02 HITCH(最後の恋のはじめかた)
何とかもう一度誘い出したが、かわされてばかり。
二時間後。ぼくは彼女と連れ立って歩いていた。
ボリュームのあるムートンのボレロの下は、柔らかく脚にまとわりつく生地のパンツで、すらりと細い。夜の街に出るからか、全身をシックな黒に替えて、ヒールも高かった。クロエのバッグで、少しだけカジュアルダウンしている。ごつい金具が逆に、全体のエレガントさを強調しているようだ。
「見違えたよ」
「そう?」
綺麗に塗られた口紅が、街の照明をキラキラと弾く。左手首に金色のチャームが揺れるので覗き込んだら、ランタンタイプのロレックスだった。
「これが私と同い年なんだけど……。お店ではね、アンティークのコーナーにあるのよ。そのうち私も、博物館行きね」
「それならぼくも、化石扱いだ」
残念ながら、というか、きっとそうだとは思っていたんだけど、入ろうとしたどこの店も混んでいた。
「場所、変えていいかな?」
「ええ。あまり遠くでなければ」
タクシーで移動した。実は、ぼくの家の近くなんだけど、その辺なら無理がきく。
「おすし屋さんはどう?」
「あんまり、行ったことがないわ。だって……」
彼女は何か言いかけたが、もう、目的地に着いてしまっていた。六本木という土地柄、若者や外国人も多いので、明るい店ではある。顔見知りの板前に冷やかされながら、ぼくたちは席についた。
「何が好き? 今日のお勧めを貰う?」
「私、生魚は食べられないの」
「えっ」
さすがにぼくも板前も絶句した。だったら、すし屋になんか来るなよ! って、さっき言いかけていたのは、これか……。
「ごめんなさい。見え透いたセリフで誘われて、ここまで連れて来られたので、ちょっと拗ねてしまって。でも本当に、お腹は空いていないの。何か、飲み物をもらえますか」
呆れ顔の板前にそう言うと、納得したらしく笑い出す。
「いやあ、びっくりしたよ。ふざけた女だって、一瞬だけ思っちゃった。そうそう、こいつはそういうヤツなんだ。騙されるなよ?」
「何だよ、人聞きが悪いなあ。人の恋路を邪魔しないでくれる?」
「恋路も何も、どうせ上手く行きっこないから、いいだろ。飲まされすぎないように、冷や酒は止めておくといいな」
板前は機嫌を直して、酒の棚を見に行く。わがままなだけじゃなくて、ちゃんとフォローも出来るんだな。突っ放していい相手と、そうじゃない相手の区別が出来てる。ぼくは、どっちなんだろう? さりげなく渡されたボレロをハンガーにかけながら、そう思った。
いい焼酎のお湯割りに、ほんの少し山葵をおろして、何杯か飲んだ。彼女が気に入ったのだろう、ぼくの子供時代の話を始めた板前に、笑顔で応えている。ついこの前知り合って、今日初めて出かけたのに。こんなに自然に、一緒にいるなんて。
あまり強くないのか、たくさんは口にしなかったが、それでもイオナちゃんの頬がほんのり染まったのをしおに、ぼくらは店を出ることにした。ボレロをとってあげると、短すぎて上下が分からないわと笑う。少し酔ったのかな? 可愛い酔い方だ。
歩道に出てから、一応謝っておく。
「ごめんね。それから、ありがとう。店でケンカ始めるんじゃないかと思った」
「ううん。私だって、常識くらいはあるわ。思ったままに言っていいときや、そんな相手。それじゃダメなときと、そんな相手も」
「……ぼくは?」
「何も言わなくてもいい相手かも知れないわ」
そうだよな。知り合ったばかりなのに、クルマに乗せたら寝るし…。
「じゃ、人畜無害なところで休んでいってよ」
「もう帰るわ。駅は向こうね?」
「酔って電車に乗ったら、危ないって。タクシーも、気持ち悪くなるかもしれないよ」
道端で足を止め、腕を取った。目の前のビルの一階は、もう営業が終わったブティックで、マネキンが淡い光の中で立っている。そのまま中に入り、エレベーターに乗せた。また別の店にでも連れて行かれるのかと思っていたらしい彼女だが、普通のドアしかなくて、ぼくがその鍵を開けるのを見ては、さすがに驚いたみたい。
「なあに、ここ」
「ぼくの住んでいるところ」
背中を軽く押すと、そのまま足を進める。革張りのソファに座らせると、ぼくも隣に座った。お持ち帰り成功。もう、こっちのものだ。
「誰かのせいで、お腹が空いたわ」
「ぼくは、君が食べたい」
「美味しくないわよ。それに、喉が渇いた。酔い覚ましのコーヒーを淹れて?」
「うん。後でね」
そのままソファに押し倒す。でも、僕の腕をすり抜けて床に逃れると、さっと立ち上がった。帰ってしまうのかと思ったら、部屋の中をあちこち歩き回る。寝室のドアを開け、また閉めた。今度は浴室に繋がるドアを開ける。
「入浴剤がたくさんある」
洗面台のかごには、入浴剤がたくさん盛ってある。それを見つけたらしい。がさがさと探して、一つを摘み上げた。
「ゆず湯にしよう」
浴槽の水栓を開くと、バリバリと包装をあけて放り込む。
