第27話 制御不能な衝動
龍園蓮の言葉は、まるで巨大な石のように、綾辻澪の心の湖に、重々しく、投げ込まれ、荒れ狂う波を、引き起こした。
報復?
それとも……彼の「好意」を、受け入れる?
彼女は、彼の、差し出されたその手を、じっと、見つめた。
それは、節くれ立ち、細長く、力強い手だった。まさにこの手が、綾辻家を破壊するための、あの書類に、サインをしたのだ。そして、同じくこの手が、先ほど、彼女を救う命令を、下したのだ。
憎しみ、疑惑、悔しさ、そして、彼女自身も認めたくない、かすかな……動揺。
無数の感情が、彼女の心の中で、狂ったように、交錯し、引き裂かれ、彼女の全てを、引き裂かんばかりだった。
「どうしました?」蓮は、彼女の激しく変化する顔色を見て、その口調は、相変わらず、平穏だった。「選ぶ勇気が、ないのですか?」
彼の、挑発は、澪の心に張られた、あの、張り詰めた弦を、見事に、弾いた。
「誰が、勇気がないですって?!」
彼女は、勢いよく手を伸ばし、コーヒーテーブルの上の、あの医療用ピンセットを、掴み取った。
鋭利な金属の先端が、照明の下で、氷のように冷たい、寒光を、放った。
彼女は、目を真っ赤にし、まるで、窮地に追い詰められた獣のように、全身の力を、振り絞り、あのピンセットを、容赦なく……
彼の、手のそばの、あの消毒綿に、突き刺した。
「カチン——」
ピンセットの先端が、柔らかな綿の中に、深く、沈み込んだ。蓮の手の甲まで、わずか、一センチも、ない距離だった。
結局、彼女は、手を下すことが、できなかった。
澪の体は、この動作のために、激しく、震えていた。彼女は、まるで全身の力を、抜き取られたかのように、ゆっくりと、手を離し、顔を両膝の間に、埋めた。肩を激しく震わせ、抑えられた、砕け散ったような嗚咽が、喉から、漏れ出た。
「どうして……どうしてなの……」
彼女は、まるで道に迷った子供のように、何度も、何度も、呟いた。
彼女には、分からなかった。
彼女は、彼を憎んでいる。骨の髄まで、憎んでいる。
しかし、なぜ、先ほどの、あの瞬間、彼女は、手を下すことが、できなかったのか?
なぜ、彼の、あの、動じない瞳を見て、彼女の、とっくに鉄のように硬くなった心が、かすかな……不忍の情を、生じたのか?
蓮は、静かに、彼女を、見ていた。
彼女が、全ての偽りと棘を、脱ぎ捨て、内なる、最も脆く、最も無力な魂を、露わにするのを、見ていた。
彼女が、自分のために苦しみ、自分のために迷うのを、見ていた。
かつてないほどの、未知の感情が、蔓のように、彼の心臓に、絡みついた。
それは、罪悪感か?
胸の痛みか?
それとも……何か、別のものか?
彼には、分からなかった。
彼に分かっていたのは、ただ、彼女に、近づきたい、ということだけだった。
この、一人で、全世界に、立ち向かっている少女を、強く、強く、腕の中に、抱きしめたい、と。
彼は、そう思い、そして、そうした。
彼は立ち上がり、コーヒーテーブルを回り、彼女のそばまで歩み寄り、ゆっくりと、身を、かがめた。
彼は手を伸ばし、その動作は、極めて優しく、まるで、驚き、嗚咽する小動物を、慰めるかのように、彼女の頭を、撫でようとした。
「触らないで!」
澪の体が、激しく震え、無意識に、避けようとした。
しかし、今回は、蓮は、退かなかった。
彼は、反論の余地のない、優しい、力強さで、彼女の、あの、傷ついた手首を、握った。
「いい子だから」と、彼の声は、低く、どこか、掠れた、慰めの響きがあった。「傷は、本当に、手当しないと。」
彼の手のひらは、温かく、乾いており、薄い、長年ペンを握るか、あるいは銃を握ることでできた、たこがあった。
その温もりが、肌を通して、少しずつ、彼女の冷たい体に、伝わっていった。
澪の、抵抗が、ゆっくりと、止まった。
彼女は、ゆっくりと、顔を上げた。あの、涙に濡れた、赤く腫れた瞳が、まさに、何の備えもなく、彼の、あの、深淵のような、彼女の狼狽した姿を映す黒い瞳に、ぶつかった。
四つの目が、見つめ合った。
指呼の間。
空気は、まるで、その瞬間、粘り気を帯び、熱くなった。
アパートの中は、静かだった。ただ、互いの、抑えられた、交錯する呼吸音だけが、あった。
彼女は、彼の、金縁眼鏡の奥の、あの長いまつげを、はっきりと、見ることができた。
彼の、身に纏った、あの、白檀と、煙草と、そして、かすかな硝煙の匂いが混じり合った、独特の、男の匂いを、嗅ぐことができた。
そして、彼もまた、彼女の、目じりの、あの、きらりと光る涙の粒が、彼女の蒼白な頬を、ゆっくりと、滑り落ちるのを、はっきりと、見ることができた。
魔が差したかのように、彼は、もう一方の手を伸ばし、親指の腹で、そっと、彼女の、その涙を、拭ってやった。
ざらついた指の腹が、柔らかな肌を、滑り、電気が走ったような、微細な、戦慄が、走った。
澪の体は、完全に、硬直した。
彼女は、憎しみを忘れ、痛みを忘れ、自分がどこにいるのかを、忘れた。
彼女の頭脳は、真っ白になった。ただ、目の前のこの男の、あの、ますます近づいてくる、渦のような、深淵の瞳だけが、あった。
蓮もまた、制御を失っていた。
彼は、彼女の、あの、わずかに開き、涙の塩味を帯びた、嫣然とした唇を、見つめた。
理性の弦が、その瞬間、完全に、切れた。
彼は、思わず、頭を、下げた。
ゆっくりと、近づいて。
まさに、あの薄い唇が、彼女に触れようとした、その直前。
「ジリリリリ——」
けたたましい電話の呼び出し音が、まるで驚雷のように、静かなアパートに、突如として、鳴り響き、そして、危険な淵に沈みかけていた二人を、瞬時に、現実に引き戻した。




