06 TOO BEAUTIFUL TO LIE(彼女を信じないでください)
「ぼく」の一人語りから離れます。医師とイオナの話です。
面会の時間は終わり、病院は静けさを取り戻している。雑誌を膝に乗せて、ぼんやりと過ごしていた女の病室のドアに、軽いノックの音がした。応えるまでもない。どうせ医師か、看護師だ。黙っていても、入って来るはず。
「気分はどう?」
「ありがとうございます。特に問題はありませんけど、お珍しいですね。回診の時間でもないのに」
入って来た医師にそう答えると、読んでもいなかった雑誌に目を落とす。
「……色良い返事は貰えていないとは言え、君に求婚した相手だ。機会があれば、顔くらいは見に来る。そして、親しさの欠片もない言葉には、心を痛めているよ」
「そう?私が気を遣う理由もないと思うけど、じゃあ、言い直すわ。ありがとう、大丈夫よ。おやすみなさい。それから、お返事ならこの間、いたしました。治験でトラブルが起きたら、延命措置は要りません。訴訟を起こす遺族などはいませんから、ご安心ください。死んだら、私の口座は自由にしてください。通帳と印鑑はここにあるわ」
彼女の言葉に、医師はため息をついた。
「そう言って君は、飛び出して行った。私が、名誉か金のために、君の戸籍が欲しいのだと思ったのかい」
「どうでもいいわ。翌朝、戻ってきたじゃない。また命を縮めてね」
軽く頭を振ってから、彼はまた続ける。
「今夜はここで、朝まで過ごすつもりで来た。容態の急変にも、対応できる」
「大人しくしていれば、変わらないでしょ。それとも、何か、するつもり?」
「君が受け入れてくれるならね」
「構わないわよ」
女はそう言って、ベッドの上で身体をずらした。開いたスペースに引き込まれるように、腰を下ろしてしまう。腕を回し抱き寄せても、抗いはしない。片手で抱いたまま自分の白衣を脱ぎ捨てると、ベッドに倒れこんだ。唇ごと押さえつけるようなキスをして、忙しく彼女の服を脱がせていく……、手が、止まる。
「拒みはしないが、応えもしないんだな。さすがに、詰まらない」
「どうせもうすぐ死ぬんだから、何をされたっていいけど。貴方のために、お芝居をしてあげる義理もないわ」
「ああ。それに気づくと、萎えるよ。君の身体だけが、欲しいわけじゃないからな」
苦笑いで身を起こし、立ち上がる。椅子に引っかかっていた白衣を取り上げると、再び口を開いた。
「これがなければ、君に近づく事も出来ない。私は君にとって、ただの医者。それだけの人間だ」
「そんなことないわ。客観的に見たら、素敵な方だと思うけど?」
「では何故、私を選ばない。あの男を連れてきたのが、君の答えか?」
「連れてきた訳じゃない。具合が悪くなったときに、そばにいただけ。ただの偶然よ。それに、彼も関係はないわ。少なくとも、私はそう思ってる」
「向こうは、そうは思ってないようだが」
「そう?気のせいじゃない?でなきゃ、彼は私に同情してるのよ。もうすぐ死ぬ相手を好きになっても、時間の無駄だもの。そんな物好きはいないわ」
「ああ、私もそう思うよ。だが、君は必ず、私が治す」
横たわったままの女はちらりと目を上げる。だが、すぐにまつ毛を伏せた。
「肺にも転移していて、助からないって言ったじゃない。息苦しくなって、たくさん血を吐いたわ。もう、終わりだって思った」
「血の色は鮮やかで、量も僅かだった。酒なんか飲むから、戻したときに、喉を傷つけたんだ。肺の肉腫は、まだ少ない」
「気休めをありがとう。でも…どうして…、そんなに一生懸命になってくれるの?変よ」
「あの台詞を、また言わせるつもりか。愛して、いるから…だ……」
「……似合わないわ、そんな言葉。貴方にも、私にも」
「そうだな」
もう一度ベッドに座り、抱き寄せる。女はシャツの胸に頬を押しつけて、低く呟いた。
「死にたくない……」
「分かってる」
薄い肩を抱いた指に、力が入りそうになる。だが、やがて、ゆっくりと放した。
「今夜はずっと、側にいるから。安心して眠るといい」
「何かするのは、止めたの?」
「そのうち君が自分から、色っぽく誘ってくるのを待つとするよ」
「一生、ないかも知れないわ。もうすぐ終わりだし」
「怒るぞ」
女はもう一度、目を上げる。
「患者の我がままに、いちいち怒ってたら、医者なんかやってられないでしょ」
「まあね。と言っても、嫌われたり怖がられたことはあっても、好かれたり甘えられたことは無いな。だが、女の我がままは、甘えからくることだと理解している」
「呆れた。自惚れもそこまでいくと、尊敬に値するわ」
「自信と言って欲しいね。それに、君に尊敬されるのは喜ばしいことだ」
「バカらしい。おやすみなさい」
そう言って男の腕から逃れると、ベッドに横になり、背を向けた。
「もう、顔を見せてくれないのかい」
「眩しいわ。灯り消して」
言葉通り、すぐにスイッチが消され、ドア近くの常夜灯だけになった。女は仰向けになると、目を開ける。
「あら、まだいたの」
「今夜はここで過ごすと言ったはずだ」
「寒いわ。エアコンが合わないみたい」
「空調は自動だ。仕方ないな」
ベッドに腰掛けると、彼女を軽く押し、自分も横たわる。再び抱き寄せられた女は口を尖らせた。
「掛け布団、直してくれるだけでよかったのに。狭いじゃないの」
