第31話 嵐の前の静けさ
株主総会の前夜、東京はしとしとと秋雨が降っていた。
綾辻澪は、一人、オフィスの巨大な窓の前に立ち、窓の外の、雨でぼやけた街のネオンを見つめ、その手には、とっくに冷めたコーヒーが、あった。
明日が、決戦の日だ。
彼女の手には、龍園蓮がくれた、あのUSBメモリが握られていた。その中には、全ての敵を地獄へ送るに足る「弾薬」が、詰まっていた。
しかし、彼女の心は、決して、軽やかではなかった。
これは、単なるビジネス上の粛清ではない。むしろ、彼女自身の、あの、無邪気な過去への……完全な、訣別でもあるのだ。
明日を過ぎれば、あの、かつて彼女の成長を見守ってくれた「叔父様伯父様」たちは、彼女と、完全に、袂を分かち、不死不休の仇敵と、なるだろう。
そして、彼女もまた、守られるべき「お嬢様」から、真に……孤軍奮闘する女王へと、変わるのだ。
この道に、退路はない。
「トントン」
オフィスのドアが、そっと、ノックされた。
「どうぞ。」
ドアが開かれ、入ってきたのは、蓮だった。
彼は、どうやら、外から帰ってきたばかりのようで、ダークグレーのコートには、まだ、雨夜の寒気が、かすかに、残っていた。彼は傘を差していなかったのか、額の髪が濡れ、白い額に張り付いていた。それが、彼の、普段の知的な禁欲的な雰囲気に、どこか、野性的な色気を、添えていた。
「こんなに遅くまで、まだお帰りにならないのですか?」彼は彼女のそばまで歩み寄り、ごく自然に、彼女の手から、あの冷めたコーヒーを取り、脇に置き、そして、湯気の立つ温かいミルクを、彼女の冷たい手に、そっと、握らせた。
「眠れないの。」澪は温かいミルクのカップを手にし、その掌の温もりが、彼女の張り詰めた神経を、少し、緩ませた。
「怖いのですか?」蓮は、窓の外を見つめ、淡々と、尋ねた。
「怖い?」澪は、何か、可笑しなことでも聞いたかのように、振り返り、彼を見つめ、その瞳には、狂気に近い、輝きが、宿っていた。「なぜ、私が、怖がる必要があるのです?この日を……私は、もう、ずっと、待ち望んでいたのですから。」
長すぎて、一つの、生死を、超えたほどに。
蓮は、彼女の瞳にある、あの決意を見て、もはや、何も言わなかった。
彼は、この小悪魔が、既に、全ての爪牙を磨き上げ、ただ、明日の、獲物への、襲撃を、待っているだけだということを、知っていた。
「USBの中身は、全て、ご覧になりましたか?」彼は、話題を変えた。
「ええ。」澪は頷いた。「とても……見事でしたわ。私の想像を、遥かに、超えていました。」
「彼らは、自分たちが最も深く隠した秘密が、自分自身を刺す刃になるとは、思ってもみないでしょう。」蓮の口調は、平穏で、まるで、取るに足らないことを、話しているかのようだった。
「そうですわね」と、澪の口元に、氷のように冷たい、弧が、描かれた。「驚きは、最後に、取っておいてこそ、最も、刺激的ですもの。」
二人は、窓の前に、並んで立った。もはや、何も言わなかった。
窓の外は、風雨が吹き荒れる夜。窓の内は、二人の同類の間の、暗黙の了解のうちの、嵐の前の、静けさ。
彼らは二人とも、明日の、何が起こるかを、知っていた。
そして、明日から、全てが、変わることも、知っていた。
「龍園さん。」
長い時間が、流れた。澪が、不意に、口を開き、初めて、彼の、姓名を、呼んだ。
「はい?」
「明日……もし、私が負けたら、あなた、どうしますの?」彼女は、窓ガラスに映る、二人の、ぼやけた影を見つめ、小声で、尋ねた。
これは、探りだった。
そして、彼女自身も、気づいていない、かすかな、拠り所を、求める、合図でもあった。
蓮は、しばらく、沈黙した。
彼は、彼女の、あの仮定の質問には、答えず、代わりに、手を伸ばし、極めて、大胆な、行動に出た。
彼は、温かい指の腹で、そっと、彼女の、緊張と思案で、わずかに、ひそめられた眉間を、撫で平らげた。
彼の動きは、とても、軽く、優しく、人の心を、慰める、力があった。
「綾辻さん」と、彼の声は、静かな夜の中で、ことのほか、低く、はっきりと、響いた。「あなたは、負けません。」
彼は、彼女の目を見つめ、一字一句、区切って、言った。
「なぜなら、あなたの背後には、私が、おりますから。」
この言葉は、まるで、温かい流れのように、瞬時に、澪の心にある、最も柔らかく、また、最も冷たい場所に、突き刺さった。
彼女は、二つの人生を生きてきて、一度も、誰かに、このような言葉を、言われたことは、なかった。
彼女の父は、こう言っただろう。「澪、怖がるな、父さんが守ってやる。」
彼女の婚約者は、こう言っただろう。「澪、怖がるな、俺がいる。」
しかし、ただ、蓮だけが、こう言ったのだ。「あなたは負けない、なぜなら、私が、あなたの背後に、いるからだ。」
前者は、保護であり、囲い込みだ。
そして、後者は、信頼であり、肩を並べることだ。
澪の心臓が、制御不能に、激しく、鼓動した。
彼女は、目の前のこの男を見つめ、あの、深淵のような、人を吸い込むかのような瞳を見つめ、初めて、彼を……完全に、信じたい、という衝動に、駆られた。
彼女は、深呼吸をし、心に渦巻く感情を、抑え、冷静さを、取り戻した。
「結構ですわ。」彼女は頷いた。「では、明日、龍園顧問には、私が、あなた様のために、ご用意した……この、素晴らしい芝居を、とくと、ご鑑賞いただきたく存じますわ。」
彼女は、踵を返し、自分のバッグを手に取り、出口へと、向かった。
オフィスを出ようとした、その時。彼女は、足を止め、振り返り、彼に、輝くような、心からの、笑みを、見せた。
「龍園さん」と、彼女は言った。「ミルク、ありがとう。」
そう言うと、彼女は踵を返し、ただ、颯爽とした背中を、残して、去っていった。
蓮はその場に立ち尽くし、彼女が消えていった方向を見つめ、そして、自分の指先に、目をやった。そこには、まだ、彼女の肌の、きめ細かな感触が、残っているかのようだった。
彼の口元に、ゆっくりと、自分でも気づかないほどの、優しい、弧が、描かれた。
この、馬鹿正直な女め。
彼女は、まさか、明日のあの芝居の観客が、彼女一人だけだとは、知らないのだろうか?
そして、俺は……
彼女のために、全ての障害を掃き清め、そして、彼女に王冠を捧げる……
剣を、捧げる者だということを。




