11 THE 51st STATE(ケミカル51)
気にはなってたけど、ぼくはしばらく、病院には行かなかった。イオナは、弱ってる姿を見られたくないんだろうし。元気が出たら、またここに来るって言ったんだから。あと一日、次には、この週末まで、そして、次の月曜まで……、と、様子を見に行くのは我慢してた。
だけどこのまま、逢えなくなったらどうしようとも思う。あれから、もう二週間になる……。
「相変わらず、暇な店だなー」
「大きなお世話だよ。お前がドア塞ぐからだろ」
ケンジがいきなり店にやってきた。確かにスペースにゆとりはあるけど、ドアの前に、ポルシェを斜めに停めるのは止めて欲しい。
「これ。急がせた、ってか、かなり俺がやったんだよね」
取っ手のついた、縦長の箱を見せる。多分、ウィッグケースだろう。
「ふーん、珍しいな。真面目に仕事するなんて」
「誰に向かって言ってんだよ。俺はいつも、……あれ?」
ケンジが表を見て、首を傾げる。店の前を通って、ビルに入っていく女性に見覚えがあったんだろう。だけどぼくは、そんなことを考える余裕もなく、店を飛び出していた。
「イオナ! 大丈夫なの?」
「少しはね。あら、お久しぶり」
もちろんそれは、ぼくの後に顔を出した、ケンジに向けてだ。無視してもいいのに。
「よう」
親しげに言ってから、ケンジはぼくの方を向く。
「友人として情けねーぞ、俺は。女の子と知り合ったからドライブに行こうって言ってたよな? 自分のとこの賃貸人じゃないか」
「ち、違うって。知り合ったのが先で、借りてくれたのは、その後」
「安くするから、ぜひ借りてくれって口説いたのか? やっぱ、情けねーな」
「ほっといてくれ。それより、イオナ」
「なあに」
「ルームクリーニングは入れておいたから、埃っぽくはないと思うよ」
「ありがと」
「何か手伝うこと、ある?」
「ううん。用事を済ませたら、すぐに戻るから。またお店に寄るわね」
「片付けたりしちゃ、駄目だよ。あの部屋は、イオナのものだ」
「ありがとう」
イオナはふんわりと笑い、エレベーターに乗り込む。本当はついて行きたかったけど、仕方ない。
「何かあいつ、感じ変わったな」
ケンジの言い方に、大人げなくもむっとして振り返る。あいつ、だなんて馴れ馴れしい。
「とにかく逆らって、こっちを怒らせて面白がってたみたいだったのに。弱々しくなったっていうか……、そういう路線に変えたのかな」
「失礼なこと言うなよ」
「って、それに引っかかってる奴が、ここに約一名」
ケンジは両手を広げ、にやにや笑う。
「しばらく留守にしてたのか? 掃除なんて、ご親切なことで」
「……入院、してんだよ」
少しためらって、だけど、本当のことを言った。さすがのケンジも、表情を改める。
「そっか。痩せたもんな」
「何で分かるんだよ、そんなの」
「見りゃ、分かるよ。あと、お前の態度も分かりやすいなー。……ま、あいつはお前にやるよ。俺は、とりあえず妹ちゃんでいいや」
「高邑さんの前で、それ言ったら殺されるぞ? 二重の意味で」
溺愛の妹さんに手を出そうということと、彼女を「とりあえず」「陽美さんでいい」と言ったこと。「ぜひ、陽美さんを」と言ったら、ぶっ飛ばされる程度で済むかもしれないけど。
「はん?」
ケンジは全然分かってなくて、逆に、当初の用事を思い出したみたいだった。
「病院で思い出した。ウィッグ持って、見舞いに行こうぜ」
「後で……、イオナを送っていくから、そのついででいい。同じ病院だし、ぼくが預かっとく」
「おいおい。ずい分だな。天然な坊やのフリして、その辺の女を見境なく引っ掛けまくってたのは、どこのどいつだよ」
「見境なく、じゃないだろ。それにぼくは、」
「そうだな。あいつの前でじゃなきゃ、こんなこと言っても面白くない」
ケンジは違うことで納得し、口をつぐんだ。そりゃあ、ぼくだってイオナ以外の女の子と付き合ったことがない、なんて言わない。でも、今は……。
「同じ病院なら、俺があいつを乗せてく。お前は店番してろ」
「あいつって言うな」
訂正を求めても、ケンジはへらへらしてるだけだ。そしてそのとき、イオナがエレベーターから出てきた。ケンジもさっさと店を出る。