「人肌の方がいいだろう?まあ、布地越しではあるが」
「ふうん。なかなか、自制心があるのね」
「いや、先程の自分の言葉に、心の底から後悔している」
相手はくすくす笑い、手を伸ばしてネクタイを緩めた。
「これくらいは、外した方がいいわ。苦しいでしょう」
「もっと他の場所を楽にしてくれると、とても嬉しいのだけれど」
「駄目」
「地獄だな」
「誰も、こうして欲しいなんて頼んでないわ」
「そう、私が勝手にしていることだ。…君に一つ、聞きたいことがある」
「何かしら」
「息子が、あの男は君に手も出せない臆病者だと言っていた。本当か?」
急に声の調子が変わり、女は返答をためらう。
「……あんな姿を見て、まだ抱こうなんて思うのは、病人を見慣れた医者くらいよ」
「悪かったね。では、その前は?あるいは、君がまだ病気を知らなかった頃からの知り合いか?」
「ずいぶん、気にするのね」
「答えなさい」
「……一度もない、とは言わないわ。でも、ここで暮らすようになってからは、誰とも、何もありません。誰かの思い出になるのは嫌だし、相手にも迷惑でしょうから」
「分かった。無理強いして、済まない。どうしても聞いておきたかった」
「聞いて、どうするの」
「あんな男でも、ライバルと思えば気になる。スタートは遅れたとしても、現在のアドバンテージは私にあるようだ。必ず治して、君を手に入れる」
「治らないのに」
「何度も同じことを言わせるな」
「じゃあ、けろっと治ったら、貴方を捨てて出て行くわ。さよなら」
「莫大な治療費を請求するよ。絶対に払えない程の」
「酷いわ」
笑いながら文句を言うと、微かな笑い声が返ってくる。
「だから君は、私のものになる」
「先のことなんか分からない。でも、ありがとう。これで今日は、眠れるわ」
「やはり、な。ろくに寝ていないと思っていた。体力をつけてもらわないと、強い薬も使えない。明日からはベッドを替えて、毎晩抱いてあげよう」
「嫌よ」
「逆らうなら、安定剤を打ちにくるが。うんと痛いものを」
「まあ、怖い」
また笑い出した女の唇を、自らの唇でそっと塞いだ後、すぐに離した。
「今は、これだけにしておくよ。おやすみ」
「ありがとう。もっと早く、貴方のことを知りたかったわ。こんなことになる前に」
「……どういう、ことだ?」
だが、もう彼女は答えなかった。生きる気力を無くしたというのか。確かめるのもためらわれ、言葉は繋げない。絶対に、治してみせる。確率は低くとも、可能性が無いわけではない。だが、当人は不安だろう。当たり前だ、死ぬのは怖い。可哀想に。
協力的とはいえ、ただの患者のはずだった。若くて美人なのに気の毒だと息子に言われるまで、それすらも気づかなかった。可哀想、などという感情が、まだ自分に残っていたとは。
「礼を言うのは、私の方だ。君の感謝の言葉も、治るまで取っておいてくれていい」
低く呟くと、目を閉じる。狭いと文句を言われたが、独りのベッドよりはずっと心地良く、とても温かだった。
枕元のスピーカーから、看護師の声がする。
「おはようございます。入院患者の皆さん、検温お願いします」
驚いて目を開けると、彼の腕の中で女が笑っていた。
「起きて、いたのか。早くから?」
「そうでもないわ。動いたら目が覚めるかと思って、少しだけ待っていたところ」
「誰かに寝顔を見られるなど、もう、記憶に無いな」
「可愛い顔で眠っていたわ」
「ふん。私も少々、腕が痺れて目が覚めたようだ」
憎まれ口を利きながら、起き上がる。何かまだ言いたそうな女を抑え、さっと脱がせてしまう。小さな悲鳴を上げた彼女だが、すぐに大人しくなった。男の目が、昨夜とは違うのだ。肩に軽く手を当てられると、素直に背を向ける。
滑らかな肌を、指が滑っていく。時折、指を重ねて軽く叩かれると、僅かに身体が揺れる。
「フラフラだな。もっと食事を摂るように」
「触診って、嫌いじゃないわ。お医者様の手って、どうしてこんなに安心できるのかしら」
「それが仕事だから、だ。真面目に聞きなさい。手で触れて感じられる程の変化は無い。以上だ」
「はい、先生。今日は出かけてもいいですか」
「短時間なら、構わないが……」
ノックの音がして、看護師が顔を覗かせた。
「体温はどうでした? あら、院長先生……」
意外な人物の存在に驚くが、相手は冷静だった。
「平熱。脈拍は正常。食事は今日から倍量に」
「ええー、そんなに食べられないわ」
「体力が無ければ、投薬治験も出来ない。君のスタイルがどうなろうと、私の知ったことではない」
あまりにも彼らしい答えに、早朝からここにいる不自然さは、消えてしまう。もしかしたら昨夜からずっといたのではないか……、などとは夢にも思わず、看護師は急いで出て行った。まさか、あの怖いドクターの前で笑い出すわけにもいかない。
「どこに?」
医師は話を戻す。
「いつものオフィス。他に行くところなんて、ないもの」
「あの男のビルか。不愉快だな。早く帰って来なさい。ああ、そうだ。留守の間にベッドを替えて置こう」
「止めてよ」
抗議の言葉など無視して、彼はドアへと向かう。とりあえずは着替えなくては。元々、当直でも何でもない。帰宅してシャワーを浴びていたら、朝の申し送りに間に合わないだろうか……、などと考えながら。