。」
叔母さんは、雫の言葉の一つ一つに大きく頷くと、雫を胸に抱きしめて泣き出した。
雫も、泣いていた。僕も、目と鼻と耳の奥が痛くなった。目頭が熱くなる。泣きそうになっているのを悟られない様に、一生懸命球根を植えた。来年、この花が咲く頃、お腹の大きくなった叔母さんと、雫と三人でまたこうやって笑っていたい。そう思う。
流れてきた涙を拭わないで、乾かそうと思った。鼻水をすすると、秋の風も一緒に吸い込んだ様で鼻の奥がツンと痛かった。
上り始めた満月が、僕らのことを見下ろしていた。(終)