第35話 汝、何者なりや
龍園蓮の、あの氷のように冷たい、取引のような言葉は、針のように、綾辻澪の心に渦巻く、全ての、混乱した感情を、容赦なく、突き破った。
そうよ。
私は、まだ、何を、ためらっているというのかしら?
苦しみ?戸惑い?
そんなものは、地獄から這い上がってきた復讐者にとって、最も、無用で、最も、贅沢な感情だわ。
(这些东西,对一个从地狱里爬回来的复仇者来说,是最无用,也最奢侈的情绪。)
彼が言ったように、私たちは、同類なのだ。
私たちは、結果しか、見ない。
澪の瞳から、全ての脆さと葛藤が、瞬く間に、消え去り、代わりに現れたのは、以前のどんな時よりも、さらに、硬く、さらに、氷のように冷たい、決意だった。
彼女は、笑った。
妖艶に、そして……悲しげに。
彼女は、蓮の束縛から、逃れようとはせず、逆に、手を上げ、その氷のように冷たい指先で、ゆっくりと、彼の、あの、自分の顎を掬い上げていた手を、撫でた。
その仕草は、どこか、曖昧で、挑発的な、意味合いがあった。
「龍園顧問」と、彼女の声は、また、軽やかで、柔らかくなった。まるで、恋人同士の囁きのようだったが、一片の温度も、なかった。「私を、これほどまで、『お助け』になって、あなたが……虎を養い、患いを遺すとは、思いませんこと?」
蓮の黒い瞳が、わずかに、収縮した。
彼は、彼女が、変わったのを、感じた。
まさに、先ほどの、あの瞬間、彼女の心にある、何か、柔らかいものが、完全に、砕け散ったのだ。代わりに現れたのは、より、純粋で、手段を選ばない……獰猛さだった。
「虎、ですかな?」彼は軽く笑い、指の力を、軽くも重くもなく、少し、強めた。「私の目には、せいぜい……爪を少し、磨いただけの、小悪魔にしか、見えませんがね。」
「そうですの?」澪は、さらに、輝かしく、笑った。
彼女は、勢いよく、つま先立ちになり、自ら、彼に、近づいた。
彼女の唇が、ほとんど、彼の唇に、触れそうになった。
二人の間の距離は、互いの呼吸の温度が、はっきりと感じられるほど、近かった。
これは、極めて、危険で、極めて、曖昧な、距離だった。
蓮の呼吸が、一瞬、止まった。
彼は、彼女の、身に纏った、あの、清らかな、白椿のような芳香が、糸のように、彼の鼻腔に、忍び込み、彼の、最も深い神経を、掻き乱すのを、はっきりと、感じた。
彼は、彼女が、キスをしようとしているのだと、思った。
しかし、彼女は、ただ、そこで、止まった。
ほとんど、残忍に近い方法で、この、触れそうで、しかし、決して触れない距離を、保った。
彼女の唇が、そっと、彼の耳朶を、かすめ、まるで、悪魔のような口調で、小声で、囁いた。
「次は、ですって?」
「次は……当分、おりませんわ。」
「なぜなら、残りの、あの『ゴミ』たちは……」
彼女は、わずかに、間を置き、その赤い唇を、さらに、近づけ、ほとんど、彼の耳たぶに、触れそうになった。
「……私自身の手で、始末したいのですもの。」
「私自身の、やり方で。」
そう言うと、彼女は、勢いよく、一歩下がり、完全に、彼の支配から、脱した。
彼女は、蓮の、あの、彼女の行動で、幽玄になった瞳を見つめ、その顔には、勝者のような、挑発的な笑みが、浮かんでいた。
彼女は、この方法で、彼が先ほど、提示した「条件」に、応えたのだ。
刀を渡す者になりたい、と?
いいでしょう。
でも、私が、いつ、その刀を必要とするか、誰に、その刀を向けるかは、そのルールは、私が決める。
全局を、支配したいのでしょう?
あなたの、思い通りには、させないわ。
彼女の、あの、喧嘩に勝って、誇らしげに尻尾を立てた、子猫のような様子を見て、蓮の心に、一片の怒りもなく、逆に、より、強烈な、いまいましい、征服欲が、込み上げてきた。
この女……
全く、生まれついての、妖精だ。
いつも、最も、予期せぬ方法で、正確に、彼の、全ての興奮の、ツボを、突いてくる。
「よろしいでしょう。」
長い時間が、流れた。彼は、ようやく、一言、そう言った。
その声は、ひどく、掠れていた。
「お待ちしております。」
彼は、彼女が、どのように、「自らの手で始末する」のかを、待つ。
彼もまた、彼女が、再び、彼という、この「刀」を、必要とする、その日を、待つ。
対立は、奇妙な、ホルモンと火薬の匂いに満ちた雰囲気の中で、終わった。
澪は、自分の服を整え、踵を返し、この、息詰まるような場所から、立ち去る準備をした。
彼女が、まさに、ドアを出ようとした、その時。彼女は、突然、足を止めた。
彼女は、振り返らなかった。
ただ、彼に背を向けたまま、ほとんど、平穏で、何の感情も帯びていない口調で、彼女が、生まれ変わって以来、ずっと、彼女の心の最も深い場所に、巣食っていた、最終的な、疑問を、問いかけた。
「龍園蓮」
彼女は、間を置いた。まるで、全身の力を、振り絞るかのように。
「あなたは、一体……何者ですの?」
この質問は、もはや、探りでもなければ、詰問でもない。
それは、ほとんど、絶望に近い、真実への、渇望だった。
あなたは、一体、何者なのか?
同盟者か、それとも、敵か?
救済か、それとも……もう一つの、より深い、深淵か?
広々とした会議室は、死のように、静まり返った。
蓮はその場に立ち尽くし、彼女の、あの、か弱く、それでいて、倔強な背中を見つめ、金縁眼鏡の奥の、あの瞳に、初めて、誰にも、理解できない、複雑で、深遠な……優しさが、浮かんだ。
長い時間が、流れた。彼は、ようやく、ゆっくりと、口を開いた。
その声は、低く、そして、明瞭だった。
「私が、誰であるかは、重要では、ありません。」
「重要なのは、綾辻澪……」
「……私が、あなたが、唯一、信じることができる、人間だということです。」
——【第一巻・仮面の遊戯・完】——




