第36話 偽りの弁明、再び
「私が、あなたが、唯一、信じることができる、人間だということです。」
龍園蓮の、あの言葉は、まるで、深い淵に投じられた小石のように、綾辻澪の心の中に、次々と、いつまでも、収まらない波紋を、広げた。
彼女は、結局、何も言わず、まっすぐに、会議室を、後にした。
彼女は、振り返る勇気がなかった。
振り返ってしまえば、あの、深淵のような瞳の中に、完全に、沈んでしまうのではないかと、恐れたのだ。
・・・
株主総会の「血祭り」は、東京の上流社会に、震度十二の、地震を、引き起こした。
誰もが、澪の、あの雷のような手段に、衝撃を受けた。
一夜にして、あの「天真爛漫」な綾辻家の令嬢のイメージは、完全に、覆された。代わりに現れたのは、冷静で、決断力があり、むしろ、冷酷非情とさえ言える……未来の女王だった。
そして、蓮、この謎めいた首席戦略顧問は、なおさら、衆人の目に、手を出してはならない、謎に包まれた存在と、なった。
誰もが、あの粛清の背後に、彼の影があることを、知っていた。
しかし、彼のやり方は、あまりにも、鮮やかすぎた。
誰もが、澪の決断力を見ただけで、彼の、いかなる実質的な、証拠も、掴むことができなかったのだ。
一時期、綾辻グループ内部は、鶴の一声で、静まり返った。
もはや、誰も、この若い跡取りと、彼女の背後にいる、あの「刀を渡す者」を、侮る勇気は、なかった。
澪もまた、その静けさを、楽しんでいた。
彼女は、この機会に、大鉈を振るい、内部改革を行い、自分の腹心を配置し、綾辻グループ全体の支配権を、固く、その手に、握った。
そして、彼女と蓮の間には、極めて微妙な、「休戦期間」が、訪れた。
二人は、会社では、相変わらず、上司と顧問の関係だった。
顔を合わせれば、礼儀正しく頷き、会議では、専門的な議論を交わす。しかし、二人とも、暗黙の了解のうちに、もはや、「同盟」や「憎しみ」に関する、いかなる話題にも、触れなかった。
彼らは、まるで、二人の最高の打ち手が、息を呑むような対局を終えた後、一時的に、中場休憩に入り、それぞれが、傷を舐め合い、そして、次の駆け引きのために、力を、蓄えているかのようだった。
この日、澪はオフィスで、「港湾運輸」との協力案の、最終書類を、承認していた。
蓮が、ドアをノックして、入ってきた。
彼は、一つの書類を、彼女の机の上に、置いた。
「港湾運輸側から送られてきた、オーストラリアの牧場の、第一回現地調査報告書です。」
「ありがとう。」澪は顔も上げずに、応え、手元の書類を、見続けた。
しかし、蓮は、去る気配がなかった。
彼は椅子を引き、彼女の向かいに座り、まるで普通の同僚のように、世間話でもするかのように、口を開いた。
「橘拓海から贈られた、あのイヤリング、返したそうですね?」
澪の、サインをする手が、わずかに、止まった。
すぐに、彼女は書類を閉じ、顔を上げ、彼の、あの探るような瞳に応え、微笑んだ。「龍園顧問の情報網は、相変わらず、素晴らしいですわね。」
彼女は、イヤリングを返しただけでなく、一方的に、橘家に対して、「婚約解消」の意向を、申し出ていたのだ。
橘家の方は、橘の父が株主総会で失態を演じたため、今のところ、何の異議も唱える勇気はないが、この件は、既に、内々で、噂になっていた。
「ただ、気になっただけです」と、蓮の体は、わずかに前に傾き、その口調には、面白みが、混じっていた。「あなたは、橘拓海には……まだ、使い道がある、と、おっしゃっていたはずですが?こんなに早く、彼を、切り捨てるおつもりで?」
澪は椅子の背にもたれかかり、手の中の万年筆を、回した。その態度は、怠惰だった。
「誰が、彼を、切り捨てる、と申しました?」
彼女の口元に、悪戯っぽい、弧が、描かれた。
「私は、ただ……遊び方を、変えたいだけですわ。」
「ほう?」