「用事は済んだのか? こっちも終わったから、送ってく。どっちだ?」
前の通りを指差し、左右に振る。どっちの方向か、ということだ。乗るのは当然と思っている態度が気に入らない。イオナは一瞬、あっけにとられていたが、微笑んで首を振った。
「遠慮しておくわ」
「えー? せっかく、そのままドライブに連れ出そうと思ってんのにさー」
「ふふっ、やっぱり? でもね、病院に行かなくちゃならないの。あんまり楽しいところでもないし、タクシーで行けるから」
「どっか悪いのか? だったら心配だし、絶対送る」
さすがに気を遣ったのか、あるいはそれもナンパの手段なのか、彼女が入院しているとぼくが教えたことは、ケンジは口にしなかった。
「でも……」
ためらうイオナの手首を、ケンジが掴んだ。それどころかその手を引き寄せ、軽くだけど、彼女の腰に腕を回して、真正面から口説く。
「遠慮なんか、お前に似合わないだろ。前みたいに、男なんか足代わりみたいな態度してろよ?」
イオナは目を丸くし、そして笑顔になった。ぼくが誠意を尽くすより、ケンジなんかのわざとらしい行動が、演技ではない微笑みになるなんて……。
「そんな女を落とすのも、面白いからな」
「まあ、呆れた」
くすくす笑って、彼女が本気にしてないのは明らかだけど、非常に気分が悪い。引き留めようとぼくが足を踏み出したら、一台のタクシーが停まった。
「ちょっと待ってて?」
中に乗っていた少年が、運転手に声をかけて出てくる。誰って……、言わずもがなだ。
「お姉さん、絡まれてるの? だからこんなとこ、来ちゃだめだって言ってるのに」
「何だ、このガキ?」
ケンジがぼくの方を見る。ヒバリも、軽蔑したような視線を向けて寄越した。
「なあんだ。島村さんの友達か。じゃ、ろくなやつじゃないな。さ、一緒に帰ろう?」
「あいにくだな。こいつはこれから、俺とデートだ。お子様はそっちの坊やとでも遊んでな」
そう言って、イオナをぐっと抱き寄せる。ヒバリの顔色が、真っ青になった。多分、ぼくも同じだろう。
「止めろ! 汚らわしい!」
ヒバリが叫んだが、ケンジは相手にしない。でも、イオナはくるっと身体を回して、ケンジの腕から逃れた。
「三人で遊んでれば? タクシー借りるわね」
閉まりかけたドアを、ケンジが素早く押さえる。だが、別れ際に一言言っただけだった。
「痩せたな。大事にしろよ?」
「……ありがと」
急に真面目になるのは、きっとケンジの常套手段だ。イオナだから、ひっかかるはずないけど。そして、タクシーはドアを閉め、走り去ってしまう。
「さて。仕込みは終わったぞ、と」
うそぶくケンジに、ぼくは皮肉を言ってやる。
「イオナが、お前なんかの手に負えるかよ」
「その言葉、全部返してやるよ」
そこへヒバリが、甲高い声で割り込んだ。
「あんたたちのせいで、僕まで置いて行かれたじゃないか!」
「で、誰だこいつ?」
「イオナのファンだよ」
「失礼な。五年経ったら、僕がお嫁さんに貰うんだからね」
「あっそう」
普通の男でも、本気にはしないだろうけど。ケンジなんかは完全スルーだ。
「つか、病院ってどこだよ。どうせ暇だろ、店閉めて行くぞ」
「はぁ?」
「僕も帰る。責任とって、送ってよ」
「酔うから止めた方がいい。事故るかも知れないし」
ぼくが止めると、ケンジが首を傾げた。
「お前と心中するつもりはないが、何で、この小僧も?」
「病院の、院長の息子なんだよ。父子で彼女に付きまとってる」
「自分だって、ストーカーじゃん」
「ああもう、うるさい。狭いけど、どっちか後ろに乗れ。荷物持ってろよな」
「わぁ。加速がすごい……」
それなりに少年らしく、ポルシェの助手席に座ったヒバリは歓声をあげた。そしてなぜか、ぼくがウィッグケースと一緒に後ろに乗せられてる。狭いなんてもんじゃない。
病院に着き、エレベーターに乗る。ぼくらは途中で降り、ヒバリは特別病棟の最上階にそのまま向かって行った。
「後で顔出すって伝えといてくれ」
「いやだよ」
ぼくが何か言い返す前に、ドアが閉まった。
