10 REIGN OF FIRE(サラマンダー)
『あにいもうと』の03話の後ですが、読まなくても繋がります。
色々あって、ぼくが呼んだ友人のケンジが、高邑さんの妹さんの髪をカットしてあげた。でまあ、あいつは例によって失礼な口の利き方で……、かなりのシスコンな上に、確か警察官だという高邑さんが、どう見てもむっとしてるから……、ぼくは冷や冷やして見てた。
それでも無事に終わり、高邑さんはぼくだけに挨拶をして去っていく。割と、分かりやすい人だ。
「島村さん、お世話になりました」
この間ヒバリが、ぼくのことををそう呼んでいたのを、覚えていたらしい。だけど、違いますと言う前に、妹さんを連れてさっさと出ていってしまった。
「何でお前のこと、『島村』っていうんだ?」
「こないだ、とある小僧が、ぼくのことをそう呼んでたのを覚えてるんだろ。元々はそのガキが、ぼくを『ジョウ』って呼び出して」
「ふんふん、009か。でもお前、『ジョウ』でもないだろ?」
「だからその『ジョウ』っていうのも、訳があって。パソコンなんかでさ、」
「いいよもう。面倒臭いから」
「自分から聞いておいて、何だよ」
ケンジはさっさと帰ってしまった。でも、高邑さんの妹さんの髪が、気に入ったのは確かなようだ。そしてぼくは、営業時間内だというのに店に掃除機をかける羽目になる。
そのとき、ふと、気づいた。なるべく急がせるとは言っていたけど、手術後すぐには間に合わないよな。柔らかい生地のスカーフで、包むように結んだらいいんじゃないか。お見舞いがてら、届けてあげよう。そして、そのついでに……、イオナのところに寄ってみよう……。
正直言って、ついでの用事の方が大きいのだが。あの病院に行ったら、さっそくつまづいた。『高邑さん』という女性は、入院などしていないというのだ。でも確かに、イオナは彼女をここで見かけたと言っていたのに。受付で押し問答をしていたら、嫌な相手が通りかかる。
「何の用だね。まさか、どこか悪いという訳でもあるまい」
「具合が悪くなっても、ここにだけは来ませんよ」
「うむ、それは助かる」
皮肉の応酬のあと、念のために聞いてみた。一応、この病院の責任者なのだし。
「うちのマンションに住んでる人のご家族が、ここに入院してるみたいなんですけど。目がご不自由な若い女性で、明後日、手術を受けるとか。その人は高邑さんっていうんで、病室をお聞きしようとしたら、そういうお名前の方はいらっしゃいませんし、病状などを言われても、推測でお教えする訳にはいかないって」
「当然だ」
「……本当に、嫌な奴だな」
言っただけ、損をしたような気がする。それでも、院長はぼくを奥へと促す。
「だが、受付で騒がれても迷惑だ。こちらへ」
「心当たり、あるんですか」
「君のところの住人と、患者との関係は?」
「その人の、妹さんだって聞いてます」
「では、同一人物だろう。ついて来なさい」
指差された病室の名札には、『三宅陽美』と書いてあった。これで『ハルミ』と読むのなら、あの人は『ルミ』と呼んでいたし、そうなのかもしれない。
「おや、どこかへ出ているのかな」
「院長先生」
母親らしい人が急いで立ち上がり、深々と頭を下げる。
「では、私はこれで。忙しいのに、君のために時間を無駄にした」
「どうも済みませんね!」
「あの、何でしょうか……」
「あっ、その、ええっと。唐突ですが、高邑さんってご存知ですか、高邑宏一郎さん」
有難いことに、その人は二人のお母さんだった。姓が違うのは、家庭の事情だろうし、興味を持つのも失礼だと思う。もしかしたら、妹さんがもう結婚しているという可能性もない訳じゃないし。
「ぼくは高邑さんの住んでるマンションの大家で、建物の一階でブティックをやってるんですが、妹さんのご事情を説明され、何か頭を覆うものか、ウィッグを見繕ってくれと言われて」
「それはそれは、ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。友人が美容師をしているので呼んだら、いっそ、ご自分の髪の毛でウィッグをという話になって、妹さん、陽美さんも、その気になられたんですが、すぐには出来上がらないらしいんです」
「あらまあ」
だから、お見舞いがてらスカーフを、と言ったら、その女性は口元を手で覆い、一歩後ずさる。何があったのかと思ったが、ただ、泣きそうになっただけだった。
「……優しい方なのですね。宏一郎がそちらにお世話になったのだって、つい最近でしょう? それなのに、勝手を申し上げてご迷惑をおかけした上に、お心遣いまで……。ありがとうございます」
「えっ。いえあの、そんな……」
ぼくがあわあわしていると、その人はもっと恐ろしいことを言いだした。
「あなたのような方が、陽美をもらってくださればいいのに……。ああ、ごめんなさいね。詰まらないことを」
「いえ」
「宏一郎に聞かれたら、怒鳴られますわ。陽美を溺愛しているんです。あれではどちらも、結婚なんか夢のまた夢で……」
