第52話 廃工場の対峙
綾辻澪の、あの「家に帰ってラーメンを」という言葉は、まるで、闇を切り裂く稲妻のように、瞬時に、龍園蓮の瞳にある、全ての闘志に、火をつけた。
そうだ。
彼は、一人で、戦っているのでは、ない。
彼のそばには、彼女がいる。
一人の、彼と肩を並べ、全世界に、立ち向かうに足る、女王が。
「ええ。」
彼は、手を返し、固く、彼女の手を、握った。全ての、躊躇と、凝重さは、最も純粋な、戦意へと、変わった。
車は、家にも、会社にも、帰らなかった。
代わりに、直接、あの、警備が厳重な、地下のセーフハウスへと、向かった。
そここそが、蓮の、真の、「作戦指揮センター」だった。
セーフハウスでは、黒崎隼人と、数名の、中心的な腹心が、既に、待機しており、それぞれの顔には、凝重な色が、浮かんでいた。
「若、状況は、極めて、楽観を許しません。」黒崎は、一枚の、最新の情報を、差し出した。「彰人は、今回、完全に、事を構えるつもりのようです。長老会の方は、既に、三分の二以上が、明確に、彼を支持すると、表明しています。我々は……ほとんど、孤立しています。」
蓮は情報を受け取り、その顔は、水のように、沈んでいた。
澪は、彼らを、邪魔しなかった。彼女は、これが、「龍園会」の、内部の問題であり、彼女という、部外者が、口を挟むべきではないことを、知っていた。
彼女は、ただ、脇にある、あの巨大な電子情報壁の前まで歩み寄り、静かに、その上に、絶え間なく流れる、彰人と長老会のメンバーに関する、全ての資料を、見ていた。
彼女は、彼女自身の方法で、この戦争の……一人一人の敵を、理解しようとしていた。
「唯一の方法は、『口封じ』です。」一人の腹心が、歯を食いしばり、その瞳に、獰猛な光が、よぎった。「奴らが、証拠を、渡す前に、彰人と、あの、老いぼれたちを、全て、始末するのです!」
この提案は、すぐに、他の数名からの、賛同を、得た。
これこそが、「龍園会」の、最も伝統的で、最も直接的な、問題解決の方法だった。
しかし、蓮は、首を、横に振った。
「ダメだ。」彼は、否定した。「今、手を出せば、我々が、『後ろめたいことがある』と、認めるようなものだ。その時、たとえ、あの証拠がなくても、長老会は、正々堂々と、彰人を、次期組長に、推薦することができる。」
「それに……」彼の視線が、無意識に、遠くない、澪に、向けられた。「私は、もはや……父の、やり方で、問題を、解決したくは、ない。」
これには、全員が、沈黙した。
手を出さなければ、死への道。
手を出せば、同じく、死への道。
これこそが、完璧な、死局だった。
まさに、全員が、一計も浮かばず、雰囲気が、極限まで、抑圧された、その時。
一つの、清らかな声が、突如として、静かな指揮センターに、響き渡った。
「もし……私たちが、あの証拠が、『偽物』だと、証明できないのでしたら……」
澪は、ゆっくりと、向きを変え、彼女の視線は、その場にいた、一人一人を、なぞり、最終的に、蓮の、身の上に、落ちた。
彼女の瞳には、狂気に近い、天才的な、輝きが、宿っていた。
「……では、それを、『本物』に、してしまえば、よろしいのでは、ありませんこと?」
この言葉に、その場にいた、全ての者が、呆気にとられた。
どういう、意味だ?
それを、本物にする?
ただ、蓮だけが、この言葉を聞いた、瞬間、その瞳孔が、急激に、収縮した!
彼は、瞬時に、澪の、あの、驚天動地の、狂気じみた計画を、理解した!
「あなたの、おっしゃる意味は……」彼の声は、興奮で、どこか、気づかれにくい、震えが、あった。
澪は、巨大な電子ホワイトボードの前まで歩み寄り、ペンを、手にした。
「彰人の、この証拠の、最大の『殺傷力』は、その、『唯一性』と、『爆発性』に、ありますわよね?」
彼女は、そう言いながら、ホワイトボードに、素早く、ロジック図を、描いていった。
「それは、綾辻と、私のお父様を、『完璧な被害者』のイメージに、仕立て上げ、また、あなたを、『信義に背く』陰謀家に、仕立て上げます。」
「でも、もし……」
彼女の筆先が、向きを変え、一つの、巨大な矢印を、描いた。
「彰人が、この証拠を、暴露する前に、別の、いえ、十数通、数十通の、内容が、さらに衝撃的で、関わる範囲が、より広い、『資金洗浄の証拠』が、一つの、『より権威のある』ルートから、事前に、暴露されたとしたら?」
「そして、これらの、暴露された『証拠』の中に、綾辻だけでなく、李家も、王家も、さらには……橘家まで!ほとんど、東京の、全ての、一流の名家が、含まれていたとしたら?」
「そして、全ての証拠が、一つの、同じ源——『龍園会』の、地下銀行を、指し示していたとしたら?」
「その時、何が、起こりますこと?」
彼女は、ペンを、置き、振り返り、あの、既に、唖然としている男たちを見つめ、その口元に、氷のように冷たく、まるで悪魔のような、笑みを、浮かべた。
「その時、彰人の手にある、あの『孤立した証拠』は、もはや、『真相』では、なくなります。」
「それは、東京全体を巻き込む、巨大な金融スキャンダルの中の、取るに足らない、一つの、小さな波と、なるでしょう。」
「そして、綾辻は、もはや、『被害者』ではなく、多くの、『参加者』の、一人と、なる!」
「さらには、人々は、彰人が、この証拠を暴露した動機は、もしかしたら……『分け前の不均等』が、原因ではないかと、疑い始めるでしょう。」
「こうすれば、私たちは、見事に……水を、かき乱すことが、できますわ!」
「この、濁った水の中で、私たちに、ようやく……魚を、捕らえる、機会が、生まれるのです!」
彼女の言葉が終わると、指揮センター全体が、死のように、静まり返った。
全ての者が、怪物でも見るかのような、眼差しで、あの、ホワイトボードの前で、とうとうと語る、少女を、見ていた。
この計画……
あまりにも、狂っている!
あまりにも……天才的だ!
敵に千の損害を与え、自らも八百の損害を被る!
いや、これは、もはや、自らが八百の損害を被るなどという、生易しいものでは、ない!
これは……東京全体の、名家を、道連れにして、自分たちと、共に、葬り去ろうというものだ!
「しかし……我々は、どこで、それほどの、『証拠』を、見つけるのですか?」黒崎が、困難に、唾を、飲み込んだ。
澪は、笑った。
「誰が、『探す』などと、申しました?」
彼女は、振り返り、蓮を見つめ、その瞳には、彼と、全く同じ、最高の捕食者の、光が、宿っていた。
「私たちで、『作る』のですわ。」
「二十時間で、偽物と、見破られないほどの、東京全体を、ひっくり返すに足る……『証-拠』を。」
「龍園さん」と、彼女は、彼に、手を、差し伸べた。「あなたの、部下と、私の、頭脳。」
「この対峙、私たち……必ずしも、負けるとは、限りませんわよ。」




