第49話 「私になるな、綾辻澪」
綾辻澪の、あの、握り返すという行為は、無言の、合図のように、車内の、あの、長い間、抑えられていた空気を、瞬く間に、柔らかくした。
龍園蓮は、彼女の、あの、小さな手が、氷のように冷たいながらも、どこか、捨て身の、全面的な、信頼を、帯びているのを、はっきりと、感じた。
この、信頼は、いかなる、愛の言葉よりも、彼の心を、動かした。
彼は、もはや、何も言わず、ただ、静かに、彼女の手を、握り返し、自分の、掌の温度で、少しずつ、彼女を、温めた。
長い時間が、流れた。澪の感情が、ようやく、徐々に、落ち着いてきた。
彼女は、手を、離し、その顔には、どこか、気まずそうな、赤みが、差し、頭を、窓の外に向け、景色を、見ているふりをした。
「コホン」と、彼女は、咳払いをし、この、少々、甘すぎる沈黙を、破ろうとした。「あの……張副社長のこと、ありがとう。」
「我々は、同盟者では、ありませんでしたかな?」蓮は、再び、車を発進させ、その口調は、また、あの、どこか、からかうような、軽やかさを、取り戻していた。
「同盟者ですわ……」澪の指先が、無意識に、車窓に、円を、描いていた。「でも、私、私の『同盟者』について、どうやら……何も、存じ上げないようですわ。」
彼女の口調は、とても、さりげなく、まるで、世間話のようだった。
しかし、蓮は、これこそが、彼女の、探りの、始まりであることを、知っていた。
彼の、世界の一端を、目の当たりにした後、彼女は、彼に、真の、好奇心を、抱いたのだ。
蓮は、微笑み、直接、答えず、代わりに、問い返した。「何が、お知りになりたいですかな?」
「例えば……」澪は、横を向き、彼の、あの、ネオンの光の下で、ますます、美しく、立体的になった横顔を見つめた。「先ほど、おっしゃっていた……あなたのお父様のこと。それから、『龍園会』は、一体、どのような、場所ですの?」
これは、極めて、敏感で、極めて、危険な、質問だった。
彼の、あの、立場にいる者なら、誰でも、すぐさま、全身の、警戒心を、立てるに、十分だった。
しかし、蓮は、まるで、今日の天気を、話しているかのように、平穏な口調で、口を開いた。
「『龍園会』は、言うなれば……歴史の、遺物ですな。」
彼の声は、平淡で、何の感情も、読み取れなかった。
「それは、前世紀の、最も混乱した時代に、生まれ、いくつかの……表沙汰にできない、商売で、成り上がりました。密輸、賭博、用心棒代……あなたが、想像できることは、全て、やってきました。」
「私の父の代になると、彼は、大変な野心家で、『商売』を、海外にまで、広げ、軍需とエネルギーに、手を出し始めました。彼は、『龍園会』を、街のチンピラ集団から、一つの……東南アジアに、君臨する、巨大な、地下王国へと、変貌させたのです。」
澪は、静かに、聞いており、口を挟まなかった。
彼女は、その、言葉の端々に、どれほどの、血腥い嵐が、隠されているかを、想像することができた。
「では、あなたは?」と、彼女は、小声で、尋ねた。「あなたは、どうやって……今の、その地位に、就かれたのですか?」
蓮の口元に、自嘲の、弧が、描かれた。
「私、ですかな?」
彼は、間を置き、その口調には、氷のように冷たい、金属のような、質感が、あった。
「私は、私の、あの……同じく、野心に満ちていた、兄弟たちの、屍を、踏み越えて、這い上がってきました。」
彼が、それを、あっさりと、言ったとしても、澪は、その、軽やかな言葉の背後に、いかに、悲惨な、兄弟殺しの、血腥い闘争が、隠されているかを、想像することができた。
彼女の心が、訳もなく、締め付けられた。
「だから……」彼女は、彼を見つめ、その眼差しは、複雑だった。「あなたは、それほどまでに、『浄化』を、望んでいらっしゃるの?」
「あなたは……あのような生活に、嫌気が、差したのですか?」
「嫌気、ですかな?」蓮は、首を振り、笑った。
「いえ、私は、決して、嫌気など、差しません。あの世界では、弱肉強食が、唯一の、法則です。私は、ただ……」
彼は、横を向き、深く、彼女を一瞥した。あの、黒い瞳には、窓の外の、流れる灯火が、映り、また、彼女の、小さな、驚愕した顔も、映っていた。
「……あなたに、あのような生活を、送らせたくは、ないだけです。」
「私は、十年を、費やし、ようやく、あの泥沼から、かろうじて、一本の手を、伸ばし、陽の当たる、世界に……触れようとしています。」
「ですから、綾辻澪」と、彼の声は、異常なほど、真剣で、また、異常なほど、優しかった。「もう、下へ、飛び降りるのは、おやめなさい。」
「私に……なるな。」
この言葉は、まるで、温かく、しかし、限りない悲しみを帯びた電流のように、瞬時に、澪の心臓を、撃ち抜いた。
彼女は、彼を、見ていた。
この、明明、自分自身が、まだ、深淵に身を置きながらも、なお、手を伸ばし、彼女を、引き上げようとする、男を。
彼の瞳にある、あの、隠しきれない、誠実さと、胸の痛みを、見ていた。
彼女の、あの、とっくに氷のように凍てつき、硬くなった心が、その瞬間、完全に、一つの、亀裂を、生じさせた。
一つの、ただ、彼一人のために、裂けた、亀裂を。
彼女は、ゆっくりと、手を伸ばし、ひんやりとした指先で、そっと、彼の、あの、ギアレバーの上に置かれた、節くれ立った大きな手に、触れた。
今回は、彼女は、ありがとう、とも、ごめんなさい、とも、言わなかった。
彼女は、ただ、かつてないほど、優しく、しかし、この上なく、固い口調で、小声で、言った。
「龍園さん。」
「もし……陽の光が、遠すぎて、届かないのでしたら……」
「その時は、私が、あなたと、一緒に、闇の中に、おりますわ。」