「いい香りだよね。ゆずって」
機嫌を損ねたのではない様子を見て、ぼくも安心した。
「うーんと、ゆずも、大嫌い。お吸い物や茶碗蒸しに入っていると、吐きそうになるわ」
「おいおい、じゃ、何で……」
呆れていると、ぴしゃりとドアを閉めた。何なんだ、いったい? すぐに出てくるかと思っていたが、その気配はない。少し心配になって、ぼくは様子を見にいく。
洗面所には、簡単にたたんだ服が置いてあった。ガラスの向こうで、湯の落ちる音がしている。軽く叩いてから、ぼくはガラス戸を押し開けた。何も身にまとわずに浴槽の縁に腰をかけ、脚をぱたぱたさせている。
「なかなか、お湯がたまらないわ」
「そうだね。一緒に入っていい?」
「ダメ」
ぷいと顔を背け、浴槽を覗く。隙を見てぼくは、軽く足首をつかんで引っ張り上げた。
「きゃあっ」
バランスを崩して、頭からお湯の中に、は落とさない。ちゃんと、しっかり抱きとめている。
「ごめん。びっくりした?」
少し涙目になっている。怯えた瞳ですがりついた一瞬の表情が、忘れられない。きっとこれが、素の彼女なんだろう。
「ちから…あるのね…、落ちるかと思った…」
「男だから」
そのまま、まだ乾いた石貼りの床に横たえた。照明と連動して暖房が入るので、冷たくはない。いつの間にかいっぱいになった湯が溢れ、流れていく音がする。
「お湯、溢れてるみたい。服が濡れちゃうわよ」
「構わないさ」
ここで離したら、彼女の気持ちはまた、どこかへ行ってしまいそうだ。
「私ね」
「うん」
「子供のとき、耳に水が入って中耳炎になって、夜中に救急病院へ運ばれて大変だったから、こういうの恐いの」
「……」
「さっきだって、絶対に浴槽の底に頭をぶつけて、そのまま死んじゃうんだと思ったわ」
「……」
すっかり、元に戻ってしまっている。多分ケンジは誘ってはみたものの、こんな調子でかわされて、頭に来たんだろうな。とりあえず、もうこれ以上茶化さないうちに、唇は塞いだ。長いキスで大人しくなったところで、手を伸ばして湯を止める。
「続きは、乾いたベッドの上でね」
「冷えちゃったわ。お風呂入らなきゃ」
「温めてあげる」
抱き上げるとまた、幾度か脚を動かしたが、敵わないと思ったのか、もう抵抗はしなかった。
ベッドに運び、そのまま覆いかぶさる。服を脱ぐ間も惜しい。こちらがペースを握っていなければ、一気に醒まされそうだ。彼女は積極的ではなかったけれど、反応がないわけでもなかった。疲れているのか、気乗りがしないのか。
「ちゃんと、……しようよ」
「うーん…、面倒かも…」
この状況で、『面倒だ』というのも酷いし、それだからと言って、このままじゃ眠れない。ぎゅっと抱いたら、驚いたのか僅かに抵抗があって、簡単にぼくは我慢の限界を越えた。そのまま身体を重ね、彼女の中に入り込む。思いのほか熱く潤っていて、ぼくは戸惑った。今何か言ったら…、濡れていたね、待っていたのと言ったら…、怒らせるだろうか。それとも、意地でも茶化すだろうか。まだよく知らないけれど、彼女を、彼女の心を、失いたくなかった。
「ごめん」
だからぼくは、それだけ言った。黒い瞳が、不思議そうに見つめてくる。
「せっかちでごめん」
もう一度言った。ふっと雰囲気が変わり、視線も柔らかくなったのを感じ取れる。
「しつこいより、いいわ」
小さな声で、答えてくれた。
「ここからが長いかもしれないよ」
「嫌だわ、そんな…、あ…」
尖らせた唇は、キスで塞ぐ。再び動き始めると、時折、細く高く、可愛い声が漏れる。それを何度でも聞きたくて、ぼくは夢中になった……。
汗ばんだ身体を離し、鼻先にキスをする。ほんのり染まったまぶたが、物憂げに開いた。
「疲れちゃった。眠っていい?」
「どうぞ。いま帰ると言われたら、泣くよ」
少しだけ微笑んで、大きな瞳をすっと落とす。疲労を表す暗い翳に、無理をさせたかと、少しだけ後悔する。
だが、車で言われたのと同じ言葉にも、今度は切なさは感じなかった。このまま一晩、彼女と一緒だ。もう一度抱き寄せ、ぼくも目を閉じる。快い疲れが、彼女の温もりが、眠りを運んでくる……。
毎回、嫌味になるほどブランド名を入れようと思いつつ。地が貧乏なのであんまり思いつかないのです。
ムートンのボレロ…エンポリオ・アルマーニ。セカンドラインだから、20万も出せば買えるであろう。
クロエ皮のバッグ…15~20万くらい。服はフリルとかで可愛いのに、靴やバッグは大ぶりな金具でごついが、大人っぽい。
ランタンタイプのロレックス…繊細な金のブレスレットに、ランタンの形の時計がついている。手巻き。1970年あたりの品物か。100万くらい。
主人公は六本木に生まれ育ち、親に建てて貰った自分名義のビルを持っている。一階にはブティック、最上階に自分のフラットがあります。
二十代後半でしょうか。と言っても、この小説の時点が、現在であるとは限らないのですが…。