「小僧相手に、大人げないな。ま、お前も精神年齢が同じくらいってことか」
「ふん。……あ、ここだよ。失礼します」
四人部屋なので、誰にともなく声を掛け、中に入っていく。確か、右奥のベッドだった。
「いらっしゃいますか?」
カーテンで囲われたベッドに、もう一度声を掛けてみる。検査で出ているなら開いてるだろうし、眠っていたら申し訳ないとも思ったが……。
「どなたです」
少しだけ引き開けて、高邑さんが顔を出した。
「あ、どうも」
「……どうも」
お互い、話がはずむタイプでもない。ぼそぼそと、挨拶だけした。
「お兄ちゃん?」
女性の声がして、高邑さんは振り返る。
「マンションの大家さんだよ。見舞いに来てくれたようだ」
そしてやっと、カーテンを大きく開けてくれて、ベッドに座っている妹さん、陽美さんが見えた。
「こんにちは」
「兄がお世話になってます。色々と、ありがとうございました」
ぼくが持ってきた、花柄のスカーフで頭を包んでた。頬が少し赤く染まってて、元気そうだ。
「よう」
後ろから、ケンジが顔を出し、馴れ馴れしく声を掛ける。ぼくのことは高邑さんが一言言ってからだったけど、ケンジはいきなりだったから、陽美さんは一瞬怯えた様子を見せた。
「ん? ああ、そうか。顔を見るのは初めてか……。これ、持ってきたぞ」
ウィッグケースを見せる。そのときにはもう彼女も分かったようで、笑顔になった。
「髪を切ってくださった方ですね。ええと、はじめまして」
「うん。よろしくー」
ちらっと横を見たら、高邑さんは苦虫を噛み潰したような顔をしている。まあ、当然だろう。
「着けてみるか?」
「わあ」
「医者に聞いてからにしろ」
高邑さんが遮ったが、陽美さんは首を振る。
「もう、今日の回診は終わったもの。ちょっとだけ……。あと、お兄ちゃんたちは出てって」
「えぇ?」
ぼくらは廊下に出され、高邑さんは目に見えて落ち着きを失っていた。
「ご心配でしょうけど、あいつは口だけなんで」
「いや別に……、しかし何で俺を……」
ケンジのことより、自分が席を外させられたことが気になっているらしい。小さな声でぶつぶつ呟き、あんまりぼくの話は聞いていない。傍目八目か知れないが、陽美さんの気持ちは分かった。
「高邑さんに、今の頭を見られたくなかったんでしょう。だからあのとき、帽子かウィッグをって言ってたじゃないですか。ただの美容師なら、恥かしくない訳です」
「……そうか。じゃ、何であんたは」
今度はぼくに、とばっちりがくる。さすがに言いたくないが、仕方ない。
「それ以下だからですよ」
「出来たぞ。やっぱ、俺は天才だな。あのとき手が覚えた、頭の形でぴったりだ」
「誰も褒めないから安心しろよ」
「うるせー」
ぼくらが色々言い合っていたが、陽美さんは、高邑さんの方しか見ていない。
「どうかな? お兄ちゃん」
「……似合ってる。良かったな」
見つめ合っているようにも見えた二人に、ケンジが割り込んだ。
「じゃ、置いてくから。手入れの仕方は、ケースにパンフレットが入ってる」
さすがにそこで、高邑さんが我に帰ったように訊ねる。
「待ってくれ。代金は」
「見舞いでいいよ。でなきゃ、賃貸料の儲けからお前が払っとけ」
「何でぼくが」
いきなり話を振られてぼくは戸惑ったが、ケンジはもう、陽美さんに愛想笑いを向けていた。
「またね。もう少し髪が伸びたら、また切ってあげるから」
「うん。よろしくお願いします」
「可愛いな。何年も目が見えなかったんだって? だから子供っぽいのか」
「怖いお兄様が横についてるじゃないか。よく、そういう思考ができるな……」
「別に、兄貴と付き合う訳じゃねーし。次、行くぞ。あいつの病室はどこだ? つーか、どこが悪いんだ?」
「うーん、何ていうか……。とりあえず、上だよ」
エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。閉まったドアが再び開いて、他の階とは明らかに違う造りに、ケンジが戸惑った顔をしているのも面白かったが……。
いきなり、非常ベルが鳴り響いた。ぼくたちは顔を見合わせ、廊下の向うへ向かって走り出す。