ぼくのどこかが気に入ったのか、あるいは単に、話し易いからだろうけど、女性はしばらく一人で喋っていた。家族の人だって、頭の手術なんか怖いよな。だからきっと、お喋りしたかったんだろうって思って、黙って聞いていた。
「……すっかりお引き留めしてしまいました。後ほど改めて、ご挨拶に伺わせていただきます」
「どうぞお気遣いなく。退院されて、近くにいらっしゃることでもありましたら、店の方にでもお気軽にお出でください。ああ、そうだ。先日、陽美さんにって、コートをお買い求めいただきました。その節は有難うございます」
「まあ、まあ……」
誰かが喜んでくれたと思えば、気持ちも軽くなる。少しはいいことをしたんだろう。だからぼくも、ご褒美代わりに彼女に会って行こう……。そう考えて、ぼくはエレベーターホールまで戻り、上昇ボタンを押した。
病室のドアって、大抵はいつも開いているものだが、イオナの部屋のドアは閉まってる。でも鍵はかかってないから、ノックして声をかければ、普通に入って行けるんだけど。
「イオナ、いる?」
引き戸に手をかけて軽く力を入れれば、すーっと右に開く。カーテンを引いてて、部屋の中は少し薄暗い。
「あ、ごめん。眠ってたのかな……」
「眠ってはいない。何の用だね」
返事をしたのはイオナではなく、あの、医者だった。
「……何であんたが、ここにいるんだよ」
「彼女を治すのが、私の仕事だからな。君こそ、先程の女性患者の見舞いが済んだのなら、さっさと帰りたまえ。ずい分と気の多いことだ」
「うちのマンションの人の家族だって言ったろ?わざとイオナに誤解させようとして、何て言い草だ」
「君になど興味はないはずだから、誤解も何も……。おや、起きるのかい?」
途中で猫なで声になって、彼女のベッドを起こしてあげてる。横になっていたということは、あんまり具合は良くないんだろうか。逆に、あの男も手を出せなかっただろうとも言えるが、さすがにそれよりは、心配の方が先に立つ。
「大丈夫?」
「ありがとう。ついででも、寄ってくれて嬉しいわ」
「違うよ。ここに来るついでに、用足しをしただけ」
「私の手まで、煩わせてか。かなり必死だったようだが」
横から医者が口を出し、ぼくもむっとした。
「恩着せがましいな。忙しいんだろ? 仕事すれば?」
「そうだな」
コツコツ靴音をさせて窓際に行き、わざと勢いよく、カーテンを開ける。まるで今まで、部屋の中を隠していたみたいだ。
「では、また今夜」
イオナに向かって優しく言うと、ぼくのことはもう無視して、さっさと出ていく。
聞きたいことは山ほどあったけれど、上手く言葉に出来ない。あの男が、我が物顔にふるまうのも、どうせ思わせぶりの嫌がらせだろうけど……。
「あの医者も、耐性がついたのかな」
「なあに?」
「きみに、あんまり馴れ馴れしくすると、茶化されて振られるんだけど。ぼくくらい鈍くなかったら、腹を立てて、すぐ出ていくんじゃないかなって」
イオナは悲しそうに、ぼくを見た。
「本当は、違うことを考えているでしょう」
「……うん、ごめん。あいつがきみを、力ずくで手に入れたのかと思った。でもきっと、何もなかったと思う。信じるよ」
「相変わらずね。院長先生は最近、とても優しいの」
「ふうん。路線変更かな。べたべた甘やかして、きみに好かれようとして」
「きっと、あんまり良くないからだわ。もうすぐ死ぬから、優しくしてくれるんでしょう」
「止めなよ!」
大きな声を出してしまい、慌てて謝ろうとしたが、イオナが先に口を開いた。
「……あのひとは、毎晩来るわ。朝までいるときもある。そういうこと。だから、あなたももう、私なんか相手にしないで、」
「きみが好きで、用もないのに来てるだけだろ。ぼくやヒバリと同じで、可愛いものだよ」
「無理にそう言ってくれる必要はないわ。軽蔑してくれていい。あなたは元々優しい人だけど……、それでも怖いわ。ねえ、教えて。私以外は皆、知ってるんじゃないの? 本当は私、もうすぐ、」
「止めなって、言ってるだろ。誰も何も知らないよ。ただあの医者は、治す気まんまんだけどね」
「私が死んだら、院長先生には、データが残るわ。だけどあなたには、迷惑がかかるだけ。だから今のうちに、」
三度目の泣き言は、キスで黙らせた。やっぱり、応えてはくれなかったけど。
「こういうの、あんまり好きじゃない。もうすぐ死んでしまうにしても。もしも若くて綺麗で健康で、男の人をからかう元気があったとしても……、誰にでも、なんて……」
「きみは十分に、若くて綺麗じゃないか。それに、」
言いたいことは、何となく分かった。どの程度までか知らないが、知りたくもないが……、あの医者も、彼女に、触れているのだ。イオナはきっと心細くて、毎晩訪れるというあの男に、つい縋ってしまうのだろう。
「これからは、ぼくだけにすればいい」
「優しくしないで。私には、そんな価値はありません。元気が出たら、また遊びに行くわ。そろそろ、引き払わなくちゃね」
「駄目だよ。あのオフィスは、イオナだけのものだ。ずっと、待ってる」
「ありがとう。おやすみなさい」
まだ夕方だけど、そう言って目を閉じられれば、ぼくも引き下がるしかない。
「うん……。ゆっくり休んで」