「龍園顧問」と、澪は、話の矛先を変え、不意に、尋ねた。「ずっと、気になっておりましたの。当初、あなたの、あの、『綾辻物流』に関する買収報告書は、なぜ……途中で、中止になったのですか?」
これは、彼女が初めて、彼に、あの「古い書類」に関する詳細を、自ら、尋ねた時だった。
これは、探りであり、また、彼女自身も気づいていない、心の中の、あの憎しみに、一つの「突破口」を、探そうとする、試みでもあった。
蓮は、彼女を、見ていた。
彼女の、あの、平静を装いながらも、その瞳の奥深くに、かすかな緊張と期待を、隠している瞳を、見ていた。
彼は、これが、彼女が、彼に与えた、弁明の、機会であることを、知っていた。
一つの……半ば真実、半ば偽りの、弁明の機会を。
彼は、しばらく、考え込み、ゆっくりと、口を開いた。
「なぜなら、私以外にも、綾辻物流という、この肥えた肉を、狙っている連中が、いることに、気づいたからです。」
彼の声は、平穏で、まるで、自分とは無関係な物語を、語っているかのようだった。
「それに、彼らの手段は、私よりも……もっと、汚かった。」
「私は、当時、一族の中での地位が、まだ、盤石ではありませんでした。不確かな目標のために、素性の知れない、より非情な相手を、敵に回したくはなかった。ですから、私は、手を引きました。」
この説明は、合理的だった。
彼の、「利益を第一に考え、リスクを回避する」という商人としての人物像に、完璧に、合致していた。
そして、巧妙に、彼自身を、「加害者」の身分から、切り離した。
「そうですの?」澪は、目を伏せ、その瞳の感情を、読み取らせなかった。「では、その、もう一方の連中が、誰であったか、ご存知ですの?」
「分かりません。」蓮は首を振った。今回ばかりは、彼は、本当に、知らなかった。
当時の彼は、ただ、危険を察知し、時を移さず、身を引いただけだった。その背後に潜む鰐が、一体、誰であったか、彼は、深追いしなかったのだ。
「ただ……」彼は、話の矛先を変え、彼女を見つめ、意味ありげに、言った。「あの連中の行動様式は、あなたの、あの婚約者、橘拓海氏と……よく、似ていますな。」
「貪欲で、短絡的で、裏で、いくつかの、表沙汰にできない、小細工を、好む。」
彼は、全ての、糸口を、巧妙に、拓海へと、導いた。
澪は、何も言わなかった。
彼女は、ただ静かに、手の中の万年筆を、回していた。
蓮の、この弁明は、真実なのか?
彼女には、分からなかった。
証明することも、できなかった。
しかし、なぜか、彼女が、この弁明を聞いた後、心の中の、あの、憎しみで凝り固まった堅氷が、どうやら……音もなく、小さな角を、溶かしたかのようだった。
もしかしたら……彼は、本当に……
ただ、自分と同じ、思い通りにならない、盤上の、駒に過ぎなかったのか?
この考えは、一瞬、よぎっただけで、すぐに、彼女によって、かき消された。
信じては、ダメ!
確たる証拠を、手に入れるまで、この男の、いかなる言葉も、決して、信じては、ならない!
彼女は、ペンキャップを閉め、立ち上がり、その顔には、また、あの、事務的な、よそよそしい表情が、戻っていた。
「分かりましたわ。龍園顧問、ご教示、感謝いたします。」
「他に、ご用がなければ、私は、会議に、参りますので。」
そう言うと、彼女は書類を手に、頭も振り返らず、オフィスを、出ていった。
まるで……慌てて、逃げるかのように。
蓮は、彼女の、あの、どこか、慌ただしい背中を見つめ、レンズの奥の黒い瞳に、誰にも、理解できない、複雑な光が、よぎった。
彼は、今日のこの言葉が、彼女の心に、一つの、疑いの種を、蒔いたことを、知っていた。
この種は、今、まだ、とても、小さい。
しかし、いつの日か、それは、根を張り、芽を出し、やがて……彼女の心に、あの、憎しみで築かれた高い壁を、覆すに足るほど、大きくなるだろう。
そして、彼は、その日を、待つ、忍耐力を、持っていた。




